【短編小説】一杯いいかな?
父とちゃんと話すのは何年振りだろう。
「結婚するんだ」
隣に座る美鈴を紹介する。
「そうか」そう言ったきり父は何も言わなかった。
「お世話になります」美鈴の言葉にも、軽く頷くだけだった。
「ごめんな、あんな無愛想な親父で」
自分が使っていた懐かしい部屋に入ると、途端に父のことが情けなくなって美鈴に謝罪した。
「そう? 私にはずっと微笑んでるように見えたけど」
「どこが? 何も喋らないから困るよ」
「お喋りなお父さんじゃなくて私は良かったよ。気を遣わなくていいしね」
どうやら美鈴は本気でそう思っているらしい。緊張が解れたのか、心底幸せそうな顔を浮かべている。
「それよりさ、今日はこの部屋で寝ていい?」
すぐに帰る予定が、美鈴の突拍子もない提案で一泊していくことになった。
父はそのことについても何も言わなかった。受け入れるでもなく拒絶するでもない。
どうしてこんな人と結婚したのだろうかと、ふと七歳の頃に他界した母の事を思い出した。
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母は父とは正反対の性格で、明るく優しい人だった。
いま思えば、自分があと少しの間しか生きられない事実を知っていて、それを受け入れ明るく振る舞える母はどんなに強い人だったのだろうと感心してしまう。
病気がちだった母は、僕が小学校に上がってすぐの頃、入院生活を余儀なくされた。
学校が終わるとすぐに母の病院に行き、父が迎えに来るまでの間、ずっと母の側を離れなかった。
その日に学校で起きた事を話すのが日課になっていた。
「お母さんね、毎日病院にいるでしょう? だから退屈なの。でもね、あなたの話を聞くと一緒に出掛けてるみたいな気持ちになってとても楽しいの」
そう言って笑う母の顔を見るのが嬉しくて。
そんな母が一度だけ泣いた時があった。
それは見たというよりも、聞いたという方が正しいかもしれないが、おそらくあの日父から余命を知らされたのだろう。
「少し外に出ていなさい」
その時の父の顔を今でも覚えている。
昔から父の事は苦手だった記憶はあるが、あの日の顔は忘れたくても忘れられない。有無を言わさぬ物言いだった。
まだ母と遊び足りない僕は渋々、病室の外に出た。しばらく病院内を散策したが、やはりというか、幼い子供が一人で時間を潰すのには限界があった。
散策に飽きて、病室に戻ろうとドアを開けようとした時、母のすすり泣く声が聞こえた。子供ながらに開けてはいけないような気がしたのだ。
父は何も話していなかったのか声はよく聞き取れなかったが、母の泣き声と嗚咽のような音だけが耳に残った。
しばらくすると、父が病室から出てきて、「帰るぞ」と素っ気なく言った。
父の横をすり抜けて病室に入る。母の目が少し赤くなっていた。
「お母さん、大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込むと、母は、無理矢理に作った笑顔をこちらに向けた。
「ごめんね? お外で待ってるの退屈だったでしょう?」
「ううん、いろんなお部屋があって楽しかったよ」
嘘を吐くと、「そう? 楽しかったの? ならお母さんも今度お散歩してみようかな。一緒に行ってくれる?」
「うん」
僕は力一杯うなずいた。そうすることが自分に出来る唯一のことだったのかもしれない。
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そんな母を亡くした時でさえ、父は涙一つ見せなかった。それどころか、隣で泣きじゃくる息子を慰めもしなかった。
普通の父親なら、せめて抱っこの一つでもして励ますであろうところを、父は何もしない。
そういう人だった。
あの時、父は何を思っていたのだろう。
自分のものだったはずの部屋はすっかり他人のような顔をしていてなかなか寝付けなかった。
喉の渇きを感じて、居間に降りるとまだ灯りが付いていた。
「酒、やめてたんじゃなかったっけ?」
父は口元に当てたグラスを離し、こちらを振り向いた。
「ああ」
肯定とも否定とも取れない微妙な返事を返す。
「ほどほどにしなよ」
そう言い残し部屋に戻るのを引き留めたのは、父の低い声だった。
「大事にしてやれよ」
踵を返し、父の顔を見た。
「ああ」
今度はこちらが微妙な返事を返してしまう。
「それと……」
父が視線を外した。ビールを一口煽る。
「美鈴さんより、先には死ぬな」
父の声が震えた気がした。
ああ、そうか……。ようやく合点がいった。
母の死に一番傷心していたのは父だったんだ。
息子を気遣うことも出来ないほどに心の中では慟哭していた。
それを隠す事が、息子に余計な動揺を与えないことだけが、あの時の父にできる精一杯だったのか……。
「ああ、わかってるよ」
わかってない。父のことをちゃんと知ろうとしていなかった。
今からでも遅くはないだろうか。
「俺も一杯いいかな?」
父は黙ったままビール瓶に手を伸ばす。
初めての父との乾杯は少しぎこちなかった。
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