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大藏のご先祖は…(下)
惟喬親王の伝承も高祖父の資料も、出所は滋賀県東近江市(旧永源寺町)です。ここは木地師と深い繋がりがあります。
惟喬(これたか)親王伝説
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/51020885/picture_pc_dae0465af82ddd6c11e72fb9cd6c734e.jpg?width=1200)
惟喬親王座像
旧 永源寺町は琵琶湖の南東に位置し、山深いところです。伝説によると、天皇の長子でありながら皇位を継げなかった惟喬親王は、この地に隠棲されたそうです。そして、里人や家臣(小椋、大蔵)たちに木地作りを教えたとされています。それで、ここが木地師発祥の地の地とされるのです。
そして、惟喬親王伝説にちなんだ神社やお寺など、町内にいくつか残っています。蛭谷(ひるたに)地区の筒井神社、君ヶ畑地区の大君木地祖(おおきみきじそ)神社がよく知られています。
氏子駆(うじこがけ)、氏子狩(うじこかり)
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/51021070/picture_pc_ccd7ac5c4c26f62ea0dd42c1005ae079.jpg?width=1200)
大皇器地租(おおきみきじそ)神社
木地師たちには、どちらも特別に崇敬される神社でした。木地師発祥の地に立つ神社であれば、それを生業とする木地師はそこの氏子であると考えられたからです。
そして、江戸時代に全国の木地師を保護.統括するとして、支配所(役所)が蛭谷と君ヶ畑の2か所に作られました。そこから支配所役人たちは全国の木地師を回り、どちらの役所に属するかを調べました。これが「氏子かり」と言われるものです。その時木地師たちは様々な名目で金銭の徴収もされました。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/51021193/picture_pc_f0a421f106534f4cbad08d346c3354b0.jpg?width=1200)
氏子かり回国先地図 東近江市役所発行
また、希望者には、職の縁起書や鑑札や通行手形を配布しました。親王伝説や神社などの書付は、木地師にとっては仕事を保護してくれる有難いものであり、また仕事への誇りともなっていったのでしょう。惟喬親王の伝説は史実としては不確かなようですが、自分たちの職業神として取り分け心強いものであったと思われます。
蛭谷の「氏子駆」は、正保4年(1647年)~明治26年(1893年)まで行われました。君ヶ畑の「氏子狩」は、元禄7年(1694年)~明治6年(1873年)まで。これら二か所の記録が、「永源寺町史 木地師編」としてまとめられました。そして、この資料集の中に高祖父の名があったというわけです。
林業遺産に登録
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/51021312/picture_pc_196ff333185b5c7292149c4407ad86e4.jpg?width=1200)
木地師資料館の近く、「木地師やまの子の家」でフォーラムが行われました
「木地師文化発祥の地 東近江市小椋谷」として、滋賀県の林業遺産に登録されました。令和元年には木地師林業フォーラム が開かれました。全国の木地師やゆかりのある人たちを小椋谷に集め、木地師文化の継承と魅力ある木工芸の創造、地域づくりの可能性について話す会合でした。
木地師文化を活性化すべく取り組んでいる東近江市(旧永源寺町)は、これからも木地師の故郷であり続けるのだろうと頼もしく思います。
次回は、「料理で発見…これも食育?」です。