わかろうとすること, わたしと他者, 断片との出会い
どうも、ネギヤンです!
メッシュワークの「人類学を学ぶゼミナール」がはじまり3週間。
毎週土曜日、計3回セッションがありました。
・ここまでどんなことをしてきたのか
・そのなかで感じたこと, 自分のなかで生まれた気づきや問い
なんかを、この記事では記せたらと思います。
ゼミってどんなことしてるの?
ざっくりいうと、人類学を実践的に学んでいく(=フィールドワークする)ための事前のインプットがここまで3回の主題かなと思ってます。
1回目のゼミは、情報提供として比嘉さん・水上さんのフィールドワーク体験記を紹介いただき、それをもとに「あーだこーだ」とディスカッション。
2,3回目は、3冊の課題図書について
①みんなで「あーだこーだ」したいポイント
②印象に残っている部分(引用)
を共有し、それらをもとにディスカッション。
課題図書は、これら3冊。
学習者8名・講師2名の計10名なのですが、普段やっている仕事や属性も様々。教育関係がフィールドなのはボクだけで、ソフトウェア開発、人事、UXリサーチャー(初めて出会った職種!)などなど。
その属性の多様さならではないろんな切り口からの問いをもとに話が転がっていく時間がとってもおもしろく、毎回「ハッ!」とする学び深い時間を過ごさせてもらってます。
印象に残っていること
ここまでのゼミをふりかえり、印象に残っていることをば。
他者を「わかろうとする」のは、タフなプロセスである
「自分ではない誰か」がもっている世界の見方をわかろうとするのが人類学だ、と、今は思っている。
「わかろうとする」と言葉で書くのは簡単だが、これがとてつもなくむずかしい、と、ここまでのゼミでのディスカッションや自分のサモアでの体験などを振り返って感じている。
では、なにがむずかしいのか?
ひとつは「自分のフレーム(ものの見方や価値観)を押し付けないこと」がある。
フィールドでは自分の範疇を超える「圧倒的な他者」との出会いがある。そうした場面で、自分のフレームの枠内で事象を捉えるのではなく、まずは「彼 / 彼女らはまったく別のフレームを持っているのかもしれない」と前提を疑ったり、「彼 / 彼女らは、どんなふうに世界を捉えているんだろう?」と想像力を持つことがなによりも肝要。
いわば『自分を定点化しない』というスタンスともいえるかも。北極星のような「ずっとそこにあって、たしかなもの」などは何もないという心の持ちよう。
課題図書であった「人類学とは何か」のなかにも、こんな記述がある。
「絶えず生成しつつある」この世界で、絶対的な世界の見方なんてものはない。
…と、頭ではなんとなくわかるものの、実際に「できる」かは別モノ。
自分の倫理観にからどうしても「許せない」ような事象との出会いもあるだろうし(サモアの体罰が自分にとってのそれだった)。
ここが一つのむずかしさなんだろうなぁ、とフィールドに入る手前の段階ながら予想する。
問いは可変であり「とりあえずの旗印」という前提
1回目のゼミのときだったかな。比嘉さんが言ってらした↑の趣旨の言葉がとても印象に残っている。
人類学では
1 問いを立てる
2 フィールドワーク(FW)する
3 他者と出会う
4 揺さぶられる
5 問いがアップデートされる ▶︎ 2に戻る
というプロセスを繰り返し探究していく(と、現段階では理解している)。
そこでは「答えを出すこと」よりも「問いを変容させていくこと」に価値を見出すことができる、という趣旨のことを話されていた。
なぜなら「フィールドでの出会いを経る前に立てた問い」が一気通貫で変容しないというのは、裏を返せば「自分のものの見方を再考することができていない」ということの表れだから。
思うに、この他者との出会いによる「揺さぶり」を通して、自分の問いを崩して立て直すプロセスを重んじるのが、ただの「観察」と人類学の「参与観察」の最たる違いなんじゃないかな。なんな積み木みたいやなあ。
ゼミセッションのなかで書き留めた
・何かと出会うことは、自分を相対化していくということ
・「計画通り進む」というのは「計画を越えられなかった」という証拠だ
という言葉もここに紐づくと感じている。
具体的で小さな「断片」との出会いが出発点
課題図書の1つであった「西太平洋の遠洋航海者」は、『クラ』と呼ばれる文化についてのシステムや体系・全体像を、徹底的な観察によって描き出している人類学の名著である。(と、偉そうに書いているけどちゃんと通読できてない…笑 今週読みます。)
そうした(異なる文化の)「全体」を捉えるためには、まず『断片』から、つまりフィールドで出会う『ちょっとしたこと』や『違和感』『他者とのズレ』にいかに反応し、情報を収集していけるかがポイントだという話を聞いたのが印象深かった。
スティーブジョブズの「connecting the dots」がイメージに近いなと感じてる。点と点が繋がることで、全体像が浮かび上がってくる。星座のイメージにも近い。コンステレーション。
これってまさにジェネレーター用語でいう「雑のアーカイブ」だなあって。
点と点を繋ぐ(コネクトする)ためには、当たり前だけど「たくさんの点」が必要になる。だから、その点を集める(コレクトする)ことがめっちゃ大事。「connecting the dots」の手前には、「collecting dots」がある。
じゃあ、そうした日常に転がっている「断片」にどうすれば気づけるようになるのか?
ひとつは、好奇心。ふたつめは、「わからない」ことをちゃんと「わからない」と思えるアンテナ。それらを伸ばしていきたいな。この半年間のテーマ。
気づいたこと・今浮かんでいる問い
「人類学的視点」は、OSみたいなもんなのではないか
「『社会教育』はOSみたいなものじゃないかな」と、尊敬する身近な先輩(というか師匠?しょうごさんのことってなんて表現したらいいんだろ笑)が言っていたことと、メッシュワークさんの掲げる「『人類学者の視点』をインストール」というフレーズが重なっている。
How to 的な技術ではなく、身近な物事や日常を捉える切り口や発想が、自然と「そういうふう」になっていくという感じ。まだあんまりうまく言語化できないけど
課題図書のこの部分も繋がってる気がしている。
日常にある「『他者』との出会い」を見逃してはいないか?
同じく課題図書より。
この部分を読んだりディスカッションを通して気づいたのは、ボクは後者の「わたしたち | よそ者」という境界線には敏感だけど、「自分 | それ以外のすべての人たち(他者)」という境界線に鈍感だなあ、ということ。
もうすこしいうと、「属性や話す言語が共通していれば、だいたい同じような価値観や前提をもっているだろう」と思い、安心(あるいは怠けて)人と接している、ということ。
「自分とそれ以外のすべての人たち(他者) では、ものの見方が異なる」ってよくよく考えると当たり前のことなんだけど、忙しない日常を過ごしているとそんな当たり前のことでもフッと抜けてしまいがちではないか。そこでいちいち立ち止まっていたら、めんどくさいから。少なくとも自分はそうだと感じている。
重ねてになるけど、好奇心と「わかっていない」を感じ取るアンテナ。これらを伸ばしていきたい。どうすればいいだろう?
今の自分にとって、少しでも知りたい・わかりたいと思う疑問って?
このゼミは、2月までの半年間で実際にフィールドワークをしながら実践的に人類学を学ぶ講座。なので、自分の「フィールド」あるいは「テーマ」を決めなきゃならない。
うーーーーーーん、どうしようかなあ…
「『境目』とか『境界線』がどのように日常に表出しているか」に関心がある気はしているんだけど、果たしてそれは「なにとなに」の境目なのか。
あるいは、もっと自分のシゴトや生活の現場に目を向けたテーマ設定をしたほうがよいのか。
悩ましいなあ。定まるまでにもう少し時間がかかりそう。
今週末はオフラインでの集い!
ひとまず、今週末はオフラインでのゼミがある!
TOKYOは「目黒」を舞台に、実際にフィールドワークをしよう!というプログラム。
どこに焦点を当ててみようかな。こちらも悩ましい。
とりあえず、オンラインで顔を合わせていた学習者さんや講師のお二人にお会いできるのがめっちゃ楽しみ!
長くなっちゃいましたが、ここまでのボクの学びの軌跡はこんな感じです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!
ほなまた!
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