きみのいのちは風に乗って
夫が大切に育てているトマトの苗を、根っこから引きちぎってしまった。
よく眠れた日曜朝の11時だった。
寝起きのテンションで「元気よくいこうぜ」と、猫背気味の茎をちょいと持ち上げたら、そのままプチッと抜けてしまった。
うそだろ?
そんなことってある??(3歳くらいで学ぶやつ)
人間暮らしも中堅にさしかかってきたこの頃、自分の愚かさにがく然とした。
「小学生の頃、通学路にトマト売りのおじさんがいてさ。親に強請るとそれだけはいつも買ってくれたんだ」
いつの間にかいなくなったおじさんのあの甘いトマトが忘れられない、と彼は言う。
親鳥のように胸ポケットで種をあたため、根が出れば喜び、ポットの土に植えてからは毎晩成長を眺めていた。収穫の夏を夢見ていた。
やばい。これはヤバい。
というかもう、あとの祭りでどうしよう。
13歳の春、精神科の思春期病棟にいた。
「まぁちょっと休んでいけば」とイケメンと評判の医者は言った。
今なら病棟に空きがあると聞き、骨折した人を見てギプスかっこいい!と憧れるタイプの子どもだった私は胸がときめき。
本人は与えられた小部屋に「ホテル暮らしみたい!」と旅行気分でぶち上がり、周囲はそんな様子のおかしい娘を正しく心配した。
家中にある薬を片っ端から飲んだらどうなるのか、それは人体実験に近い試みだった。
週に一度の面談以外はすることもなく、私はしょっちゅう500円玉を握りしめて院内喫茶へパフェを食べに行った。
ミルクボーイがいたら激怒しそうなほどかさ増しされたコーンフレークに、おもちゃみたいなクリームとチョコソースのかかったチープな一品。
それでもおやつがパフェなんてお嬢様っぽい!とうっとりした。
「いい食べっぷりだなぁ、見てると幸せになれるよ」
食事にバナナが出た日は、何も言わずとも「これあげる」とみんなが私のトレイに乗せていく。年上に囲まれると、当然のように最年少の末っ子は可愛がられる。
食堂帰りの私はいつもパーカーの前ポケットをパンパンにして、バナナ王として君臨した。
毎日、祭りのようにガラナばかり飲んでいた。
「あの子、死んじゃったんだって」
ある日朝食から戻ると、談話ルームが騒然としていた。
「本当に死ぬ気はなかったと思う。心臓が弱ってたんだって。本人もそんなつもりなく、うっかり死んじゃったんじゃないかな」
先生がお葬式にいくらしいよ、と誰かが言う。
今度遊ぼうねって言ってたのに…ひとりが床に泣き崩れた。
え?
あの子ってあのこ??
なんで???
退院した子が、外来ついでに遊びに来ることがよくあった。
あの日は確か、髪のお手入れについてあれこれ話していたんだっけ。彼女は綺麗な黒髪で。
頭から水をぶっかけられたような気がした。
私が今いるのはどこなのか、自分が一体何をしてここにいるのか初めて思い至った。
目隠しを外せばそこは断崖絶壁で、崖の先端ギリギリに片足で立っている。
この世界で人は、うっかり消えてしまう。
外来へ向かう廊下に目をやると、天気の良い日で、光が白いリノリウムの床に反射していた。
「ほら、立って」
看護師さんがやって来て、まだ地面に伏せてしゃくり上げている子の肩を抱き起こす。
「泣かない泣かない。あなたは別に仲が良かった訳じゃないでしょう?」
わたしは一度だけ、直接言葉は交わさなかったと思う。
あの子は17歳で、黒髪ロングヘアで、笑顔が可愛い女の子だった。
芽吹いて間もない、ちぎれた苗を恐る恐る差し出した。
事の顛末を聞いた彼は少し黙って、それから、しょうがないねと言った。
「どんなに気をつけていても、大きくなれなかったり、そもそも芽が出ないことだってあるんだから」
あなたが苗を日に当ててくれてたの知ってるよ、私の頭に手を乗せ
「悲しいね」
その瞬間、ぽろりと涙が零れた。
夫は「ボヘミアン・ラプソディ」のあらすじを自分で説明しながら嗚咽する。ショッピングセンターへ行けば、乳児用靴下を見るだけで「こんなに小さい子が一生懸命生きてるなんて」と言って泣く。
最初は仕事が大変でどうかしたのかと思ったけど、ある日ポケモンを歌いながら泣いてるのを見た。これが通常運転なのだと悟った。
(「いつでもいつもホンキで生きてるこいつ達がいる」の部分で声を詰まらせる)
涙腺がバグっている人を毎日見ているせいか、気づけば私もよく泣いている。
体の水分を入れ替えるように、ブサイクな顔でダバダバ涙を流す。咎める人は誰もいない。
地球にある全てものは循環しているのだという。
枯れた植物は土に還り、そこに種が落ちてまた新たな花を咲かせる。その花はまた種を飛ばし、風に乗って遠くまで運ばれていく。
山になり川になり海となり、また別の物質としてのいのちが始まる。
地球上にいる動物も植物も鉱物もみんな、何億年も前からずっとそんな風に、この星の一部として延々と循環している。死んで消えたように見えて、実は形を変えているだけ。
それを聞いたときには、途方もない気持ちになった。
じゃあ、地球がある日突然爆散しない限り、自分もこの地に溶けて在り続けるってこと?
もしかしたら私の体をつくっている細胞の一部は、遠い昔アフリカの木だったかもしれない。
部屋にかけた麻のカーテンと私は、前前前前前前×10世あたりで同じ白ウサギの細胞としてご一緒していたかもしれない。
「千の風になって」が流行ったとき、葬式で笑い転げるような不謹慎な可笑しみに苛まれたのだけど、なんてよく出来ているんだろう。
いのちの重さ、と言うけれど。
それは本当のところ、人が誰かを想う気持ちなのかもしれない。
もしも死後に地獄があって、リサイクルされない魂が収容されていくなら、私はそこをテーマパークに変えてやると思う。
自殺は罪という説にならえば、死にそびれた私もきっと地獄行きじゃない?
あんなに可愛い子が辛い目に遭うなんてけしからん。
でもたぶん、きっと彼女はこの地球上でまた可愛いものに生まれ変わり続けている気がする。
安心して生きて、死のう。
どうせなら、私にもあの子にも楽しい思い出がたくさんあったらいいと思う。
【追記】
千切れたトマト、なんと復活した!!植物のバイタリティーヤバい。
根っこが無くなっても土に刺しておくと根が出て育つ可能性あり。感謝。
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