うまく生きることに苦戦するすべての者にささげる人間賛歌―『テッド・ラッソ season1』
見終わった瞬間、見る前よりも悩みながら不器用に生きていくことを全肯定された気持ちになる。
主人公はアメリカの大学でアメリカンフットボールの監督をしていたテッド・ラッソ。突如イングランド・プレミアリーグのAFCリッチモンドの監督に就任することになる。
サッカーのルールも知らないテッドのマネジメントと采配によって、チームも個人もテッド自身も変化が起きていく様を描いたコメディドラマだ。
1.「ケア」する監督、テッド
テッドが選手やフロントなどチームの一員に対するアプローチは一貫している。
出会う人すべて皆、名前を持った人間として尊重する。相手を信じる。仲間が困っているときは助ける。相手が自分の思い通りになることを期待しない。相手が自分に与えた良い影響に目を向ける。誤ちは許し合う。希望を捨てない。
たとえば誰からも相手にされていなかった用具係のネイトを真っ先に名前で呼び自分たちの仲間であることを示し、戦術面で彼の意見を求めてそれを採用するなどして、本当の意味でチームの一員にした。
テッドは周りの人間に対してとにかく手を差し伸べる。でも相手がそれを無下にしても怒らない。ちょっと動揺するが「そういうこともあるよね」とひょうひょうとしている。
彼は相手を信じているが、決して思い通りになることに期待してはいない。でも信じているから何度も手を差し伸べる。ここにテッドの人間性の魅力が詰まっている。
彼はとにかく「ケア」の人である。監督としてテッドが果たした大きな役割はクラブの人々を信じ、寄り添ってケアすることだった。その対象は選手はもちろん、フロントやオーナー、さらには退団した選手にも及んでいる。
このドラマではテッド自身も本来は「ケア」される必要のある人物として描かれている。家族との関係に問題を抱えており、その影響で所々心身に影響をきたしてるシーンが見られる。そんなテッドも周りの人たちによってケアされる描写もある。
だが僕にはテッドが周りをケアしてるほど、テッドは周りにケアされていないようにも見える。もっと正確にいうとテッドは周りのことを直接ケアしているが、周りはテッドのことを多少直接ケアしつつも、多くは間接的なケアな気がする。
周りを気にかけてる人ほど、周りから大丈夫な人と思われて向こうから気にかけられないなんてことは現実世界でもある話だ。season2以降はテッドがどのようにケアされていくのかも気になる。
2.テッド・ラッソと玉置浩二の共通点
この作品、そしてテッドを見ていると「生きていること」そのものが素晴らしいことであり、それだけでもいいんだと肯定される。見るだけで自己肯定感が上がった気になる作品である。
僕はテッドを見ていると玉置浩二を思い出す。彼のことを歌は上手いけど、性格に難があるトラブルメーカーだと思っている人も多いかもしれない。
だがトーク番組に出演しているときの彼はとにかくサービス精神が旺盛であり、楽しそうに話し、何より心から人間を愛してる。その様子はアプローチは違えども僕はテッドと重なる。
玉置浩二は作詞も作曲も手がける。彼の書く詞は人間讃歌をうたいあげるものが結構ある。その中でも代表的なのが『田園』だ。この曲も「生きている」ことをそれでいいと肯定するものだった。
僕にとって『テッド・ラッソ』を見たときと、『田園』を聞いたときの心の満たされ具合はそっくりだった。
3.誰かに見くびられてるすべての人間に授ける福音
一番心に残ったセリフがある。元オーナー(現オーナーの元夫。これがまた周りに好かれるし物腰柔らかいイヤな奴である)とダーツ対決をしているときにテッドが言った言葉だ。
この言葉を聞いたとき、思わず震えが走り涙がこぼれそうになった。
「あ、自分なめられてるな」と感じた経験はないだろうか。自分にはある。過去も現在もそしておそらく未来も。人間としてなめられることもあれば、男性としてなめられることもあれば、仕事の役目としてなめられることもある。
声を大にして言っておきたいのは、なめられる経験がわりとある人間は、相手が自分をなめてるかどうかもよく分かるということだ。
そしてなめられたときに何くそとそれを怒りに変えられる人間だったらいい。でもなめられているのは自分が原因にあると思って怒りを封印する人間だっている。僕自身がそうだ。
自分が下手くそだから、自分が男らしくないから、自分が間抜けだから、自分が、自分が、自分が。その認識が本当に合ってるのか分からないのに自分を責め続ける。
テッドの言葉が過去の自分に届いてくれないだろうかとつい思ってしまった。season2以降もどんな言葉が頭をぐちゃぐちゃにしながら生きてる誰かを救ってくれるのだろうか。
4.いま必要なのは信頼できる語り手である
最後に作品とは直接関係ないがひとつ思ったことを。
僕には「この人がおもしろい、おすすめと言うコンテンツは(見たり読むかはわからないが)とりあえず調べてみよう、手に取ってみよう」と思う信頼できる語り手が数人いる。もちろん彼らに許可は取ってない。それは有名人もいれば知人もいる。
ここ数ヶ月、その信頼できる語り手たちが軒並み「『テッド・ラッソ』がおもしろい」と相次いで紹介していた。まさにテッド・ラッソプレッシングだ。
中でもある知人は「僕(の性格や考え方)に合う」という理由でこの作品を何度も何度もすすめてくれた。僕は基本映像作品をほぼ見ないが、この知人の言葉が見る最後の決め手になった。
そして実際に『テッド・ラッソ』は僕に合ってた。心を震わせてくれた。
これだけコンテンツや楽しみがあふれている現在、必要とされてるのは「(自分にとっての)信頼できる語り手」だと思う。しかしそういう人物は探そうとしてもなかなか見つからない。
改めて僕は信頼できる語り手たちに、そして出会えた自分の幸運に感謝したいと思った。まだまだ、まだ見ぬ語り手を見つけたいし、自分も誰かの信頼できる語り手になれるように精進したり、コツコツ読んだ本や見た作品を紹介していこうと思う。