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ミハイロ・ペトロヴィッチとは何者だったのか?―札幌での7年間を見届けて

 北海道コンサドーレ札幌のミハイロ・ペトロヴィッチ(ミシャ)監督が退任を発表した。間違いなくクラブ史に名前を残す監督である。分かりやすいキャラクターでありながら、未だにいくつかの問いを残す彼の実像を、7年間見届けてきたコンササポがあらゆる角度から考えた。

※こちらは、2023/12/11に投稿した以下の記事を全面的に加筆・修正を加えて新たな記事としたものだ。
https://note.com/nega9clecle/n/ne86d156de24f


1.僕はまだミシャを何も知らない

 2024年12月4日、コンサドーレはミシャ監督が退任することを発表した。J1最高順位(4位)、ルヴァンカップ準優勝、そしてJ2降格を置き土産に老将は7年間過ごした北海道を去ることになった。

 最後が降格で終わったとはいえ、コンサドーレへの貢献度の高さは疑いようもない。クラブ史にいつまでも名前を残す監督だろう。

 ミシャが率いるコンサドーレを見届けてきた7年間、頭の中でずっと消えなかった問いがある。

「ミハイロ・ペトロヴィッチとは何者なのだろうか?」

 メディアを通して伝えられるミシャは、一見すると分かりやすいキャラクターだ。

 「超攻撃的サッカー」、「ポリバレント」、「オールコートマンツーマン」、「チームはファミリー」、「サッカーが上手くなる」といったキャッチ―な言葉が並ぶ。

 それらの言葉は、どんな人でもミシャのイメージを分かったような気にさせてくれる。

 だがその言葉の裏を考えると疑問が残る。

 「そもそも『攻撃的』とは何なのか?」、「なぜミシャの元でプレーするとみな口を揃えて『サッカーが上手くなる』と言うのか?」、「『サッカーが上手くなった』のになぜチームは結果が出ず、選手個人も代表やヨーロッパで輝かないのか?」。

 「ミシャすごい!」だけでは解けない問いがいくつも浮かぶ。

 2006年にサンフレッチェ広島の監督に就任してから、ミシャ自身が取り組んでいるサッカーが少しずつ変わっているのは間違いない。一方で「ミシャのサッカーは分かりきっており研究され尽くした」という声もある。

 だが仮に研究され尽くしたとしたら、彼がここまで日本でキャリアを続けられているのはなぜだろうか。J1から降格したのは2007年の広島、そして2024年の札幌の2回だけだ。

 これらの疑問を考えるとき、本来ならばピッチ内で起きていることを観察して考えるのが王道だ。戦術分析である。

 この記事では戦術分析は行わない。それは得意なサポが大いにやってくれたらよし。僕のように得意じゃない人間が無理にすることではない。と、今回は思い込むことにする。

 スパイ、つまり情報機関の世界では「知りたいことの9割は公開情報で手に入れることができる」と言われているそうだ。秘密の情報というのは意外と少ない。誰もがアクセスできる情報だけでも解消できる謎は多いのである。

 今回僕もこれにならい、ニュースや会見でのミシャや選手たちの話、自分が応援していて感じたこと、他分野も含めた様々な文献を参照してミシャにせまっていきたい。

 目指すはミシャを「ピッチ外に転がる文脈」で読み解くことだ。

 実態を知る者からすると、まったく違う答えだったり考えすぎてとんちんかんな方向に話が進んでいるかもしれない。それは僕の思考の限界、得られる情報の限界であろう。

 だがクラブや選手からの公式見解を絶対視するのではなく、それをふまえて自分なりに考えをふくらませることもサッカーの楽しさだと僕は信じている。

 現に今回、僕はミシャのことを改めて考えるのがとても楽しかった。

2.「攻撃的サッカー」とは、たくさんゴールを決めることだったのか

 ミシャが監督に就任してからのコンサは「攻撃的サッカー」(あるいは「超攻撃的サッカー」)が代名詞となっている。

 ミシャ本人が声高にこの言葉を連呼しているわけではないが、クラブの経営陣やメディアが積極的に使っている。コンササポにもかなり浸透している様子だ。

 「攻撃的サッカー」という言葉にどんなイメージを浮かべるだろうか。なんとなく頭に浮かんだイメージを、他の人も同じように浮かべていると無意識に思い込んではいないか。

 一番浮かびやすい「攻撃的サッカー」のイメージは「ゴールをたくさん決める」や「(ゴールチャンスになる)シュートを数多く打つ」あたりだろう。

 たしかに経営陣もメディアも、ゴール数やシュート数を「攻撃的である」と証明する材料に使っている。

 他に「ボールを支配して相手にボールを渡さない」というイメージがあるかもしれない。ボール支配率を用いて「攻撃的」だと示すケースもある。

 仮に来季のコンサドーレが史上最も多くのシュートを打ち、ゴールを決めた姿を想像してほしい。まさに「攻撃的サッカー」にふさわしそうなチームである。

 ではこのような成績を、9人で自陣に引きこもって守備をし、誰も止められないようなスーパーなFW1人が一人で突破してゴールを荒稼ぎするようなサッカーで残したらどうだろう。

 そんなサッカーを僕らは「攻撃的サッカー」と果たして呼ぶだろうか。

 ボール支配率の話をする。ボールを支配していても、なんとなく「攻撃的」な感じがしないコンサの試合を我々は何度もみているはずだ。自陣でボールを回してる時間帯が長いときである。

 そのプレー自体が悪なわけではない。でも「攻撃的だ!」とみんながイメージするかは別の問題だ。

 そもそもボールを支配していなければ攻撃的になれないのだろうか。

 だとすれば相手チームがボールを持っているとき、コンサドーレは絶対に「攻撃的サッカー」ができないことになる。本当にそうだろうか。

 おもしろいことに過去のミシャの試合後コメントを読むと、ボール支配率が相手より低い試合でもミシャが内容に満足していたりする。いったいなぜなのか。

 もしかすると、ミシャの考える「攻撃的サッカー」とは、ボールを持つ持たない関わらず実現できることなのではないだろうか。

 シュートもゴールも本質ではない。「攻撃的サッカー」が実現した結果として、ゴールやシュートがあるだけだ。それらは「攻撃的サッカー」を実現する条件ではない。

 ここでアヤックス、バルセロナ、オランダ代表、マンチェスター・ユナイテッドなどを率いたオランダの名将、ルイス・ファン・ハールに登場してもらう。

 彼の考える「攻撃」について、ジョナサン・ウィルソン『バルセロナ・レガシー』には以下のように記されている。

マンチェスター・ユナイテッドを筆頭に、ファン・ハールのサッカーは攻撃的とは程遠いと主張する人はたくさんいるが、「攻撃」という単語はサッカーにおいてはあいまいなものである。最もスリリングなゲームとは、攻められていたチームがあっという間に攻撃に転じるカウンターアタックである。ファン・ハールにとって攻撃とは、ボールを保持するにもプレスでボールを奪い返そうと狙うにも、常に積極的な姿勢で向かうという意味なのだ。

ジョナサン・ウィルソン『バルセロナ・レガシー』p56

 攻撃は英訳すると「attack」だ。僕らはゴールにattackすることが攻撃だと思いがちである。

 でもファン・ハールにとっての攻撃はどんなときもボールにattackすること、積極的にボールに関わることを指す。積極的にボールへattackした先に相手ゴールがあり、得点がある。

 自分たちがボールを持っているときは、すべての味方がどのように動けばボールに関われるか意識してプレーする。

 相手がボールを持っているときは、積極的にボールに関わる、つまり能動的にボールを奪いに行く姿勢をみせる。

 このファン・ハールのあり方は、ミシャの「攻撃的サッカー」の考え方と通ずるものがあると思う。偶然にも両者はヨハン・クライフの影響を受けた監督だ。

 この考えに沿えば、ボールが相手に支配されていても奪い返すときの姿勢が「攻撃的」か否かの基準になる。

 自陣に押し込まれてた状態でも、最終ラインの岡村選手が冷静な判断から勇気を持ってラインを上げてボールを奪えば「攻撃的」なのだ。

 相手よりも積極的にボールに関わることは、ボールを持っていても持っていなくても能動的にゲームをコントロールしようとする姿勢につながる。

 そうやって90分間ゲームを支配し続けることがミシャの考える「攻撃的サッカー」の最終目標ではないだろうか。

 ジョナサン・ウィルソンが書くように「攻撃」という言葉はサッカーにおいてあいまいなものだ。

 あいまいだからこそ「攻撃的サッカー」は、さも理解したように思えちゃうし、理解してないようにも思える不思議な言葉である。

3.勘違いされた「ポリバレント」の意味

 ミシャがコンサを率いてから本人やメディアから聞かれるようになった言葉が「ポリバレント」だ。

 日本人の多くは、ポリバレントを「複数ポジションができる」というニュアンスでとらえているように感じる。

 だから僕らもあらゆるポジションができる荒野選手や駒井選手のことをまさに「ポリバレント」だと評するのだ。

 ミシャが影響を受けた監督にイビチャ・オシムがいる。彼はユーゴスラビア代表、ジェフ市原、日本代表などで監督をつとめた名将だ。ミシャとはSKシュトゥルム・グラーツで監督とコーチの関係だった。

 オシムはインタビューでポリバレントについてこのように語っている。ポリバレントではなく、ポリバレンスという言葉になっている箇所もあるがニュアンスは一緒なので気にしないでほしい。

サッカーでポリバレンスというと、私の思うところでは、走り、フィジカル、テクニカルの面で最高レベルであり、メンタル面であらゆるシチュエーションに対応できること。ポリバレントな選手は、どのポジションでも使える。

シュテファン・シェンナッハ、エルンスト・ドラクスル『オシムが語る』より

 オシムの考えるポリバレント(な選手)を僕なりにざっくりまとめると、以下の5点になる。

(1)走力が最高レベル
(2)フィジカルが最高レベル
(3)テクニカルが最高レベル
(4)あらゆるシチュエーションに対応できるメンタル
(5)どのポジションもできる

 整理してみると彼のいうポリバレントは「すべての能力が高い」ことにならないだろうか。六角形のグラフがパンパンにふくれあがったような選手だ。

 つまり「サッカーがめっちゃできる選手」こそ、オシムのポリバレントである。多くの役割をこなせることではなく、能力の高さに主眼をおいている。

 彼に影響を受けたミシャにとっての「ポリバレント」も、その解釈とまったく異なるとは思えない。

 それをふまえて2023シーズンのキャンプ前にミシャの語った話を読んでみたい。

FWの選手が中盤になったり、中盤の選手がDFになったり、DFの選手がFWになったり。より選手が流動的に、どこでもできるようにもっていきたい。練習試合の時に、センターフォワード・岡村大八、トップ下・田中駿汰、そんなことがあり得るかもしれないし、駒井と深井が3バックをやっているかもしれない。攻撃的な選手がストッパーをやったら守備の能力が上がるだろうし、守備の選手が攻撃的なポジションをやったら攻撃の能力が上がるだろう。そうした選手の能力を高めていくような試みをしていきたい」

来季は選手の新たな一面を引き出す 年末特別インタビュー連載《ミシャイズム再考》②より

 このミシャの言葉を「複数ポジションをこなせるようになる」という解釈ではなく、紹介したオシムの解釈にそってミシャの真意を考えてみよう。

 すると「複数ポジションができる」ことは、ポリバレントになることではなく、ポリバレントになるための手段の一つということに気がつく。

 「ポリバレント性を増す」とは、選手の能力を高めるということだ。

 攻撃の選手は守備能力を上げ、守備の選手は攻撃能力を上げる。そうやって能力がバランスよく高い選手を育てていく。

 そのためにミシャは選手にあらゆるポジションをやってもらい、バランスよく能力を上げようとするのだ。

 「ポリバレント」は簡単に言えば「能力がすごく高い」という意味合いでしかない。能力が高ければ、試合に勝てるようになり、成績もあがる。ミシャは当たり前のことを言っているだけなのである。

 何も特別なことではない。でも頭に残る言葉だ。だからこそ「ポリバレント」はミシャを象徴する魔法の言葉のひとつとして印象づけられている。

4.練習を全部公開できる本当の理由

 ミシャ体制のコンサの大きな特徴に、基本的に練習を全公開していることがある。

 現在、世界中を見渡すと多くのクラブは練習をほとんどを非公開にしているようだ。簡単に研究されてしまうからである。

 練習を見ればチームのやりたいことやチーム状況が丸裸に分析されてしまう。分析をもとに対策されて試合にのぞまれればチームは勝てず結果を残せない。

 チームの一番の仕事は勝つことだ。だから非公開は仕方がない。

 日本でも練習見学しているサポーターが練習内容や参加してるメンバーをSNSで発信するとやんや言われるなんて話がある。

 反町康治・清水エスパルスGMが監督をしていた頃の伝説として、「対戦相手のサポーターが練習見学したときのSNSの発信もチェックしている」なんて話もあるらしい。

 反町伝説の真偽はさておき、このエピソードから分かるのは「プロの監督やスタッフならば、相手チームの練習に関する断片的な情報でも分析のヒントにする力がある」ということだろう。

 そう考えると、コンサが行っている練習全公開は自殺行為に等しい。仮に公開された練習の様子を他のチームの人間が知れば完璧に分析される可能性があるからだ。

 だがミシャは練習を公開し続ける。そこには次のような思いがあるからだ。

「他のクラブでは1週間で1、2日程度の公開練習や、非公開を貫くクラブも少なくない。コロナも理由に『秘密主義』が進んでいるんじゃないですか? 私にとってサッカーは見る人あってのスポーツ。いかにお客さん、サポーターを大切にするかだと思っている」

J1札幌、ペトロヴィッチ監督が大切にしてきた練習公開…コロナ禍で加速?「秘密主義」へ名将からの言葉

「対戦相手の試合だって、毎試合見ていれば、どこにどの選手がいて、どんなサッカーをしてくるかは大体分かってくる。どこまで隠す必要があるのか、練習にどれほどのサプライズがあるか。私はできるだけサポーターと近い距離で、サポーターに(プロの)トレーニングを観て楽しんでほしい」

J1札幌、ペトロヴィッチ監督が大切にしてきた練習公開…コロナ禍で加速?「秘密主義」へ名将からの言葉

 日本にサッカー文化を根付かせるため、サポーターを楽しませるために練習をすべて公開する。なんて素晴らしい考えなのだろうか。

 現に宮の沢の練習場にいくと、ミシャの願い通り老若男女のコンササポがプロの練習を楽しんでいる。

 ……本当にそうか???

 もちろんミシャの発言に偽りがあるとは思っていない。本気でそう思っているのだろう。

 ミシャが「見ていて楽しいサッカー」を表に出すことで、勝ち負けを大事にする印象が薄くなり、「サポを思って練習公開してる!ミシャすごい!」というイメージを与えている。

 しかし、この7年間真面目にミシャの振る舞いや言葉を見続けていたコンササポにはわかるはずだ。

 おそらくコンサドーレの中で最も負けるのが大嫌いなのがミシャであることに。誰よりも負けるのが大嫌いな男が、負ける確率が上がるかもしれない行為をサポのためとはいえ行うだろうか。しないだろう。

 ミシャが練習を公開する根っこにある理由は単純明快だ。「練習公開しても勝つ自信がある」。これだけである。

 彼のコメントに「対戦相手の試合だって、毎試合見ていれば、どこにどの選手がいて、どんなサッカーをしてくるかは大体分かってくる。」という話がある。

 素直に読み取れば「試合をずっと見ていたら互いに対戦相手を分析することは容易。練習を公開しようがしまいが丸裸にできてしまう」という話に思える。

 ミシャからすれば「サッカーは分析されてからが本当の勝負」なのかもしれない。

 そこで彼がコンサドーレに来てから取り組んでいるマンツーマンの話につながる。要は「最終的にみんなが1vs1で勝てば、何もかもひっくり返るよね。勝てるよね」ということなのだ。

 分析されても結局は選手一人ひとりが自分の力を発揮して、相手選手を上回れば勝てる。それがサッカーなのである。

 もう一つ、突拍子もない想像をしてみる。

 ひょっとしたら、練習を全部見てもコンサドーレを分析で丸裸にすることは不可能なのではないだろうか。

 ちょっとした思考実験をはさもう。

 例えば1ヶ月間コンサの練習をずっと観察し続け、練習内容を完全にマスターしたコーチがいたとする。

 その人が自分のチームでまったく同じ練習、同じアプローチを行ってもミシャのチームとは似ても似つかないチームになる。コピーに近いものが絶対に作れない。それがなぜかは細かく分からないけど。

 広島時代、ミシャの元でコーチをつとめた森保一・日本代表監督は次のような証言を残している。

ミシャさんは本当に天才で、頭の中にすべてのことが入っていて、デイリーのスケジュールは何をやるかも決まらないというか、ミシャさんの中では決まっているかもしれないですけど、練習メニューも当日になってみないとわからないですし、その中でコーチはいろいろなことに対応できないといけないことを学びましたし、それが当たり前だと思っていました。

土屋雅史『蹴球ヒストリア』p329

 広島時代からもう10数年経っており多少なり変化はあるかもしれない。でも人間の本質はそう変わらない。森保さんの言葉にはミシャの本質がつまっている。

 ミシャの描いている絵やプランの全体は彼の頭にしかない。秘伝のタレのレシピは彼の脳内にしか存在しないのだ。頭の中は公開されないので完全にコピーできない。

 この想像の最大で最悪の問題点はその秘伝のタレが何かがまったく分からないことである。仕方ないので分からないものは置いておこう。

 経営学者の楠木建さんは、優れた経営戦略について『ストーリーとしての競争戦略』で次のように書いている。

しかし、個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。それらがつながり、組み合わさり、相互作用する中で、初めて長期利益が実現されます。

楠木建『ストーリーとしての競争戦略』p20

 優れた個々の施策を無作為に実行しても戦略にはならないし成果は出ない。大事なのはそれらの施策をどのようなプランで組み合わせて、どのような順番で実行するかだ。

 サッカーの練習も似ているのかもしれない。

 個々の練習を同じようアプローチで真似しても意味がない。それぞれの練習をどのように統合していくかというプランこそ秘伝のタレである。それは実行者である監督の頭の中をのぞかないと絶対にわからないのだ。

5.ミシャ≒ヴィトー・コルレオーネ説

 日本にやってくる外国人監督は「チームはファミリー」と強調する人が少なくない。ミシャも例外ではなく「チームはかけがえのないファミリー」と語っている。

 実際にコンサドーレは雰囲気がよいと他クラブから移籍してきた選手が口をそろえて言っている。「こんなに雰囲気のいいチームは見たことがない」とまで断言する選手もいるそうだ。

ミシャが選手やスタッフを愛してる様子を伝わるし、ミシャもみんなから父のように慕われている。

 コンサドーレというチームはまるでファミリー、「疑似家族」のようだ。雰囲気のよさは選手がのびのびプレーできる要素でもあり、新たな選手がコンサでプレーすることを選ぶきっかけの一つになり得る。

 ただし、ミシャのいう「ファミリー」には注釈が必要だ。そのファミリーはあくまで「(ミシャを絶対的トップに置いた)ファミリー」である。

 ミシャの元では誰もが平等で、序列はない。コンサには「ミシャ」と「チームみんな」というグループしか存在しないように思える。

 僕が思い浮かべたのは、映画『ゴッドファーザー』でマーロン・ブランドが演じたドン・コルレオーネ(ヴィトー・コルレオーネ)だ。

 マフィアのボスとして、自分に忠義を尽くす仲間はどんな手を使ってでも手助けするし、本物の家族のように愛する。だがそれは自分が絶対的ボスとすることが条件である。

 このリーダーのあり方に問題があるわけではない。

 Netflixのドキュメンタリー『ベッカム』を見れば、マンチェスター・ユナイテッドの監督だったアレックス・ファーガソンもまさにドン・コルレオーネのようにチームを束ねていたことが分かる

 彼はピッチ内ではなく、選手の私生活にも非常に気を使った。教え子がチームのためにより素晴らしいプレーするためにはどんなことも惜しまず協力した。だからこそ、スターへの道を歩み始めたベッカムに自分と親しい代理人を紹介して契約するようにすすめたのだ。

 それを袖にして自分で代理人を決めたことがファーガソンとベッカムの関係性を揺るがす出来事のひとつになってしまうのだが。

 この『ゴッドファーザー』のようなミシャのあり方と非常に相性の悪い話がコンササポからときどきTwitterのタイムラインに流れてくる。「ミシャに優秀な右腕コーチをつけろ」論である。

 よく聞くのは2018~2021年までヘッドコーチをつとめていた四方田修平・横浜FC監督を呼び戻せば守備を立て直せるという話である。

 そもそも横浜FCとちゃんと契約を結んで一生懸命仕事にはげんでいる状況で「帰ってこい」などと軽々しく言うこと自体、横浜FCと四方田監督に失礼かつ馬鹿にした話である。

 四方田監督を呼び戻せ論に限らず「誰か守備を立て直せるコーチを」や「ミシャに進言して考えを変えさせるコーチを」なんて嘆きに似た提案がタイムラインには流れていた。

 一理ある話だ。しかしこの議論には重要な論点が欠けている。そもそもミシャは右腕の存在を望んでいるのだろうか?

 ミシャの元では誰もが平等とするならば、そこから逸脱してミシャと肩を並べるようなコーチはマネジメントとしてノイズになる。なぜなら自分が絶対的ボスだからだ。

 もっといえば、自分を最も理解しずっと寄り添っている右腕なら杉浦大輔コーチがいるではないかと。

 「守備を立て直せば……」という気持ちはわかるが、ミシャの方針や哲学に合わないのであれば彼は決して受け入れないであろう。

 彼にとって「哲学を曲げない」ことは己の求心力を保つ根源だからだ。そこで進言を聞き入れたらミシャはミシャではない。

 もし右腕となるコーチを新たに入れて今のサッカーを改善させられる体制にしたいなら、そのやり方を受け入れる監督をまず連れてくるべきだ。

 結局、みんなの理想はミシャに退任してもらい体制をひっくり返すことでしか実現しなかったのだ。

 では現コーチ陣がミシャに何も進言できないかというとそうではないだろう。自分の考えを持たず意見も言えない人間に仕事はない。これはサッカーに限らずどんな環境でもそうだ。

 しかしそんなコーチたちがミシャと議論することはすごく骨が折れると推測できる。ミシャとコーチで「サッカーを学ぶ」行為にかけられる時間が違いすぎるからだ。

 いろんな証言を拾うと、おそらくミシャは典型的なワーカホリックだ。ショートスリーパーの可能性もある。チームの練習が終わった後も夜中までずっとあらゆるサッカーを見ているそうだ。ちなみにオシムもまったく一緒である。

 そうして得た知見から、ナーゲルスマンのライプツィヒ(当時)やガスペリーニのアタランタを参考にしたサッカーをコンサに取り入れようとして実際にアウトプットしている。

 果たしてそんなことが他の人たちに普通できるだろうか。ワーカホリックでもなく、ショートスリーパーでもない。ミシャのような単身赴任ではなく家に帰れば家族だっているかもしれない。その状況でミシャと同じやり方で絶えずサッカーを学ぶことは困難だろう。

 そう考えるとミシャのような知見の持ち主と議論を戦わせて、考えを通すのは相当難易度が高い仕事だ。しかも相手は何があっても自分の哲学を貫く監督である。

6.ミシャは契約書に忠実な「職人」である

 「ミシャはドンだ!」という話と変わってしまうのだが、彼は「職人」でもある。監督という職人だ。

 よく彼はチームが不振になると自分の進退について口にしていた。でも自分から「辞任する」とは絶対に言わなかった。

 一時期の僕はクラブが絶対に自分をクビにしないことを見切ったマインドゲームだと疑っていたが、それにしてはやつれているし体調も悪そうだ。

 ミシャは、契約に忠実な職人監督なのだ。

 自分はあくまでも雇われ人であり、雇い主の一存でいつでもクビにされる存在だ。この原則が彼の軸である。

 つまり自分を監督じゃなくせるのは雇い主であるクラブだけ。自分が監督を続けられるかは自分で決めれない。それが契約であると。

 選手の獲得にもほとんど口を出さないのも、編成は自分が契約で任された仕事の範囲外だからだろう。

 ミシャ在任期間中、コンササポの中にはミシャが自発的に辞任してくれたらいいのにと思ってしまった人はいないだろうか。でもそれは無理筋なのだ。

 彼に「空気を読んで」、「責任をとって」辞めるという概念は存在しない。辞めるかどうかは自分が決めるんじゃない。てめえ(クラブ)が決めろよ、という話である。

 クラブが雇い続ける限りはどんな状況だろうと契約書に書かれた自分の仕事をするだけ。ミシャはまさに職人なのである。

 僕は彼の姿に野球の落合博満さんを思い出した。落合さんもまた契約を絶対として中日ドラゴンズの監督をしていた人だからだ。

「いいか、俺たちは契約の世界に生きてるんだ。やりたいとか、やりたくないじゃない。契約すると言われればやるし、しませんと言われれば終わり。それだけだ。だから、もし俺がやめるとしても、それは解任じゃない。契約満了だ」

鈴木忠平『嫌われた監督』p395

7.どうして「サッカーが上手く」なっても優勝できないのか

 「サッカーが上手くなった」

 ミシャの元でプレーをしたあらゆる選手が証言している。主力として活躍した選手はもとより、出場機会の少ない若手やベテランもそう話しているのは興味深い。

 実際は上手くなってないのに「上手くなった」と選手が勘違いしているとは思っていない。コンサの選手を見続けていても確かに上手くなったと感じるし、そもそも嘘ついてまで「上手くなった」と公言する理由がない。

 僕は「みんな、ミシャの元でプレーしたときだけめっちゃ言うじゃん」という点が気になっている。

 サッカー選手としてキャリアを積む以上、大なり小なり成長を実感する、サッカーが上手くなるタイミングはどこかしらであるはずだ。しかし多くの選手はそう簡単に「上手くなった」を声を大にして言わない印象がある。

 にも関わらず、ミシャの元でプレーすると口を揃えて「上手くなった」と選手たちは発言する。選手にとっては「口に出したくなるくらい上手くなった」ということなのだろう。

 ここで非常に意地悪な問いを立ててみたい。

 どうして口に出したくなるくらいサッカーが上手くなった選手がそろっているのに、コンサドーレは2018年以来J1リーグで一桁順位になれないのだろうか。

 2019年以来カップ戦で決勝はおろか、ベスト4まで行き着かないのだろうか。あげくの果てに2024年にはJ2へ降格することになったのだろうか。

 なぜそんなに上手くなった選手たちは日本代表で活躍していないのだろうか。ヨーロッパのトップレベルでプレーしていないのであろうか。上手くなったはずなのに。

 上手くなっただけで結果の出せる世界でないことは素人なりに承知している。だから意地悪な問いなのだ。

 元のベースの実力が低いと、上手くなったとはいえ日本の上位に食い込む実力にはないかもしれない。上手い選手が11人集まっても勝ち続けるほどサッカーが甘くない。

 日本代表には代表なりの選考基準があるし、ヨーロッパでプレーする機会も縁とタイミングのめぐり合わせだ。

 それでも僕は「上手くなった」という自信に満ちた言葉と、コンサドーレが置かれた現実がうまく釣り合わず困惑している。

 そもそも「サッカーが上手くなる」とはどういうことかを検証する、そういう切り口もあるだろう。だが今回はそこには触れず、ミシャの元でプレーすると本当に選手は「上手くなる」のは間違いないとして話を進めてみる。

 ひとつ仮説を考える。

 ミシャは、ある練習で選手の実力が1上がったすると、選手本人にはその数値以上に上手くなったと思わせられる監督なのではないか。

 とにかく選手は自信がつく。自分は上手くなったし、もっとプレーに自信を持てばよりよい結果を出すことができる。ミシャは選手にそういうマインドを植え付ける。

 実際に上手くなっただけでなく、その上手さに絶対的な確信を与える。彼にはそれを可能にする。だから選手は声に出したくなるくらい「サッカーが上手くなった」と思うのだ。

 サッカー選手という生き物が根底に持っている感情は「もっとサッカーが上手くなりたい」だと思う。それは「勝ちたい」以上に大きいかもしれない。サッカーを始めたての頃はきっと純粋に「もっと上手くなるには」を考えていたはずだ。

 だから選手はみんなミシャに心酔する。「サッカーが上手くなった」というかつて毎日のように感じたあの喜びを実感させてくれるからだ。

 それこそミシャがカリスマたる理由であり、どんなにチームが不調でもチームが瓦解しない求心力の源である。

 ミシャの元でプレーするコンサの選手がどんなにチームが調子の悪い時も、自分たちのやり方に確信をもったコメントをするのは決して強がりではない。本気で自信を持っているからだ。

 それはどんなに高度な戦術を練ることよりも、監督として大事なことをミシャができている証拠だ。監督に一番必要なのは「選手をその気にさせ、自信を持ってプレーさせること」なのだから。

 国民的喜劇俳優の渥美清が『男はつらいよ』で寅さんの役を演じ始めた頃、小林信彦さんに「あの役はねえ、おれ、乗ってるんだよ」と話したそうだ。

 サッカーもまさにチームが目指すサッカーや自分のプレーに「乗れているか」が選手が100%の実力を発揮するのに不可欠である。

 このミシャのカリスマ性の源泉にこそ、僕が思うミシャ最大の欠点でもある。監督が彼から別の人間に代わったとき、この「サッカーが上手くなった」の魔法が解ける可能性があるからだ。

 仮に同じ練習をこなして実際には同じくらい上手くなっても、ミシャと他の監督ではアプローチの違いがあり「上手くなった」実感が変わるかもしれない。そこで「あれ?ミシャの元で同じ練習したらもっとサッカーが上手くなっていたのに」とちょっと引っかからないだろうか。

 そうした違和感の積み重ねや実際の結果も重なり、ミシャが恋しくなる現象が生まれる可能性はないだろうか。

 後任監督の立場を考えてみよう。ミシャが退任する経緯にもよるだろうが、基本監督は「チームでうまくいかないところ」があり(その延長線上に結果が伴わないが存在する)、クラブを離れる。

 となると、後任は「ミシャのチームに足りなかったところを埋めてくれ、修正してくれ」というクラブのオーダーを踏まえて乗り込んでくるはずだ。だからミシャのやり方の一部をある意味否定して修正する必要にせまられる。

 しかしそのアプローチには落とし穴がある。もし後任のアプローチで上手くなった実感を選手が得られなければ、それは「サッカーを上手くしてくれた」ミシャの否定になってしまうからだ。

 だから後任は困惑する。「自分は前任者に至らぬ点があり、その欠点を埋めてほしいと頼まれてにきたはずなのに。なぜ前任者のやり方を直そうすると反発されるのか。勝ちたいんじゃないのか」と。

 ミシャの後任を引き継ぐのは非常に難しい。浦和レッズは何人かの監督でバトンを繋ぎ一度チームを更地のような形にした上で再びレッズのサッカーを作り上げた。今はどうなっているか分からないが。

 広島を引き継いだ森保監督は、日本代表でも発揮している抜群のコミュニケーション能力に用いて選手たちに「ミシャのやり方を尊重しながら、ミシャ時代の弱点を埋めるサッカーを実行させる」という困難なミッションを成功させリーグ優勝に導いた。

 ミシャ在任時、コンササポの中では「ポストミシャ」の話がささやかれていた。

 僕が思うポストミシャの条件は「ミシャのサッカーを尊重しつつ、それを進化させるという名目で弱点の対策に取り組むよう選手をその気にさせる」監督だ。新監督がそのような人物であることを祈りたい。

8.彼は「札幌のモウリーニョ」になれなかった

 さて、コンサドーレというクラブは究極のところミシャに何を求めていたのだろうか。

 「攻撃的サッカー」、「見ていて楽しいサッカー」、そしてそのようなサッカーをスタイルとして根付かせること。でもこれらはあくまでも手段だったのではないだろうか。

 コンサがミシャのもとで作りたかったのは、「人を巻き込むサッカー」だったと今になって思うのだ。

 ピッチ上で体現するサッカー、勇気を持たせる前向きなメッセージ性、ミシャのキャラクター。

 これらをひっくるめてサポーターやパートナーだけでなく、一般の北海道民や自治体を巻き込んで大きな渦を作っていく。それができる魅力を備えたサッカー。これこそ最終的に求められていたことではないか。

 ここ僕が思い出すのは、ジョゼ・モウリーニョという世界的名将の存在だ。彼は2021~2024年の間、イタリアのASローマで監督をつとめた。

 このときのローマはカップ戦で優勝を果たして都市を歓喜の渦にまきこんだものの、リーグ戦はローマのブランドや目標にしては振るわなかった。

 モウリーニョは最後解任されてしまうわけだが、その後の報道によれば彼のサッカーには選手がかなり不満を抱いていたとも言われている。お世辞にも見ていて楽しいサッカーでもなかったようだ。

 だがどんな成績だろうと彼の在任中、ホームスタジアムのスタディオ・オリンピコは満員のサポーターで埋め尽くされた。

 成績はもっと上にいってほしかった。やってるサッカーも見ごたえがあるわけではない。それでもモウリーニョは、ローマ市民を巻き込むサッカーをすることには成功したのだ。

 僕はミシャがコンサでどんな成績を残そうとも監督を続けられる方法が一つだけあったと考えている。

 それは札幌ドームことプレドを大量の観客で毎試合埋めることだ。満員とまではいかずとも、3万3千~5千ぐらいは来てもらえればよかった。

 勝つこともあれば負けることもある。成績が良い年もあれば悪い年もある。常勝クラブでない限りそれは当たり前だ。

 成績に関わらず多くの人々を巻きこめる人材はどれほど貴重か。むしろ成績に左右されない経営はサッカークラブの理想郷だろう。

 だがミシャのコンサは、プレドを常に大観衆で埋めることはできなかった。北電をはじめ新たなパートナーを巻き込んだことは成果だ。それでも延命には足りない成果だった。

 彼は「札幌のモウリーニョ」になれなかったのだ。

9.勇気をくれた名将に花束を

 ミシャが札幌にやってきてもたらした大きな変化は、コンササポの「マインド」だったと思う。僕も含めたサポの気持ちは特に大きく変わったのではないだろうか。

 選手が後ろでパスを回していてもそれを恐怖に感じる人は少なくなった。点を取られてももっともっと取り返そうという気持ちで観戦できるようになった。

 最初から引いて守るのではなく、どんな状況でも前へ前へ向かう姿勢におもしろさを感じるようになった。

 彼がやってくるまで僕を含めたサポは、このような姿勢のサッカーをコンサドーレができると思っていなかった。理屈で考えればできるのかもしれないが、心が怖気づいていた。それを変えたのがミシャだ。

 ミシャはコンササポに「勇気」を与えてくれた。

 僕の話でいえば、彼が志向したサッカーには好みじゃない点がいくつもある。ミシャが去っても同じようなサッカーをいつまでもやってほしいとは正直思えない。

 だがやっているサッカーが変わろうとも、時代が変わろうとも、ミシャが残した「勇気を持つ」というマインドはサッカーを見る上でも応援する上でも忘れたくないと思う。

 どんなサッカーであれ、そこに「勇気」が見えるから見ていておもしろいし、熱くなるのだ。

 また「勇気」と「蛮勇」が違うということも、ミシャはコンサのサッカーを通して教えてくれた。これは反面教師としてだが。

 ここまでミシャという存在についてあらゆる角度から自分なりに考えて書いてきた。

 先ほども書いたが、僕はミシャのサッカーが好みではなかった。退任が決まっても、多くのサポのように感傷にひたる以上に「ついに、やっと終わったか……」という気持ちが強かった。

 でもコンサを応援して20数年、これほどまでに興味深く監督のことを考える7年間があっただろうか。ミシャのおかげで、監督、いや、サッカー人という生き物のおもしろさを知ることができた。

 やっぱり僕もミシャが大好きだったのかもしれない。7年間ありがとう、お疲れさまでした。

10.参考資料

◎バルセロナ・レガシー(ジョナサン・ウィルソン)

◎オシムが語る(シュテファン・シェンナッハ、エルンスト・ドラクスル)

◎来季は選手の新たな一面を引き出す 年末特別インタビュー連載《ミシャイズム再考》②(道新スポーツ)

◎J1札幌、ペトロヴィッチ監督が大切にしてきた練習公開…コロナ禍で加速?「秘密主義」へ名将からの言葉(スポーツ報知)

◎蹴球ヒストリア(土屋雅史)

◎ストーリーとしての競争戦略(楠木建)

◎ゴッドファーザー

◎おかしな男 渥美清(小林信彦)

◎嫌われた監督(鈴木忠平)

◎【北川さん登場】モウリーニョ解任でローマはどうなる!?(サッカーキングYouTubeチャンネル)

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辻井凌|つじー
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