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というわけで、5月となりました。なかなか時間がとれず 2か月のお休みをいただいてしまいま…
4月中の仕事をなんとかやっつけ終わって放心状態である。もちろん、インターネッツには私な…
下掲の過去エントリにも述べてあるとおり、現代日本で「保守」をやるということは、実に難し…
昨日のエントリでは、現代日本において「保守」をやることの難しさについて書いたのだけれど…
note更新再開も5日目になって、やっとペースがつかめてきた感がある。文章を書くということ…
先週のエントリでも軽くふれたのだが、どうやら日本政府は「子どもの声は騒音ではない」旨を…
加藤厚生労働大臣が、テレビ番組で以下のような発言をしたらしい。 (※録画視聴パスは、こちらのエントリから取得できます。)
先日の Youtubeライブ放送で「非リア充なのでGWがきつい」という旨のコメントをしてくれた方…
細々と続けている『仏教と儒教』の読書会であるが、そこでたまたま現代における「人権」の性…
そもそも日本では、(主に玄人筋が)「哲学」の範囲をむやみに限定してしまいがちなところは…
前回のエントリの続きである。そこでも予告したとおり、今回は「日本において(世間一般の人…
前回のエントリでは、「世間一般の人々が考える哲学を、そのまま自分でもやってみる」ための…
仏教に「聖道門」という用語があって、これは対義語である「浄土門」と比べると困難な道であ…
哲学についてのエントリを長々と書いておいてからいうのもアレなのだが、このところ私は狭義の哲学というか、いわゆる形而上学の分野に属するテクストの多くについて、さほど興味をそそられないようになっている。もちろん、形而上学が問題とする領域そのものについて無関心になってしまったわけではないのだが、とりわけ西洋哲学がそれを取り扱う仕方というのが、いまの私にはあまり魅力的なものとは感じられなくなっているということだ。