めんどくさがり屋のひとりごと⑬「こぼれる想いを封じ込めて」
私が苦手としている職業に、「評論家」と呼ばれる方たちがいる。
もちろん、全ての評論家が苦手ではない。
とても広い見識を元にして腑に落ちる評論を書かれている人もいるし、そういう人の述べることは参考になることもある。
私が苦手としているのは、「あれこれにケチをつけて御託を並べる辛口評論家」「評論家みたいに辛口レビューをつけようとする輩」のことである。
「この作品はここがダメ、ここがあまり好きになれない。それに比べて、この作品は最高!」など、自分の好き嫌いを標準にして、対象の作品に自分の好きなジャンルの作品を持ち出して比較して論われると、無性に不快感が増す。特に、自分の面白いと思った作品に対してその評論がなされると、余計に腹が立つ。
嫌いなことをわざわざ表沙汰にすることに何の意味があるのだろう。その作品が好きな人もいるのだ。「批評すること」に酔っている気がして、正直気味が悪い。そっと心の中に閉じ込めておけばいいのに。とても個人的な気持ちになってはしまうのだが。
そのつらつらと書かれた言葉を要約すれば、「不勉強だから、私にはこの本の魅力が分かりませんでした!」という一言に尽きる。
つまりは、「自分の得意なジャンルじゃないから面白く感じられなかった」わけである。
もっと言えば、その「あまり得意じゃないジャンル」に対して理解しようとする態度が無い。理解しようとしたら、もう少し深く、そして色んな視点から見ようとした努力の証が文章に垣間見えるはずである。けれど、その証が見えない。だからとても独りよがりな評論となっている。
下戸の人間が酒好きの絶賛する美味い酒を飲んだとしても、酒好きの語る深みや辛みとかは関係無く「アルコールが入っているのだから、酒は酒。味なんて関係無く不味い」という感想しか持てない。それと同じである。
だから文学、絵画、映画などの広義での「芸術作品」に対する評論やレビューなんてのは「個人のセンスや好き嫌いをいかにアカデミズムにかつ正当性があるように書くか」に過ぎないと私は思っているので、私はあまりその人たちの言うことをあまり信用していない。
そして、そういう人たちみたいにはならないようにしよう……そう思っていた。
ただ、それはもしかしたら同属嫌悪なのかもしれない、と最近思った。
今日は、そんな話である。
4年前から、個人のTwitterアカウントで読んだ本の記録をつけている。
きっかけはあまり覚えていないが、自分が何を読んだか、その作品でどのような感想を持ったのかを後で見返すための備忘録の目的で付け始めたように思う。
その時に決めていたのは「もしも自分が文庫の帯を書くとしたら、どう書くか」「書いてあることが分からなくても貶さないこと」「《面白かった》だけでは終わらせないこと」だった。
文庫の帯のコメントというのは、裏のあらすじと同じくらいにその作品の隠れた見所である。
その作品を読んだ人間が、どのような感情をその作品に対して抱いたのかを端的に表す場所――それが帯である。
だからこそ、端的にかつ分かりやすく感想を述べねばならない。それはとても難しいことである。
そこに加えて、作品を貶さず、かつ「面白かった」以外の言葉でその作品を評価しなければならない。
自分で決めたルールながら、「何て書いたらいいのか分からない……」と思ったことは何度もある。だから、あまり読まない海外文学や抽象的な表現が多い純文学を読んだ時に書くことに困ることもあった。
それでも、何度か読み返して何とか自分の中に物語を落とし込んで、「こういうことを言おうとしてるのかな……」と自分の中で仮説を立てて、それを元に簡潔な感想をTwitterに呟いていた。
この話を書くにあたって、その履歴をもう一度読み返した。
そこで気が付いた。
一回当たりの文章が明らかに長くなっている。
もっと言えば、字数制限ギリギリまで感想を詰め込むようになっていた。
最初はほんの2~3行だけで簡潔にまとめていたが、それがいつしか5行書くことが常になり、ついには10行、時には3投稿分書いたりもしていた。
帯を書いているつもりが、軽い書評を書いていた。
自分が敬遠していた評論家の真似事を、いつの間にかしていたのだった。
それでも、「面白かった」では終わらせず、「いまいち理解が出来なくても自分の中に落とし込む」という決まりは大前提で投稿は続けているので、作品を貶すような、人に疎まれるような浅ましい行為はしていない……はず、と自分では思っている。
理解出来なかったのは、その作品の面白さが分かるには読むのがまだ早かった。ただそれだけなので、これが色んな経験を経て時が経った後にもう一度読んでみると、また新たな感情が自分の中に生まれると思うのである。
どうしてそのような事態が生まれたのかと考えると、「作品を読んで何を自分が感じ取ったのか」ということを言語化しようとした時、簡潔に表現することでは物足りなくなってしまった、「この本の発する匂いを、醸す空気をもっと濃密に伝えなくては!」という気持ちが溢れに溢れてしまい、そのような書評家まがいのツイートを繰り返しているのだ、という結論に達した。
事実、記録を始めた当初の投稿を読み返してみると、「……物足りない」という気持ちがせり上がってくる。
きっと、途中で気づいたのだろう。「面白かった」以外の言葉で貶さずに評価をするなら、それを簡潔にすることは難しいということに。だから、これは長くなるべくして長くなったのだ。そう私は正当化して自己分析している。
当初よりは綴る言葉が長くなったとしても、「1回の投稿で自分の想いを、熱を伝えよう」ということは心掛けているので、たとえ「うーわ、めっちゃくちゃ面白れぇ……」みたいな作品に出逢ったとしても、書きたいことを取捨選択して「どの言葉ならばこの作品の感想に見合うのだろう」と悩みながら、140文字に収めるようにはしている。
ただ、それは作者名とタイトルを含めた文字数なので、タイトルが長いと綴れる感想はその分短くなる。そこが悩みどころではあるが、無い知恵を絞りながらある程度納得のいく形は作ろうとしている。
そのせいか、読書中でも「ここでの描写はこうで、こんな気持ちを抱いたから、こういう表現で感想を綴りたいな」みたいな感情を抱いていることも多くなった。
さらに書評家みたいなことをしている。
連載など持っていないのに。ただの備忘録だというのに。
それでも、「外に発信する」という行為に変わりは無いのである程度の体裁は整っていた方が見る方も目の毒にはならないだろう、と今書きながら思った。
評論家は苦手だ。
でも、論理立てて綴ろうとすると、どうしても評論家みたいな真似をしないといけない。
けれど、「辛口評論家にはなるもんか」と世の中に蔓延る評論家や評論家かぶれの論評やツイートを反面教師にして、自戒の念を込めつつ、私は言葉と向き合ってゆく。
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