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雨降る夜の何処かの音楽

どこからか音楽が聴こえる。

小さな小さな音楽。

目を開けると部屋は真っ暗で、いつの間にか雨が降っている様だ。

今は朝なのか、夜なのか。

あまりに眠りすぎて何時なのか分からない。

時間があるのだから、と、前に途中で辞めてしまった本を本棚の奥から引っ張り出して、読んでいる最中に寝落ちしたもんだから、ダメだった。

貧すれば鈍する。

この状況は今の自分にピッタリと重なり、起きたこの時には、とても暗い悲しい気持ちでいっぱいになってしまっていた。

罪と罰なんか読むんじゃなかった。

強く暗い場所へ行ってしまう。

起きてこの場所はまた悲しみに溢れてしまう。

晴れている日、隣の大家さんは庭仕事をしながら、大きな音でAMラジオを流している。

休みの日にその音で目を覚ますと、のんびりと気持ち良い。

が、今は恐怖になり、私の中のロージャが頭を抱えて唸り出す。

ロージャ。

ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ。

全く覚えられない。

彼の名前は全く覚えられず、空で思い出すことは出来ないが、彼の絶望は何故かすぐ傍に思いだせる。

急に心細くなり、お金の心配で居ても立っても居られなくなり、息を殺す。

その殺した気配を感じながら、また夜の雨に戻ってくる。

雨の音。

水を一杯飲む。

屋根を叩く音がする。

薄いシャツから伸びた手に持つガラスのコップは冷たく、裸足の廊下は心許無い。

ぼんやり足元を見つめる。

低く上へ抜ける様に音楽が流れている。

窓の外ではおそらく点滅に代わった信号の光が何度も窓に反射する。

窓の雨粒で赤い光が大きく見える。

椅子を引き、暗闇の中で身体をもたれ掛ける。

静かに。

今雨の暗闇の中に小さな音楽が聴こえる。

雨の音に紛れた優しく響く小さな音だ。

パラパラパラパラという屋根を叩く音と共に、どこか泣いてる人を慰める様にクラシックが聴こえる。

ぼんやり音をなぞる。

なんだったけなぁ。

どこで聴いたのかなぁ。

昔の映画で流れていた様な。

教会から差し込む光を見ていた様な。

目を閉じて見ると、またどこかへ行ってしまいそうだ。

外の様子があまりに静かすぎて、自分が一人世界に取り残された気がする。

ひとりぼっちの観客席で、誰もいない舞台を見つめて、生きてるのか死んでるのか分からない空間に放り込まれた気分。 

もしかして死んでしまった?

そんな馬鹿な。

椅子からのろのろ降りて、布団の中から、手探りで携帯電話を探す。

24時20分34秒。

携帯電話の強い光に思わず目をしかめながら、時間を確認する。

SNSを見ようとして、やめる。

おそらく世界は動いている。

雨の音がまた落ちてくる。

雨と音楽に包まれている。

ひっそりとした気配。

これはあの感覚に似ている。

夜、暗い部屋で布団を並べて映画を見ている時、ふと気が付くと隣の人の寝息が聞こえて、私はいつの間にか一人取り残された事に気付いてしまう。

画面の中ではあんなに叫んで、物語は佳境に差し掛かっているのに。

その声は、私以外気がつかない。

夜。母が寝かしつけの物語を読んでいる時、母も妹も物語の途中で寝てしまって、布団の中で私はひとりぼっちになってしまっている。

それから?母に聞くが目を覚さない。

物語はどこか遠くへ行ってしまい、私の知らない所で消えていく。

結末はわからないまま。

あっち側とこっち側。

そういう時は、呼んでも誰もこの暗闇に戻ってきてはくれない。

そう。

誰から聞いたんだっけ、思い出せないが、

古い怖い話をしてくれた。

古いと言っても、おそらくそんなに古くない。

夜中にやる洋画ぐらい。

寝る前か、その後の夜のひっそりした時間帯。

何にもやっていない時に流れている古いざらついた動きの映画。

語り手は、安いホテルに泊まっていて、夜のベットで眠っている。

すると、気配を感じる。

サッサッと何かを擦る音が聞こえてきて、それはとても心を不安にさせる。

その音は何処からするのだろう。

音のする方を辿ると、暗闇の奥、扉の下から聞こえてくる事に気付く。

よく見ると、扉の下の隙間から黒い何かが何度も横切っている様だ。

じっと目を凝らすとそれは派手なネイルを施した女性の手で、

その手は何かを探している。

床を這い回るその手を見たくないのに見つめていると、その手は向こうの方へと消えていった。

ホッとしたのも束の間。

今度はドアノブがガチャガチャと何度か動く。

部屋に入ろうとしているんだ。

ざっと血の気が引く。

先程の手は部屋に入る為に鍵を探していた事んだ。

向こう側にいる人は生きている人?

死んでいる人?

どちらにしても怖い。

ドアの向こうの人が入ってきません様に…!!

怖さに震えながら朝を待ち、

ホテルのフロントに話をした所、その手の持ち主はもうすでに亡くなっていて、それには気付かず、いつも夜遅くに部屋へ入る為に鍵を探し続けているという話。

なんと。

子どもの私は震えた。

生きている人間が犯罪の為に押し入ろうとした可能性は置いておいて、

人は死んでも同じ事を繰り返しているのか。

最悪だ。

何が最悪か。

まず、へとへとで、疲れて帰ってきて家に入れないのは最悪だ。

それだけでも終わってる。

そして何よりひとりぼっちだと言う事だ。

途方に暮れている。 

誰もいない。

こんな夜中にただ一人。

この時間は誰も起きていないから。

皆眠りについている時間なのだから。

そんな中で一人。

一人途方に暮れている。

そう。

わたしは…

私は…

私は、今日もハードな仕事をしてきて

やっとこの部屋まで帰ってきた。

ここにきて、ドアの前に立ち、

いつもの所に鍵ががないのだ。

おかしい。

確かにここに置いたはずなのに。

早く熱いシャワーを浴びて、ベットで眠りたい。

安いホテル暮らしだから、フカフカの極上な布団は無理だとしても、もうそれは諦めている。そんなのは目を閉じてしまえば同じ事だ。

だから早く。

早く目を閉じて深く安らぎたい。

それなのに‥

もう一度、手をドアの隙間に突っ込んでみる。

やはり…ない。

鍵が見つからないのだ。

私は昔からよく色々な物を無くしてしまうから、あまり持たない様にしている。

鍵だって無くしてしまったらこのホテルの事だ。

どうせ大した事ない鍵なのに、弁償にぼったくられてしまうかもしれない。

それなら、部屋に置いておけばいい。

どうせ元々取られるものなんかないのだから。

今日寝るとこさえあれば…

一縷の望みをかけてドアノブを何度か回してみる。

開かない。

もう。

強く投げ込み過ぎたのかもしれない。

情けなくしゃがみ込んで手を突っ込んだが、やはり見つからない。

覗き込んでみたが、部屋は真っ暗だ。

はあ。

あまりにも腹が立ち、悪態をつこうと思った瞬間、中から悲鳴が聞こえた。

私の部屋に?誰かいる?

怯えつつ心臓がバクバクしながら、部屋を間違えたのかと思い、少し離れてドアを見る。

なんだか、少し違う気がする。

部屋を間違えた?

いつも同じ事を繰り返してるので間違うはずはないと思いつつ、疲れてるからそれはあるかもしれない。

2、3歩離れてゆっくり辺りを見渡す。

あの階段を登ってきて、3つ目の部屋で‥

数を数えようと左に視線を向ける。

そこでふと過ぎる、

あれ?私は、本当に、あの、階段を、登ってきた?

分からなくなる。

分からないはずなんかない。

だってあの階段しかここへの道はないのだから。

いつもそうやって辿り着くはずなのだから。

でも分からない。

そういえば廊下は緑だった?

あの電球はいつから切れていた?

私は、今日、どうやって、帰ってきた?

心臓が早鐘をつくように鳴る。

パンっと音がなり、頭上の廊下の電気が大きく点滅する。

そんなはずない。

バチバチっと激しい音。

接触出来ずに何度も試みる激しい音。

その音と共に心臓は大きく揺れる。

光の点滅は大きくなり、廊下を暗闇が包む時間が長くなる。

手を見つめる。

付いたり消えたりする暗闇の中で。

私の手。

私の手は。

そこで目を上げた時には、階段の途中である。

あれ?私、何してるんだっけ?

あ。そうだ。仕事から帰ってきたんだった。私こんなに記憶がないなんて、よっぽど疲れてるんだな。

そしてまた別の、同じ夜を繰り返すのだ。

最悪である。

私は自分がいない世界線に嘆いた。

自分が家へ帰ってきたら、別の人間が住んでいる世界線を思って震えた。

どうか明日、誰も私の事が分からない世界なんかに放り込まれませんように。

ブーンという冷蔵庫の音で戻ってくる。

そしてその後ザアッと音がする。

雨が強まっている様だ。

でも雨はこの場所には入れない。

いつの間にか音楽は消えている。

物語の気配も消えている。

雨の音だけ静かに、家を叩く。

一人でいるとたまに誰かの夜を覗き込む。

音楽の持ち主は眠ってしまったのだろうか。

どこかで遅れて拍手の音が聞こえる。







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