水じゃなくてヒトにありがとうと言え。積極的に。
先に言っておくと、私はスピリチュアルとか想いとかの類が大嫌いである。
どこぞの、「100メートル走のスピードでマラソンを駆け抜けるような努力(キリッ)」とかのたまうようなセラミック屋のジジイはまじでガイガイガイガイの害悪だと思っている。短距離走と長距離走じゃ使う筋肉が違えんだよ、お前とお前の信者は脳筋だけで走るからそもそも一般人類とは構造が違えんだよ一緒にすんなクソボケ、と思う。
だが、今日はスピリチュアルにちょっと寄った話をちょっとだけしたい。
水の波動(笑)とかいうやつ流行ったよね
水だか果物だかオニギリだかを2個用意して、一個には毎日ありがとうと言って、もう一個には毎日バカヤロウと言ったら、ありがとうの方は腐らなかったってエピソード。一時期流行りましたね。
いやいやいやいやという話だけど、これを比喩とか寓話として今日は取り上げたいと思う。
光の経験値と闇の経験値
人と接していると、やってもらって嬉しかったことが蓄積していく。
いわゆる、接客業やってると、店員にやさしくできるというやつである。
良いことをしてもらうと、こういうことをしてもらうと嬉しいんだなぁという経験値が溜まっていって気持ちがいい。
逆に、嫌なことをされると、そういうことをされるとこれくらい嫌なのかと、闇の経験値が溜まっていく感じがしませんか。
闇の経験値がこわい
この闇の経験値が自分に蓄積されていくことがすごく怖いと思う。
もしある日、私の理性がぷつんと糸切れたら、SAN値がゼロになって狂ってしまったら、この闇の経験値が聖杯の泥のように溢れ出てくるんじゃないのかな、と。
例えばクレーマーからすごく嫌なこと言われたとするじゃないですか。
自分がクレーマー側になるとき、店員にすごく嫌な思いをさせてやろうと、その過去の経験を真似てしまうようなことになったら、すごく嫌だなと思うのです。
私はまだヒトとしての尊厳を捨てたくない……と思えているうちはセーフなのかな、と。
なのでなるべく嫌な目に遭いたくないし、誰かを嫌な目に遭わせて闇の経験値を積ませたくないとも思う。
それに、例えば子供や若い世代に接するときには、なるべく光の経験値を積ませてあげたいなと思う。
結論
水とか果物とかオニギリとかに、ありがとうとかバカヤロウとか言ってどうなるかは知りません、が。
少なくともヒトに対してはありがとうと言えば光の経験値が蓄えられるし、バカヤロウと言えば闇の経験値が溜まっていく。
これは本当なんだろうな、と思う。