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メナンドロスさん、それ私も知りたいぞ

王は問う、
『尊者ナーガセーナよ、知っていながら悪い行ないをする者と、知らないで悪い行ないをする者とでは、どちらが禍いが大きいですか?』

平凡社『ミリンダ王の問い1』中村元 早島鏡正訳 第1編 第6章 第8


メナンドロス王がいい質問をしてくれた。
これは私も気になるぞ!

「知らないで悪い行ないをする」とは、現代の法律でいうところの〈違法性の錯誤〉というやつだろう。
〈違法性の錯誤〉とは、違法とは知らずにやってしまった、という行為のことである。

悪いことだと認識しつつも悪い行ないをすることのほうが罪深いような気がするが、はたしてナーガセーナ氏は何と答えるのだろうか。

長老は答える、
『大王よ、知らないで悪い行ないをする者のほうが、禍いが大きいです

平凡社『ミリンダ王の問い1』中村元 早島鏡正訳 第1編 第6章 第8


むむむ…っ!
無知ゆえに悪い行ないをするほうが悪いらしい。
「悪い」というか「禍いが大きい」とある。
つまり、その悪い行ないによる負の影響が、より大きいということだろう。

知らなかったんだから仕方ないじゃーん。
べつに悪意があったわけじゃないんだぞ。

と思ってしまうが、どうゆうことなのだろうか。


どうやらこうゆうことを言っているようだ。

その行ないが悪いことだと知っている人は、それについて善悪の知識をもっているため、逆に善い行ないをすることができる。
しかし、その行ないについて善悪の知識がない人は、善い行ないすらできない。
ゆえに後者のほうが禍いが大きい。

ふむ、なるほどなるへそ。

ソクラテスも同様のことを言っていたようである。

「知って不善をなすのは知らずして不善をなすものにまさる」

平凡社『ミリンダ王の問い1』中村元 早島鏡正訳 第1編 第6章 第8 注18


インドもギリシャも、知識を重視する思想であるらしい。


ちなみに、漢訳ではこれとは異なった解釈をされているようである。

悪いことであると知りつつ悪い行ないをする人はあとで悔いる(懺悔する)ことができるが、知らない人は悔いる(懺悔する)ことができないため、後者のほうが禍いが大きい。

というふうに訳されているようである。
これも頷ける。うんうん。

無知はダメなんだな(。・ω・。)


後世になって大乗仏教が発展すると、100人を殺した悪人でも一度念仏をすれば極楽往生できるという、極端な(?)ことを説くようになる。
カネや政治との癒着、在俗信者からの希求など、いろいろあった末の結果なのかなと、私は思う。

まあしかし、原始仏教のときから「悪業<善業」という思想がそもそも存在していたようである。
これには、インド人の楽観的な性格が影響しているらしい。




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