モールス
スウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」と同じく、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの長編小説「MORSE -モールス-」を原作とする吸血鬼映画。ハリウッドで制作され、監督は「クローバーフィールド」シリーズのマット・リーヴス、主演は同監督の「猿の惑星: 新世紀」にも出演したコディ・スミット=マクフィー、本作および同年公開の「キック・アス」「グレッグのダメ日記」で大ブレイクしたクロエたんことクロエ・グレース・モレッツ。
舞台はスウェーデンから米ニューメキシコ州ロスアラモスへ。人名が変わっており、オスカーはオーウェン(スミット=マクフィー)に、エリはアビー(モレッツ)に、ホーカンは「父」(リチャード・ジェンキンス)に。また殺された友人と恋人の復讐に走るラッケはいなくなり、替わりに殺人事件を追う刑事(イライアス・コティーズ)が登場します。
リーヴス監督が書いた脚本は、原作が同じなので当然と言えば当然ですが、「ぼくのエリ」をかなりの割合で踏襲しています。アンダーパスとか踏切とかも見覚えありますね。だもんで、「ぼくのエリ」が好きな人の中には本作が嫌いな人も少なくないようですが、個人的には別バージョンぐらいな認識。前の記事にも書きましたが、「ぼくのエリ」、本作、原作のそれぞれに異なる特長と味わいがあると思います。
「ぼくのエリ」との違いはいくつかありますが、まず絵面ですかね。黒・白・赤の配色に徹底的にこだわったリリカルな「ぼくのエリ」に対して、本作はもっとシャープでダーク、黒の印象がことのほか強い。おっかない特殊メイクもところどころあって、モダン・ホラー味を強く押し出しています。トレイラーからしてそんな感じですもんね。
人物が整理されたおかげで、ストーリーの焦点がオーウェンとアビーにぐっと寄っているのも本作の特長です。改めて見て面白いなあと思ったのが、「父」以外の身近な大人ほど、存在しないかのような演出をしているんですね。オーウェンの母(カーラ・ブオノ)は全然顔が見えないし、別居中の父に至っては声(刑事役のコティーズの二役)だけ。オーウェンの孤独を強調したかったのでしょう。
ホーカンと「父」の設定も違っています。「ぼくのエリ」のホーカンとオスカーは似ているようで決定的な溝があったと思うのですが、本作の「父」とオーウェンはぐーっと寄ってる。アビーの部屋にあった古い写真で彼女と一緒に写っていた人物は「父」だと思われますが、オーウェンに似てますよね。なので、ホーカン/「父」が死んだ後にオスカー/オーウェンがその立場にとって代わる(エリ/アビーがそのようにコントロールする)感は本作のほうが圧倒的に強かったです。ただ本作がイヤったらしい (笑) のは、絶対にそうと言い切ってないところ。なので、後味は本作のほうがやや悪い。モヤります。
あと、「ぼくのエリ」のエリは元・少年として描かれていましたが、本作のアビーは最初から少女として描かれているようです。削除シーンからもそれは明白なんですが、そうするとアビーの着替えを覗いたオーウェンは何を見てショックを受けたのかわからなくなっちゃいますが……。
前の記事で「『ぼくのエリ』が示す同性愛趣向は大して重要じゃない」と書きましたが、改めて両作品を見てみると、そうでもないですね、すみません。アビーは自分を「何者でもない」と言いますが、エリが無性であることを明確とした「ぼくのエリ」のほうが、最終的な2人の繋がりにやっぱり深みを感じます。その違いが、「ぼくのエリ」のオスカーはホーカンにならないけど、本作のオーウェンは「父」になってしまうんじゃないか、という不穏な予測に繋がっている気がします。
マイケル・ジアッキーノのスコアも、いかにもハリウッド映画な感じではありますが、いいですね。カルチャー・クラブをはじめとする80年代の劇判曲は、さすがに今の耳にはこっぱずかしく感じられますが。「父」が学生の殺害に失敗するシーンでラジオから流れていたのはブルー・オイスター・カルトの「Burnin' For You」。オーウェンの家でアビーがシャワーを浴びるシーンはグレッグ・キーン・バンドの「Breakup Song」。歌詞と言うか曲タイトルをストーリーに軽く合わせてるんですかね。
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