ぼくのエリ 200歳の少女
のちに「裏切りのサーカス」を手掛けるトーマス・アルフレッドソン監督のスウェーデン製吸血鬼映画。脚本も担当したヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの長編小説「MORSE -モールス-」を原作としており、2011年にハリウッドで「モールス」として再映画化されました。「ボーダー 二つの世界」もリンドクヴィストの原作ですね。同系の映画としては「獣は月夜に夢を見る」「ビザンチウム」とかですか。これ以前にはあったかな?
原作、本作、ハリウッド版と、それぞれ設定が異なっており、それぞれの味わいがあります。個人的には、本作はいかにもヨーロッパ映画的な美しさ・切なさが主軸で、「モールス」はそれを踏まえつつもよりモダン・ホラー的、原作はその両方を併せ持ちながらもより悪趣味な印象があります。
まず本作、絵が非常に美しく、同時に不穏ですね。撮影監督の ホイテ・ヴァン・ホイテマは、後にクリストファー・ノーランの「インターステラー」「ダンケルク」「テネット」の撮影も手掛けた人物。エンドロールを含む多くの場面で闇の黒・雪の白・血の赤が盛り込まれています。オスカー(カーレ・ヘーデブラント)とエリ(リーナ・レアンデション)の2人の顔に寄った絵もきれいですよね。色白でプラチナブロンドのオスカーと、黒髪のエリとのコントラストに、これまた随所で血の赤が差し込まれます。
今さらネタバレでもないでしょうが、少女に見える(と言うか女優が演じている)エリは元・少年です。後半、エリが着替えをするシーンで、本来ならそれが明示されるのですが、悪名高いぼかしのせいでミスリードが起きてしまっています。原作ではもちろん元・少年であることは明示されているのですが。
ただ、演技や台詞、設定などでの暗示はされています。ヘーデブラントはやたら白を強調した美少年っぷりだし、レアンデションは逆に男の子に寄った中性的な雰囲気で、地声だと女の子女の子すぎるからなのか、別な女優による吹替すら施されています。ぼかしと並んで「200歳の少女」という邦題が嫌われていますけど、字幕・吹替ともに「……なのよ」「……だわ」みたいな女の子言葉が意図的に排除されており、(一人称が「私」になっちゃうのはしょうがないですね)配給会社も可能なかぎり努力していると私には思えました。
別居しているオスカーの父(ヘンリク・ダール)がゲイであることはアルフレッドソン監督が否定しているそうなのですが、あの演出をしておいてそれはない。(笑) エリに殺されたヨッケ(ミカエル・ラーム)の復讐にやけにとらわれるラッケ(ペテル・カールベリ)も、女性の恋人はいるけど実はそっちの人なのかな、と勘繰ってしまいます。
あと、今回見てちょっと引っ掛かったのは、オスカーとエリが名前を教え合うシーン。エリが名前を告げると、オスカーは「エリ?」と意外そうに聞き返すのですが、実は最初からオスカーがエリを女の子だと認識していなくても、ストーリーは大きく破綻することはないと改めて気付きました。オスカーが父と遊んでいる最中に父の友人が訪問し、急に疎外感を感じるのも意味ありげです。
さりながら、本作で示される同性愛趣向って、実はそんなに重要じゃないんじゃないかと思うんですよ。そういうのが好きな人も少なくないんでしょうけど。オスカーに突き付けられたのは、エリが女の子どころか人間じゃない、むしろ人間の敵だとしても受け入れられる/受け入れたいと思える存在かどうかです。男だ女だにとらわれてしまうと、物語のスケールが卑小になってしまうんじゃないかと思います。
オスカーと箱に入ったエリが列車でどこかへ向かうラストは、「小さな恋のメロディ」っぽいですよね。その後オスカーは、エリのために殺人を繰り返していたホーカン(ペル・ラグナル)の代わりになるようにも見えますが、個人的には違うような気がしてならないです。原作のホーカンの設定が小児性愛者だからというのもあるんですが、エリとオスカー、エリとホーカンの関係性はそもそも根本的に違うように感じてます。映画ではホーカンのバックストーリーが明示されていないので、エリにとって元々はオスカーのような存在だったのが、歳月を過ぎてスレてしまったのかもしれないですけど。
ヨハン・セーデルクヴィストによる音楽もいいですよね。ところどころ、感傷的すぎるかなあと思う部分もありますが、音楽自体はとてもいいです。「血の契り」の場面で流れていたのはABBAのメンバーだったアグネッタ・フェルツコグの1968年の曲「Försonade」。ぼかしのシーンで流れていたのはペル・ゲッスル(ロクセット)の「Kvar i min bil」という曲で、リリース時期が映画の時代設定(冷戦期)と合わないので、本作のために書下ろされたんじゃないでしょうか。
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