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【地方史】岡崎宿はずれにて尾張の鯛飯屋が殺害された件③(本論2 尾張の商人の記録)
はじめに
「ものごと」は一方からのみの視点で見ると本質に辿り着かないことが多々ある。
えてして人は自分にとって都合の悪い情報は過少に見積り、他人に提供する傾向があるからだ。
さて、今回は尾張の商人・桑山好之が記録した『金麟九十九之塵(こんりんつくものちり)』に記録された文書を基に「鯛めし騒動」に肉付けしていきたいと思う。
※『名古屋叢書 第7巻 地理編(2)』に書かれたものを基にしている
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2015年9月撮影
騒動のおさらい
あらすじでも長くなる。
そのため、相関図と事件の経緯を簡単にまとめたものを下にお示しする。
![](https://assets.st-note.com/img/1729835379-CdJAtQcFoImVbwveEyYkT6n5.png?width=1200)
注:足軽・”村川”が”村上”となっています。後日、訂正いたします
![](https://assets.st-note.com/img/1729837090-g62njINWfBzYCRxZlkhum7Gv.png?width=1200)
私達の先祖(記入者・記入年月日不明)の記録を記した記事は以下のとおり。
岡崎が記録した事件の顛末は以下のとおり。
尾張の商人が記した騒動の記録
先ずはこの騒動の記録を遺してくれた方を紹介する。
著者の桑山好之(くわやまよしゆき)は、城下碁盤割の東端にほど近い宮町(現在の中区錦三丁目)に居住し、帆丸屋(ほまるや)の名で大八車の製造販売をおこなっていました。 (※以下、中略ーーネコチャーン)
しかし武士でも学者でもない、市井の大八梓匠(ししょう)がまとめた記録として貴重です。
貴重な文献から、前回記事の「鯛めし騒動」に肉付けしていく。
1.松蔵らが赤坂を目指す
「鯛めし騒動」が起きる20年程前に三州吉田(現 愛知県豊橋市)から夫婦で名古屋に移り住んだ松蔵。
名古屋で鯛飯茶屋を始め、店は次第に繁盛していく。しばらくすると松蔵は茶屋で財を成し、それを元手に家を買い、住吉町の住人となった。
その際、松蔵はしばらく故郷の便りを聞いていないことに気付く。
「花火見物のついでに故郷へ」と大津町河嘉の養子・吉六を誘い、また、松蔵同様に住吉町に住む喜助をお供につけ、都合3人で嘉永2年6月10日の昼に名古屋を出発した。
その日は熱田伝馬町の増田屋に宿をとり、荷物持ちの太吉を雇う。
翌11日に4人で目的地へと向かうことになった。
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@イラストAC
池鯉鮒(現 愛知県知立市)にさしかかった辺りで東から来るのは岡崎宿の小川屋。松蔵と小川屋、双方は知り合いだ。
「吉田の花火を見るついでに御油(現 愛知県豊川市)出身の力士を観に行く」という松蔵。「私は岐阜に用事でね」という小川屋。
小川屋は「岡崎宿に着いたら私の店に泊まっていってくれ」という。
偶然に岡崎宿・小川屋に宿をとったのではなく、こういったやりとりがあったようだ。
2.飯盛女を引き連れ夕涼み
岡崎宿・小川屋で宿をとった松蔵ら。
女将の計らいでもてなしをうけ、飯盛女(『金麟九十九之塵』では”女郎”と記載)を引き連れ、松蔵らが夕涼み(原文には「門の床机に腰かけて……」とある)をしているとことに、一刀ずつ腰に据えた武士が浮かれ騒ぎながら松蔵らに近づいてくる。
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(門のーーはどこかは不明)
@イラストAC
3.武士らと喧嘩
口喧嘩は岡崎が遺した記録どおり。
異なる文言が以下になる。
気が収まらない大山らは「仕返しを覚えておけ」と言い残し立ち去る。
この武士(大山)は岡崎藩の譜代家臣の息子。
仲間の内から助太刀が多数出て、朝が来ることを今か今かと待っていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1729841707-wm7AJg6kIZpjDfeKBzOMX4sT.jpg?width=1200)
@イラストAC
※刀を奪い隠したことは明記なし。大山・村川の負傷は言及無し
4.武士からの仕返し
翌朝、東海道を東へ、と進んでいく松蔵ら。
(岡崎宿の)出はずれに立石がある。片側が藪。土橋のかげに抜刀している武士5-7人。
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@イラストAC
5人は確実にいたようだ。
6人なのか(岡崎の記述)、7人なのか(『金麟九十九之塵』)ははっきりしないのだろう。
5.松蔵・吉六らが殺害される
岡崎の記述では駕籠は松蔵・吉六の順だ。
一方で、『金麟九十九之塵』では逆だ。
先ず、抜刀した武士に驚いた吉六が駕籠から逃げ出し、半町(約50m)逃げ、他所の家に逃げ込み、裏へと行き、灰部屋(灰小屋)でむしろを被っているところで武士に刺され絶命。
松蔵は駕籠の垂を下ろし武士の前を通過しようとしたが、吉六が殺害されたことを見ると駕籠から逃げ出し、腕を切られた。
これを見ていた喜助はその場から逃げ出し、他所の家に逃げ込み雪隠れ(厠)に逃げ込む。しかし、追ってきた武士に「どこに逃げても袋のネズミ同然」と叫ばれ、「殺されてはたまらない」と雪隠れから飛び出し村中(欠村)を逃げ回る。
その際、近くで洗濯をしていた婆様に「逃げ道はないか」と問う。婆様は「その垣根を超えた先に川がある」という。
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▷ ニゲル
タタカウ
逃げるだろう @イラストAC
喜助は婆様の言葉を信じ垣根をこし、半纏を着たまま川を泳ぎ岸に上がり、後ろを振り返る。追っては来ない。
そのまま拳母(現 豊田市拳母町)方面に逃げていく。
ここで別の被害者がいた。
足助方面から来た旅人だ。この旅人の姿が喜助と似ていたことから「喜助、見つけたり」。人違いで命を奪われてしまった。
さて、話は喜助に戻る。
拳母方面から名古屋に逃げ帰ったのが13日。
岡崎藩からはこの喧嘩について名古屋には連絡なし。翌日もだ。
「鯛めし騒動」以前の別の話になる。
尾張(知多郡)の力士が、これもまた「”岡崎宿で喧嘩をし武士から刀を奪って大いに威張る”という騒動」があった。この騒動で力士は鳴海宿で召し取られ、岡崎藩に引き渡されていたがその沙汰の連絡もなかった。
尾張の町では「岡崎はこの喧嘩についても及び腰なのではないか」という噂が立つようになる。
岡崎からの連絡は15日に着た。
使者が尾張にやって来て「一昨日、名古屋の者との喧嘩が城下であったが、喧嘩相手は西方の者がやったこと」という。喜助が役所に申し出たこととは異なる。
そこで、この使者を人質にし、ご評議をする(岡崎と尾張とでかーー※ネコチャーン)。
ご評議の結果なのかは定かでないが、尾張藩の関係者が岡崎に赴くこととなる。そこには吟味役・検使方・検断方など総勢50名ほどが集まっている。
加えて、斬られた松蔵らの検使は未だ行われていない。
6月ということもあり、長持の底を抜いてそれを遺体にかぶせ、その上に塩を積んであるという。
誰とはいわず立てられた札にはこう書かれていた。
喜すは逃鯛はつられて料理られて閻魔へ遅れ人塩にして
鯛飯が宵の料理に喜すを出しすましにせよや岡崎の味噌
![](https://assets.st-note.com/img/1729842486-0wOPjVc9JaFNHsr4DqmuEG7g.jpg?width=1200)
@イラストAC
今回のまとめ
前回の岡崎の記録では「松蔵=ならず者。吉六=腕っぷしの強い乱暴者」という旨の記述がみられた。
一方で今回の記録では「大山は岡崎藩の譜代家臣の息子。仲間の内から助太刀が多数出て、朝が来ることを今か今かと待っていた」という意味合いの文言があった。
当然、双方共に触れていないところも多々見受けられた。
尾張の記録は藩のものでも当事者の記録ではない。喜助や太吉から事件のあらましを聞いているかもしれないが、沙汰など岡崎・尾張藩のやりとり等は不明確な部分もあるだろう。
それでも貴重で双方の視点をある程度は比較できる。
また、仮に足助方面からの旅人も今回の被害者であれば、一番の被害者だ。その存在を消しては駄目だろう。
歴史に色々な説が出てくる。
そういうことがよく判る文献/見方だと思った次第だ。
次回、まとめをし、この「鯛めし騒動」の締めくくりたいと思う。
謝辞
本記事を記述するにあたり『金麟九十九之塵』(『名古屋叢書 第7巻 地理編(2)』内)の著作権の在り方を丁寧にご教示くださった、名古屋市蓬左文庫様。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。
江戸時代後期の名古屋のあれこれを記した『金麟九十九之塵』。原文の誤植の修正をし、画像などをふんだんに織り込んだPDFを販売なさっているようです。
名古屋の地方史に興味がある方はぜひ。
最終改定: 令和 年 月 日( 回目)
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします
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【参考文献】
『金麟九十九之塵』(『名古屋叢書 第七巻 地理編(2)』内)
蓬左文庫 https://housa.city.nagoya.jp/index.html
名古屋市教育委員会HP https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/62-10-0-0-0-0-0-0-0-0.html
『岡崎市史 第八巻』大正15年~昭和10年、岡崎市役所から刊行 昭和47年10月再発行
『新編岡崎市史 近世3』
【参照HP】
『金麟九十九之塵』ー名古屋市図書館デジタルアーカイブ 名古屋コレクション https://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001380
※全1573p. どこに「鯛めし騒動」が記述されているか探されたし
今回、同じ『金麟九十九之塵』でも『名古屋叢書』を参考文献にしたため、参照としての記載に留め、頁の記載は控えます
【画像】
イラストAC https://www.ac-illust.com/
【画像加工】
Canva https://www.canva.com/