先祖を振り返る③ 鈴木重辰と兄弟(子孫書き為す)
今回の時代
今回は重辰と兄弟のみにクローズアップしたいと思う。
具体的な時代は戦国時代(1500年前半~)。
日々、生きるか死ぬか。
誰が裏切るか。誰が味方か。
各々や各々の国がそれぞれの譲れない正義の下、しのぎを削った時代だ。
特に三河の国。
西に織田。北に武田。東に今川。
強大な武力をもつ3か国に囲まれた小国*1だ。
そしてその小国の中で誰が国を統治するか争う。
一度は松平清康公が三河の国を統一したが、様々な要因で早世。
その後は松平家・家中で統率者闘争が起き、西から攻める織田家。東からくる今川家。
今川家傘下になってからも続く織田家との所領攻防。
ざっと書くと上記のような流れだったはずだ。
清康公が早世し、混沌とした時代に重辰と兄弟は青年期を迎えている。
*1 三河の国というくくりで『国』という名称を使用
重辰の父 鈴木小五郎重則
鈴木小五郎重則が実在した記録は下記を参照いただきたい。
『三河堤 巻之二(27コマ目)』の中央あたりに『鈴木小五郎』という名がある。
また、『三州諸士出生録(17コマ目)』・姫小川にも『鈴木小五郎』の名が見つかる。
このことから、鈴木小五郎重則は安祥城近く(桜井村)に住していたと判断して良いと思われる。
それでは、重則の子を順にみていく。
長男 鈴木甚四郎重辰
重辰については次の記事で詳しく触れたいと思う。
次男 鈴木衛門三郎重福
記載されたとおりにタイプしているが、衛門三郎が通称だと思われる。
しかし、それに続く則定住居が何を意味するか分かりかねる。
三男 鈴木五郎太夫重豊
4兄弟のうち、重豊のみが大権現=家康公に仕えたようだ。
そののち、ここで意味する『武州』が江戸を意味するのか、現・埼玉県を意味するのかは分かりかねる。
ただ、この系譜が記載されたのは1636年のため、江戸を意味するのではないかとは思う。
四男 鈴木正三
『禅学に”通”し』としたが、これが読み取れない。
『達し』かもしれない。『しんにょう』の漢字のようだが、私では読めない。
ここでは、『通し』としておく。
現代とは大きく異なる時代
少し前の時代では、『兄弟、力を合わせて』。
個の自由や意思の尊重が重要視される現代では『いくら兄弟とはいえ、ある程度の距離感をもってできれば仲良くし、そうでなければ冠婚葬祭のみの付き合い。それすらできない間柄であれば無理に関わらなくても良い』だと思う。
戦国時代の兄弟とはどのようなものだったのであろう。跡目争いなどで身内が一番の敵。もしくは兄弟で力を合わせ……だったのであろうか。
三河の国のような小国であれば、無理な話であっても、個人的には後者であってほしい。
しかし、戦国時代。
しかも統率者を失った直ぐ後だ。
統率者・松平清康公をなくした『森山崩れ』は天文四(1535)年一二月のこと。
この記載は重辰側からの視点だ。
従って、根石之郷に移住したのは重辰(とその家族)のみだ。
天文八(1539)年に兄弟口論の末、それまで住んでいた桜井村(現 安城市)から根石之郷(現 岡崎市欠町)に移住したという。
これが八柱神社の創建年度が違うといった理由だ。
源平合戦の際に桜井村に住み、その末、欠村にたどり着いたーーとあったが、系譜によると欠村に移住したのは天文八(1539)年だ。
仮定
ここはあくまで推測ではあるが、口論は当時の歴史的な背景ではないだろうか。
カリスマ性をもった統率者(清康公)を失い、バランスを欠いた三河の国。
東の今川家。
西の織田家。
三河の国は誰が統率するかといった内部闘争。
一度は清康公に従った国衆も離反があったともいう。
若い兄弟は何を思っただろうか。
「誰に仕えるか」
「このままで良いのか」
「いっそのこと、また有力国衆となり自分が統率者になるか」
平和な時代に生まれた私には理解できない考えが生まれ、また、兄弟が別れ別れになるほどの激しい口論があったと思う。
個々に思うことがあり、相手の言うことに同調することが出来なかったのではないだろうか。
そのため、
・重辰→誰にも仕えない(流人は誰にも仕えない意味です……よね)
・重福→神社の祠官
・重豊→家康公に仕える
・正三→遠州国分寺にて禅学
特に、重福・正三は戦いが続くこの世(当時)に疲れ、神仏に仕えたのかもしれない。重辰は何を思ったのか分かりかねるが、重豊は家康公に仕える。
まさに兄弟バラバラになったわけだ。
心に何がよぎり、何を感じ。どう思ったか。
察する事はできるが、私は半分も理解はできていないだろう。
まとめ
現代の考えとは切り離し、当時の価値観で物事を見なければ重辰や兄弟の気持ちは現代人には到底理解できないだろう。
それぞれが国を思い、家族を思い、自分自身の誇りのために戦ったのだと思う。しかも盾すら持たずに、だ。
彼らの生き方から学ぶものが現代人にはあるのではないかと思う。
本来は、重辰の歴史も一気に書きたかったのだが、『一記事おおよそ2000文字で』と考えている。そのため、重辰のその後・八柱神社のはじまりについては次の記事で書きたいと思う。(今回は3000文字強……)
補足、およびお礼
一族に現存する原本がないため愛知県図書館デジタルライブラリー様が所蔵する古書を閲覧し、先祖の名前に合致する記述を見つけ『系譜に書かれた内容との整合性』を見ていた。
また、今回記事内に画像を転載する上で、必要頁の引用許可を頂戴した。
大変貴重な書物を閲覧させていただき、また、引用承諾を頂戴いただいたこと。ご高配に厚くお礼申し上げます。
今後とも、何卒、よろしくお願いいたします。
愛知県図書館デジタルライブラリー様が所蔵・ネット上で公開している古書の個人・学術の研究目的(但し、非営利に限る)の引用は問題ないようですが、この記事のように転載は愛知県図書館デジタルライブラリ様への申請書の提出・承諾が必要となります。
(無断引用・転載は×。営利目的も×)
必ず利用規約を読み、適切な範囲でご活用ください。
著作権・所有権を侵害する行為のみはお控えください。よろしくお願いいたします。
上記にご留意いただき、貴重な古書に触れられてはいかがでしょうか。
【注意事項】
著作権の観点から、無断引用・転載はお控えください。
引用・転載の際はお声がけください。
また、愛知県図書館デジタルライブラリー様より転載承諾を頂戴した画像は特に転載しないようお願い申し上げます
画像転載
三河堤 巻之二 より
三州諸士出生禄 より
愛知県図書館デジタルライブラリー所蔵
参照
新編 岡崎市史 中世2
Thanks;
canva様 https://www.canva.com/
ACフォト様 https://www.photo-ac.com/