【地方史】岡崎宿はずれにて尾張の鯛飯屋が殺害された件②(本論1 岡崎の記録による事件の顛末)
はじめに
事件が起きれば当然のことだが「被害者」と「加害者」がいる。
双方に近い立場であれば記録する内容も多少変わってくるのは人間の性だと私は思う。
そのため、旧)岡崎藩・旧)尾張藩(に住まう商人)が記録したそれぞれの「尾張鯛めし屋が岡崎宿のはずれにて殺害された件(以降、「鯛めし騒動」)を見ていきたいと思う。
今回は事件が起きた岡崎藩(岡崎市が所有する記録)が記録した資料を基に現在にのこる事の顛末を追っていく。
事件に巻き込まれた私達の先祖が遺した記録?は、前回の記事を参照いただけると幸いだ。
岡崎藩が記録した「鯛めし騒動」
以降、大正15年~昭和10年に岡崎市役所より刊行された『岡崎市史』を基に私が出来る限り簡潔に話をまとめたものだ。
旧仮名遣いもある文章。少々の齟齬も生じている可能性があることはご容赦願いたい。
嘉永2(1849)年6月11日の夜のこと。
尾張の鯛飯屋の主人・松蔵を含む3名と岡崎藩の若侍2名が岡崎宿轉馬町(現 伝馬町)に於いて喧嘩をしたことが事件の発端となる。
さて、先ずはこの事件の被害者。
事件当時、三州赤坂に於いて相撲の興行があった。
名古屋広小路(住吉町)にて鯛飯屋を営む松蔵には興行に出ている力士のうちに推しがいるという。鍛治屋町の同業者・河内屋の倅・吉六に「赤坂宿(現 豊川市赤坂町)で行われている相撲興行を共に観に行こう」と誘い、吉六はそれを了承。
お付きの者として松蔵と同じ町に住む喜助、更に、熱田宿の太吉を荷物持ちに加え、4人で赤坂宿へと向かった。
松蔵一行は、その夜に岡崎宿轉馬町の旅籠・小川屋に宿をとった。
飯盛女の琴治・みさ等を座敷にあげ、上機嫌で酒を浴びるように呑んだ松蔵ら(松蔵、吉六、喜助の3名)は涼を求めて琴治らを引き連れ、轉馬の町をぶらぶらと歩く。
ここで道の向かいから来たのがこの事件の加害者、岡崎藩・御家人の大山久之允(18歳)と組足軽の村川猪之助(22歳)。
悪酔いした大山らが松蔵らとのすれ違いざまに琴治をからかう。
すると松蔵が「何をする」と大山らを一喝。大山らも酒のせいか松蔵に難癖をつけ、あっという間に口喧嘩になった。
「これをまずい」と思った喜助が喧嘩を仲裁し、その場が収まったかのようにみえたが、大山は未だ虫の居所が悪いよう。それに加え、村川が松蔵に突っかかった。
それがキッカケとなり取っ組み合いの喧嘩に発展し、村川は抜刀した刀を松蔵に奪われ、更に松蔵から村川の刀を受け取った喜助が近くの家の軒下に刀を隠してしまう。
大山・村川双方は顔面を殴られ負傷。
気が済んだのか、松蔵らは旅籠に戻り酒を呑み直しその日は就寝。
村川の刀は、その後、何者かによって町会所に届けられた。
日が明け、嘉永2(1849)年6月12日。
松蔵らは午前8時を過ぎる頃に小川屋を出立。なんだか心も足取りも重く、投町(現 岡崎市若宮町)の泡雪茶屋で朝酒を嗜む。ここで松蔵と吉六は駕籠を雇い茶屋を発つ。喜助は駕籠の後を歩いていくという運びだ。
そして事件は起きる。
欠村(現 欠町・栄町・大平町の境周辺か)のはずれ・筋違橋の端、領分境の後ろに5-6人の武士が抜刀し、待ち構えている姿をいち早く確認した喜助は驚き「昨日の仕返しだ」と叫んだかと思うと逃げ出した。
松蔵は喜助の叫び声に驚き、駕籠から出たところで腕を切り落とされ、その後に何度も斬りつけられ絶命。
叫び声(松蔵の声か)を聞いて吉六は駕籠から転げるように飛び出し、逃げる。近くの民家に忍び入り、古いむしろを被って隠れるものの追ってきた武士に刺され絶命。
先に逃げていた喜助は、数人の武士が追ってくると思い夢中になって民家に逃げ込み、静かに厠へと潜み、難を逃れたことをそっと確認すると厠から逃げ出し、途中で自らの目印となる半纏を脱ぎ捨て拳母(現 豊田市挙母町)の方面に大回りをし13日には尾張に戻り、この顛末を町奉行所に訴え出た。
松蔵らの荷物持ちをしていた太吉は泡雪茶屋での勘定で出遅れたため先を急いでいたが、「この先で殺しがあった」という騒ぎを聞き、「昨夜の仕返しだ」と荷物を捨て尾張に逃げ帰った。
尾張の奉行所にて喜助から事の顛末を聴取しているところに岡崎からの使者がくる。
使者曰く、「岡崎の領内で尾張の町人が惨殺されたが、殺害したのは西国の浪人だ」と云う。
その後に何度も岡崎藩と話し合いを持って埒が明かない。
そのため、幕府に吟味を願い出て、翌嘉永3年4月より江戸の評定所にて吟味が始まった。
岡崎藩が記録した沙汰と被害者
沙汰の決定は嘉永3(1850)年10月3日。
被害者 尾張の住吉町 鯛飯屋 松蔵
鍛治屋町 河内屋 倅・吉六
岡崎藩・大山・村川 重追放
(関東周辺、大阪周辺、九州の一部、東海道筋、木曽路筋より追放)
尾張の町人 喜助 江戸払い
岡崎領内の農民 清右衛門 処払い
(大山・村川から「松蔵一行が東海道から逸れた際、速やかに連絡せよ」と頼まれ、岡崎宿の小川屋から松蔵一行の後をつけていたことが不届き千万という処分)
※大山の父 大山久右衛門 御叱り
※襲撃に加わった岡崎藩士・浅見清兵衛 自宅謹慎
※尾張の太吉 手鎖30日
※岡崎の問屋 専右衛門 過料 銭3貫文 (真偽不明)
(※は『新編岡崎市史 近世3』より)
しばし刻を戻し、事件が起きた頃。
検分待ちだった松蔵の首にコッソリと札がつけられていたと云う。
後年の補足
『新編岡崎市史 近世3』では少々情報の追加がある。
それを箇条書きで見ていきたい。
・松蔵らを殺害後、大山らは藩外へ逃亡。岡崎藩は取り繕うために「余所の浪人のしたこと、わからない」と尾張藩に連絡
・岡崎は藩内にかん口令を敷く
・喜助の訴えにより尾張から50名を超す捕手/真相究明で岡崎藩へ
・武士と町人の喧嘩の末の事、幕府は吟味を一旦却下している
・江戸での沙汰は岡崎藩関係者・宿問屋役人・琴治ら飯盛女・投町の泡雪茶屋・駕籠屋・農民清右衛門(出身不明)・巻き込まれた欠村の者など50人超が江戸に呼び出された
評定には半年かかったが、その経費は全て実費。
私達の先祖・清太郎とその前の代が「家のお金を随分と遣った」と聞いたことがある。しかしこれは”村を代表して江戸に呼び出された理由に依るものであれば”、非難すべき内容ではないと私は思う。
岡崎から江戸へ、またその帰路。宿泊費、食費、時に駕籠代。
半年もの江戸での滞在費。
相当な金額が掛かったことであろう。
それが酔っ払い同士の喧嘩が原因だ。
なんとも言えない気持ちになる。
岡崎の視点
大変に印象的な表現が『新編岡崎市史 近世3』にあった。
徳川御三家の尾張藩が相手。しかし相手が町人。
客観的にこの事件を見ている私には、町人に刀を奪われ負傷する武士。
面子や武士の矜持の前にすべきことがあったのではないだろうか(心身共の鍛錬だ、言及するまでもない)。
また、松蔵の性格を
吉六の性格を
と表現している。
松蔵=ならず者。吉六=腕っぷしの強い乱暴者、といったところか。
これを「酒で理性が飛んでいた」と解釈すべきか、「乱暴者ゆえ、いくら武士でも……」という意味か私には分かりかねる。
他の城下の町人だ。
加えて、他人の性格はそう容易く分かるものではない。
少々、大山・村川に寄り添った記述という印象を受けた。
※広義で身内ゆえ、上記のような記述になりやすいと理解している
今回のまとめ
江戸幕府を開いた家康公が生まれた岡崎という地。
徳川御三家となった尾張藩。
現代では分かり得ない確執があったのかもしれない。
次回はこの事件の経緯を基に尾張藩に住まう商人が具に遺した記録に沿って「鯛めし騒動」を見ていきたいと思う。
最終改定: 令和6年10月25日(1回目)トップ画像変更
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします
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【参考文献】
『岡崎市史 第八巻』大正15年~昭和10年、岡崎市役所から刊行 昭和47年10月再発行
『新編岡崎市史 近世3』
【画像】
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