【地方史】岡崎宿はずれにて尾張の鯛飯屋が殺害された件④-完-(終章 まとめと現代の騒動現場)
はじめに
どのような歴史があっても、それを語る人がいなくなればその”歴史”もいずれは風化するものだ。
語り継ぐ内容や取り組みがしっかりと構築されていなければ「--と聞いたことがある」「--ではなかったのか」といった曖昧な歴史が出来上がることもあるだろう。
そしてその多くは事実や記録された歴史とは大きく乖離するものだと個人的に思う。
さて、今回は「鯛めし騒動」が起こった場所を巡りたいと思う。
ひとつ書いておかねばならぬ事がある。
当然のことがだ、現在、騒動の近隣に住んでいる方がいる。これを目にしたら気を悪くするかもしれない。しかし、どの地域でもその昔に命を落とした方が1人や2人は確実にいるだろう。
街道沿いなら尚の事。
私達は例外なく、先人の功績や足跡の上で生活していることをご理解いただけると幸いだ。
「東海道・岡崎宿 欠村はずれ」
江戸時代の地図
まずは、旧地図で東海道・岡崎宿の入口より東・欠村のはずれ。「西大平藩との領境」の”おおよその場所”を見てみる。
まずは江戸時代の記録。
赤でマークした箇所が「鯛めし騒動」が起きた、おおよその場所。
もう少々、欠村にクローズアップした絵図を引用する。
描かれている川が「更紗川」。橋が「筋違橋」。
『岡崎市史 第参巻』に以下のような記述がある。
ここでの「大岡」とは西大平藩のことを指すと思われる。
『金麟九十九之塵』に記載されていた「立石」。上記の場所に下記のような「傍示石」が立っていたとされる。
この「傍示石*」は、現在、岡崎公園の大手門前で見ることができる。
明治時代の地図
次に、欠村はずれ、旧)筋違橋の場所を1888~1889(明治21~22)年の地図から見ていく。
分かりやすく、エリアを絞っていく。
上記の地図を見ると、傍示石から多く見積もって100mの距離を尾張・川嘉の吉六が走ったと推測する。
「余所の家に入り……」ということから、上記の地図よりもより人が少なかった江戸時代。どう推測しても欠村方面に逃げたと思われる。
また、喜助が逃げたとされる川は「更紗川」。欠村内の灌漑用水(だと思われる *真偽不明)。もしくは、1500年代の欠村ご領主の報償による、東に面する洞村に所在する「広見池(現在地不明 ※2024年10月現在)」から流れ込む灌漑用水ではないかと思われる。
南に乙川があるが、東海道の領境から乙川にいたるまでは水田。
拳母(現 豊田市挙母町)方面とは逆になる。
吉六に関しては、先祖が書き遺したとおりに「雪隠れ(厠)」に逃げたことはおおよそ事実だろう。
岡崎藩、尾張の記録、先祖の記録とそれは一致している。
ただ、それが「どこの家の雪隠れは不明」といったところか。何しろ証拠がない。
現在の「筋違橋」
少々「筋違橋」から離れた東海道の写真。
もう少し進んだ写真。
昔の地図と比較した結果、”おおよそ”下の写真の位置付近から上の写真の赤のマーク付近が東海道だったと思われる。
まとめ
岡崎藩の武士に「心身の鍛錬が足りない」と書いた記事もある。
しかし、江戸での沙汰に呼び出されたとされる、先祖・清太郎の義子(娘婿)・吉次郎は岡崎藩の武士であった。
無関係の場所から岡崎の武士に対して懐疑的な姿勢でいるわけではないことは付け加えておく。
さて、今回の「鯛めし騒動」。
一族内の鉄板ネタとするのであれば、先祖が遺した記録で十分だろう。
しかし、本来は『欠村誌』として中心となり歴史を遺していかねばならぬ一族。それでは先祖から受ける恩恵が勝ってしまう。過ぎた恩恵を得たのであれば、相応の行いを返すことが義務ではないだろうか。
「鯛めし騒動」は実際に起きた事件。欠村での火災も実際に起きた出来事だろう。
ふたつの出来事を同時期に起きた事象と思い込んで、何十年の後に誰かが記録したのではないかーー私はそう思っている。
実際に「鯛めし騒動」は先祖の記録と岡崎藩・尾張の記録では20年余りの誤差が生じていた。加えて、殺害されたのは尾張の武士5人ではなく町人2人(+足助からの旅人1人)だ。
また、他人を納得させやすい数字(ここでは、先祖・清太郎やせいなどの年齢)を用いられてはやはり情報を鵜呑みにしてしまう。
このような騒動が東海道・岡崎宿付近で起きたこと。
自分が信じている歴史が本当に正しい歴史か否かは、信頼できるソースとの比較をしなければ誤差・違いには気付けないこと。
それを流布した場合、容易には歴史は修正できないこと。
個人的な感想ではあるが、それを身に持って知らしめてくれた騒動との古との対話だったと私は思う。
筆舌に尽くせないほどの時間・労力・その他負担がかかった。
それでも、この騒動を調べる上で様々な過去の記録に出会えたことは幸運だったとしかいえない。
最後に、重追放になった大山・村川らがその後は少しでも良い人生を歩めたこと。この騒動で命を失った松蔵らの魂が今は安らかであることを願ってやまない。
謝辞
昭和47年に再販された『岡崎市史』を出版された株式会社名著文庫様。
いきなりのご連絡にも関わらず格別のご高配を賜り、また、丁寧に著作権についてご教示くださりありがとうございます。
重ねてお礼申し上げます。
また、岡崎市役所関係各課様。
日頃より丁寧なご対応をくださいますこと、この場を借りて御礼申し上げます。
(課名は諸般の事情で伏せさせていただきます)
最終改定: 令和 年 月 日( 回目)
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします
【注意事項】
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引用・転載の際は必ずお声がけください
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【参考文献/サイト】
『金麟九十九之塵』(『名古屋叢書 第七巻 地理編(2)』内)
『新編岡崎市史 近世3』
『岡崎市史 第八巻』
今昔マップon the web https://ktgis.net/kjmapw/
【画像出典元】
『岡崎市史 第貳巻』
『岡崎市史 第参巻』
今昔マップon the web https://ktgis.net/kjmapw/
【画像】
イラストAC https://www.ac-illust.com/
写真AC https://www.photo-ac.com/
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