先日投稿した卒論合同感想note⑦をきっかけに、「ネクタル」「睡眠退散」に関する議論が月嶹ぽらるさん(@tsukipola)と盛り上がり、それがとても良い結論に達したように感じたので、備忘録としてここに残します。
きっかけ:ねぼろくのコメント
議論の対象となったのは、大道具室のシーンと「魂のレビュー」直前の楽屋のシーンに共通して登場する「ネクタル」と「睡眠退散」の位置付けに関して。「『睡眠退散』を飲むということ」という記事への感想・コメントとしてあげた以下のような文章に、ぽらるさんが反応をくださり、そこから数回のやり取りを経て、結論に落ち着きました。
議論の下敷きとなっているのは、上の「卒論」とそれに対する上記コメント、そしてぽらるさんの以下の記事です。
ぽらるさんのコメント
ねぼろく→ぽらる①
ぽらる→ねぼろく①
ねぼろく→ぽらる②
結論:「甘え、不死、覚悟」
こうして眺めてみると、作品の中でキーアイテムとして描かれているトマトは、「ネクタルの死と再生のモチーフ」と「睡眠退散の甘くないというモチーフ」を組み合わせたものがトマトである、と言うことができます。つまり、トマトには「死と再生」のモチーフや「甘くない」という含意が込められているが、それは「もし死んでしまっても生き返ればいい」という甘えたものや、「死なずに生き続けなければならない」という無理難題なものではなく、「不可避的に訪れる「死」から「再生」することによって生き(返り)続けなければならない」というものである、ということです。
これを裏から捉えるならば、トマトを齧ることは、「甘え」や「不死への欲求」を断ち切ることである、となります。つまり、ネクタルの持つ甘えた要素や、睡眠退散の含意する不死という無理難題への欲求を断ち切る、ということです。確かに、「死んでも生き返ればいい」という甘い言葉や、「死なずに輝き続ければいい」というストイックな目標は、とても強く我々の心を惹きつけます。しかし、現実はそう単純ではない。生きて死んでまた生き返るというのを何度も繰り返して生きていくしかない。卒業を前にした舞台少女たちは、そう覚悟して前に進んで行ったのだと思います。
そして、これを書きながら、それはこの一連の議論にも当てはまるのではないかと感じました。一度生まれた解釈を捨てて、新たな形でまた拾い上げて…といった形で新たなイメージを物語に付加していく。そして、そこから得られたエネルギーを糧にこの世界を生きる。舞台少女が決意した、まさにそのような過程を、行なっているのだと実感しました。
だからこそ我々は、この作品を読み続けるのでしょう。