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劇場版の「市民革命」と「脱構築」〜〜『少女☆歌劇レヴュースタァライト』論後編〜〜

※※本稿には、歴史学や哲学などの専門的な知識が出てきますが、筆者はそれらに関する体系的な教育を受けておりません。誤った箇所や不完全な記述にとどまっている箇所がある可能性があります。その点をご承知の上お読みください。※※

1. はじめに

前半の内容をまとめると、以下のようになるだろう。

WSBまでの舞台設定では、舞台が神、キリンが聖霊、なながキリストとして機能しており、その三者は「三位一体」のような形で結びついていた。そして、それを頂点として、その下に舞台少女(=俳優育成科)、舞台創造科、観客(=我々)と続く、ピラミッド状の階層が形成されていた。しかし、必ずしもそれは固着したものではなく、それを崩していくような萌芽も存在していた。

これを受けて、後編となる本稿では、上記のような階層構造が内側から崩壊し、完全に平準化された「平等」のもとに置かれていくことを、そしてそれこそが「私たちはもう舞台の上」ならびに「再生産」という劇場版のテーゼであることを明らかにする。そこで働いているプロセスは、前近代から近代へというプロセスを辿るものであると同時に、近代からポスト近代へというプロセスを辿るものでもある。前者に関しては大西洋革命期のアメリカ/ヨーロッパを踏まえて、後者に関しては脱構築を中心概念とするポストモダンの思想に基づいて読解を試みる。

2. 宗教的権威・アンシャンレジームの後退〜前近代から近代へ〜

2.1. アメリカ独立革命とフランス革命

前近代の枠組みは、「絶対王政」と「アンシャン・レジーム」に代表されるだろう。王権を神から授けられたものと考えることで、人々を支配する正当性を得ると同時に、神に対してのみ責任を負う、という論理が作られる(王権神授説)。結果として、君主への権力の集中と、君主を頂点とする階層的な身分体系がもたらされる。これが典型的に現れたのが、フランスのアンシャン・レジーム(「旧体制」)である。国王の下に、「第一身分」の聖職者、「第二身分」の貴族、「第三身分」のその他の人々、というヒエラルキーの中で、第一身分と第二身分だけが特権を与えられていた。第三身分は、重税などに苦しめられていた。

フランスにおけるこうしたシステムと並行的に、イギリスにおいて虐げられていたのが北米植民地である。対フランス戦争などの費用を賄うために、北米植民地には課税に次ぐ課税が行われ、その反面議会には代表を送ることは認められていなかった。

これに対し北米植民地の側は、「代表なくして課税なし」を掲げ、独立戦争に踏み切った。最初は劣勢であったものの、フランス軍の支援などもあって北米側が勝利。独立を果たした。その過程で決議された「アメリカ独立宣言」では、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」に象徴されるように、市民の平等と主権の所有が宣言されていた。

こうした動きに影響を受けたのがフランスである。絶対王政を象徴するバスティーユ牢獄の襲撃から始まり、「あらゆる人間は生まれながらにして自由で平等である」ことを宣言するフランス人権宣言が打ち立てられた。絶対王政を敷いていたルイ16世は処刑され、アンシャンレジームは打倒されることとなった。

2.2. スタァライトの「市民革命」

こうした流れが、『劇場版』においても存在している、そして、それを通して、「私たちは舞台少女」というテーゼが導き出される。舞台を頂点にした階層構造を打破し、統一の基準のもとで個人を同じ地平のもとにおいたのである。

中でも、最も有名な二つの革命――アメリカ独立革命とフランス革命――が、『劇場版』において直接的なモチーフになっている。まず、アメリカ独立革命について。純那の進路はアメリカであり、ななの進路がイギリスであったことから、「純那の、ななからの独立」として「狩りのレヴュー」を解釈できる、ということが既に指摘されている。また、純那が(引用ではなく)自分の言葉でななに反旗を翻していく様子は、トマス・ペインの『コモンセンス』やパトリック・ヘンリの「自由か死か」の演説などの言論で独立の機運を高めていった北米植民地と重なるところがある。

また、フランス革命については、「魂のレヴュー」がそれを部分的になぞっていると言えるだろう。真矢の口上は、「愛、自由、平等」を一蹴し、己の「天上天下唯我独煌」を宣言する。「自由、平等、友愛」は革命期以来の共和制フランスの標語であり、これを、あるいはこれを口上に組み込んでいたクロディーヌを、明確に否定するのは、フランス革命によって打倒される絶対王政の側に立っている、ということであろう(これも既に指摘されている)。また、「恨みのレヴュー」における仏教のモチーフをフランス=仏(=クロディーヌ)と結びつけて解釈されていることを踏まえると、釈迦の言った「天上天下唯我独尊」を自ら口にあすることは、自らが仏であり、すなわちフランスである、という宣言とも取れよう。これは、「朕は国家なり」と語った絶対王政期のフランス王ルイ14世と重なるところがある。そして最後に、自ら「神」を志向し、舞台上を意のままに支配しようとする様子は、王権神授説とのつながりを感じさせる。そうして絶対王政を敷こうとした真矢の試みは、「皆殺しのレヴュー」を経たクロディーヌによって打倒される。「神の器」の首を切り落とされるのは、フランス革命で国王をはじめ多く利用されたギロチンによる処刑と重ねられるだろう。

ここまで詳細な描写を見てきたが、これは『劇場版』で繰り返される構造の中にも見出せる。これまで「負け」てきた者たちが相手の上掛けを落とすこと、自らの意思で舞台に立っている(演じることを選んでいる)のだと宣言すること、自分の行く末は自分が決めると宣言すること。こうしたプロセスを経て、階層的な秩序は解体され、統一の基準による「平等」が達成されたのである。そして、その「統一の基準」というのが、ポストモダンへの/ポスト構造主義的な展開の中で彫琢されていく「再生産」である。

3. ポストモダンへの展開

一方で、近代に想定された「平等」というのがあらゆる人間を対象にするものであったわけではないことにも注意をしなければならない。つまり、近世から近代への 移行によって達成された平等は、特定の制限が付いていたのである。アメリカにおける黒人は、1860年に始まる奴隷解放運動、あるいはその100年後の公民権運動まで抑圧を受けていたし、フランスにおける「人権宣言」における「人間」が「男性」だけであったことも有名である。しかし、こうした近代西洋世界の限界も、劇場版は軽々と超えてみせる。というのも、WSBを通して行われたのは、前近代から近代へのシフトであると同時に、近代的な思考の枠組み=モダニズムからポストモダニズム的な思考の枠組みへの移行でもあるのである。

3.1. 「脱構築」とは何か

そこにおいて決定的に重要な役割を占めるのが、「脱構築」(deconstruction)である。これは、フランスの哲学者:ジャック・デリダが導入した概念で、わかりやすい説明は以下に詳しい。

その中でも本稿に関連する重要なところを、著者なりの言葉で表現する。

西洋哲学の伝統の中においては、二項対立が強固なものとして存在していた。例えば、「人間と動物」「自己と他者」「善と悪」「生と死」などである。これらは、中間的な状態や両方の特徴を有している状態ではなく、片方の特質だけを持っているものとして想定されていた。さらに、この二項対立の二つの要素は、並列的に並べられているわけではない。そうではなくて、特定の基準をもとにして、優れているものと劣っているものとに分けられている。これが、「階層秩序的二項対立」である。例えば「書かれた言葉(エクリチュール)」は、何度も反復できる(反復可能性を持つ)がゆえに、発言者の本来の意図や周辺の文脈が抜け落ちる可能性があり、従って「話された言葉(パロール)」に比べて劣ったものとみなされてきた。

こうした「階層秩序的二項対立」を突き崩したのがデリダの「脱構築」である。脱構築とは、「階層秩序的二項対立の優位な側に置かれたものが優位であるまさにその理由の中に、劣位な側が劣位であるまさにその理由が含み込まれている、と論証することで、二項対立が成立しないこと、無効であることを示す」というものである。つまり、「優位な側の優位性が、劣位な側の劣位性に支えられている」ことを示すことで、二項対立を突き崩していくのである。

先述の「話された言葉(パロール)」と「書かれた言葉(エクリチュール)」の例で考えてみる。我々が話された言葉(パロール)を理解できるのは、そこで書かれた言葉(エクリチュール)についての知識が参照される、反復が行われるからである。従って、話された言葉(パロール)が即時的に理解できるという優位性の源泉は、書かれた言葉(エクリチュール)の反復可能性という劣位性の源泉に依存している。こうして、話された言葉と書かれた言葉の、前者を優位とする二項対立はもはや成立しないものであることが示される。

ここにおいて決定的な役割を担ったのは、「反復可能性」という概念であり、劣位性の源泉であると同時に優位性の源泉と不可分に結びついているものであった。これが、先述の書き言葉と話し言葉の対立から「原エクリチュール」と呼ばれるものであり、脱構築の最も重要な要素であるといえるだろう。

3.2. スタァライトにおける脱構築

ではその脱構築は、劇場版においてどのように描かれているのか。言い換えれば、どのような階層秩序的二項対立が存在しており、それをどのように崩しているのか。それを考えるためには、まずWSB以前の階層構造を見る必要がある。

作中では、以下(図1)のような階層が存在しているといえよう。舞台を頂点として、舞台の上に立つA組(俳優育成科)、A組が立つ舞台をつくるB組(舞台創造科)、そしてA組とB組によって作られた舞台を鑑賞する観客(我々)の順に下っていく。

図1:スタァライトにおける階層性

まず、A組(俳優育成科)の内部には、「クレールとフローラ」の二項対立が存在している。「追われる者と追う者」と言い換えてもいいだろう。いうまでもなく、クレールの方が優位な側に位置付けられている。真矢クロの真矢であり、ふたかおの香子である。また、A組とB組の間には、「演じる者とつくる者」という対立が存在している。舞台が作られるのは演じるため/みせるためであり、つくる行為はそれに従属する二次的な行為であると考えられている。従って、演じる者が優位に置かれているであろう。そして、A組/B組と観客の間には、「みせる者とみる者」という対立がある。後者は前者のみせるものとの間に従属的な関係しか取り結ぶことができず、その点で「みせる者」の方が優位の側に置かれている。以上を図に整理すると、以下(図2)のようになるだろう。以下、これらの二項対立が脱構築されるプロセスを、順を追って見ていく。

図2:階層秩序的二項対立の連鎖

3.2.1. クレールとフローラの脱構築

TVアニメにおいては、「クレール役」と「フローラ役」の対比が、複数の二人組において再演されてきた。神楽ひかりと愛城華恋であり、天堂真矢と西條クロディーヌであり、花柳香子と石動双葉である。どれにおいても、その技術ゆえに相手を「待つ」者、「追われる」者あるいは「強者」として位置付けられていた。そして、そこにおいて彼女らの「強者」としての使命は、「前に進み続けること」であり、それこそが強者たる所以であった。「届かない場所へ」と「より高くより輝く」のが、クレールとしての「誇り」なのである。

それを踏まえてフローラの側に目を向けてみると、その劣位性は「クレールの背中を見ていること/クレールを見上げていること」に由来している。「追う者」たるフローラは、まさにそのことによってクレールに対する劣位性が刻まれているのだ。

ここで、ここまでの議論を並べてみると、原エクリチュールが取り出せる。フローラの劣位性の源泉である「追いかけること」は、クレールの「前進し続けること」という優位性の源泉の基礎をなしてもいたのである。すなわち、原エクリチュールとしての「前進」が取り出されることによって、フローラとクレールの対立が崩れることになる。これを劇場版の描写に突き返してみるときに、以下の記事が参考になる。

上の記事においては、「失楽園テンプレート」として、「現在の居場所に適応し安定を得ているイヴ役が、賢い蛇役による誘惑や試しを経て、禁断の実にあたる欲望や弱さやリスクを我が物とする覚悟を決め、楽園の外の過酷な野生世界へ出て行く」というモデルが提案されている。

ここで重要なのが、誘惑を受けたイヴ役が、次の時点においては蛇役となる、という指摘である。先に述べた脱構築のモデルに即してこれを考えるならば、イヴ役はフローラ/クレールのどちら一方に固執する者、蛇役は両者の不可分性を受け入れ脱構築した者として考えることができる。つまり、レヴューを通してAがBにクレールとフローラの脱構築を説き、それを受け入れたBがさらに別のCに脱構築を説く、という流れである。「皆殺しのレヴュー」→「競演のレヴュー」→「最後のセリフ」のなな→まひる→ひかり→華恋がそれである。また、これと同様な形で相互的なモデルを考えることもできる。「怨みのレヴュー」の香子→双葉→香子、「狩りのレヴュー」のなな→純那→なな、「皆殺しのレヴュー」→「魂のレヴュー」の真矢→クロディーヌ→真矢がそれである。後者の場合、一人目の「蛇役」は「脱構築」を真に感知しているとは言えないかもしれないが、「クレールであろう」とするのに執着する中で、その中の「フローラ性」が「イヴ役」によって見出されたことで脱構築が理解された、と考えることができるだろう。(言うまでもなくここでの「説く」というのは象徴的な意味であり、必ずしもAがBに対して直接的な手段で脱構築を「教える」わけではない。そうではなくて、Aが自らそれを演じるなどの姿でもって、Bにそれを感知させることを指している。)

こうしたプロセスを経て彼女らがたどり着いたのは、原エクリチュールである「前進」(=かつての階層秩序的二項対立においては劣位の側のフローラと結び付けられてきたもの)を中核とする姿勢である。このことは、劇場版パンフレットにおいて、全員がフローラ役となって台本に書き込みをしている点に、最もよく表れている。

3.2.2. 演じる者とつくる者の脱構築

A組とB組の関係性は、「演じる者」の優越性を示しているとは必ずしも言えないようにも見える。というのも、聖翔祭前の稽古のシーンなど、舞台の「外側」においてはB組の方が主導権を握っているように思われるからである。しかし、逆に考えてみると、舞台の外側における主導権をB組が握っているからこそ、舞台上においてA組が優越することが可能になっているのである。逆に言えば、舞台上でA組が優越することを条件に、B組は舞台の外側での優越性を認められているのである。舞台上で最高のパフォーマンスをA組が行い、A組が喝采を浴び、A組が注目を集めるために、B組は舞台の外での優越を許されるのである。

このことを間接的に支持する描写として、TVアニメの第7話、ななが舞台創造科と掛け持ちをすることに対する各人の反応(あるいはその描き方)があげられる。類稀なる裏方の能力も有しているななに対して、「もったいない」「逃避である」といった読みが行われるのは、舞台を演じることが舞台を裏方で支えることに優越する、という感覚を前提にしている。そこで共有されているのは、「直接的に観客に「キラめき」を与えることができるのは、舞台に立つ=直接観客の前に立つ演者の側である」という感覚であろう。

しかし、こうした感覚(演じる者とつくる者の階層秩序的二項対立)は、劇場版を通して脱構築される。演者が「キラめき」を放つためには、そしてそもそも舞台の上に立つためには、過去の自分を燃料にして、燃やし尽くして、そこから新たな自己を「つくり直す」必要があった。「囚われ、変わらないものはやがて朽ち果て死んでゆく」のだから、舞台の上に立つためには、そして観客の目前に現れるためには、「古い肉体を壊し、新しい血を吹きこんで」、「生まれ変わ」る必要があった。それは、新たな自らの身体を「つくる」行為であるだろう。

従って、「演じる」ためには「つくる(創る/造る)」作業が不可欠であるのだ。こうして、「創造」という原エクリチュールを通して「演じる者とつくる者」という階層秩序的二項対立が脱構築される。

3.2.3. みせる者とみる者の脱構築

「みせる者とみる者」という関係は、前項の「演じる者とつくる者」の関係と深く共鳴している。TVアニメにおいて「みる」ことが扱われた際には(第10話?)「舞台少女」達がみられる側に、キリンを含む我々がみる側に位置付けられており、そこでは、暗に劣った存在として描かれていた。またあるいは、「競演のレヴュー」においてひかりは、華恋に「魅せられる」だけの存在になってしまうのが怖くて華恋から逃げた、と独白する。これらは、みせる者は自らの力で突き進んでいくような力強さがあるのに対して、みる者はそれを消費するだけの従属的な存在、非力な存在として描かれていることを示していると言えるだろう。

こうした対立関係は、例の如く脱構築される。視線に対して独立であった(視線による影響を全く受けていなかった)華恋は、ひかりの「それはあなたの思い出?それともセリフ?」という一言によって、メタ的な視点をとるようになる。そこで初めて観客の視線、照明の熱さ、舞台の怖さに、そしてそれが今まで「視えていなかった」ことに気づき、「次の舞台」への不安や戸惑いを抱える。「死」に至る。つまり、舞台に立つことが含みもつ、観客との、舞台装置との、劇場空間との関係の持つ意味に対して自覚的であることなしには、舞台の上に立つことは不可能なのである。言い方を変えるならば、自らを「観ている」主体、まさにその眼差しの主体を「視る」ことなしには、「観られる」ことはできない、と言うことである。ここで言う「視る」と言うのは、再演を渇望するななのように、眩しさに焦がれて眼差し続けるという行為ではない。むしろ、戯曲『スタァライト』の読解を通じて新たな結末を引き出した華恋のように、「これまでの物語を再び見つめ直すことによって新たなイメージを付加する」という一連の流れの中の「視る」と言う行為であり、その意味でこれは「読解」や「解釈」、「批評」といっても差し支えないであろう。このことは、我々の読解行為とWSBを並行的に捉えた以下の記事においても示唆されている。

こうして、「読解」という原エクリチュールを通して、「観られるためには視なければならない」という形で、「みる者とみられる者」の二項対立が脱構築される。

観られるためには視なければならないということは、先述の「演じる者とつくる者」の脱構築にとも深く共鳴している。これらの原エクリチュールとして「創造」が取り出されていたが、これを行うために必要なのがこれまでの物語を「みる」ことであり、「読む」ことなのである。何度も繰り返しみる/読む中で、新たな物語を引き出す。それこそが「レヴュー=批評」であり、その中にはre-vue(フランス語で「再び-みること」)が織り込まれているのである。

(少し足を広げて、コンテンツ内部での動きに着目してみれば、我々観客のことを「舞台創造科」と称することもこれと関連している。すなわち、みることは作ることは不可分に結びついているのであり、だからこそ観ている「だけ」の観客が舞台をつくる役割を担いうるのである。(しかし一方で、これは観客たちと俳優育成科の間に線を引き、俳優育成科の特権性を温存しうる呼称であることに注意しなければならない。))

3.2.4. 人間と動物の脱構築

そしてもう一つ、劇場版の中で脱構築が行われていると言える二項対立がある。それが、「人間と動物(非人間)」である。これは、西洋近代が長らく保持していた二項対立であり、TVアニメにおいては言及されてこそいないものの、その前提のもとで動いているといって差し支えないであろう。この図式の中では、人間は「理性」を、あるいはその存在を示す「言語」(人間の言語は「今ここ」ではない事象を表現できるものとして動物たちの「言語的表現」とは区別されてきた)を有することなどを根拠として、他の動物たちから区別され特権視されてきた。逆に、動物たちには、「獰猛」や「野蛮」といった概念が結び付けられ、劣ったものとして位置付けられてきた。このことを上で述べた図に書き加えると、以下(図3)のようになるだろう。「観客」のさらに下層に、「動物/非人間」が存在している。

図3:動物まで含めた階層的秩序

この対立が脱構築される様子は、「wi(l)d-screen baroque」(という呼称)によく現れているだろう。引用されているのはSFの一ジャンル「ワイドスクリーンバロック」であるが、「SF=サイエンスフィクション」というジャンルの名称は、「(理性に基礎付けられた)科学」をその基礎に置いており、従って徹底的に「人間」の側に立ったものである、という発想を想起させる。人間の理性の上に科学があり、それに基づいた空想によって「SF」というジャンルが成立しているのだ、という発想である。さらに言えば、人間が独自に持つ理性によって、物語が可能になっている、と捉える発想である。

これを踏まえてwi(l)d-screen baroqueを考えると、そこでの変形=「ワイルド」の示唆の意味が鮮明になる。つまり、「ワイドスクリーンバロック」の中に、人間の「動物性」すなわち「獰猛さ」「野蛮さ」が書き込まれていることを意識したものであり、そうした「動物性」こそが物語を、あるいは「人生(=人が生きるということ)」を構成しているのである。この意味での「人生」の中には、「理性」や「言語」も含まれるだろう。こうした点は、以下の記事からも観取できる。

劇場版の中で、そうした脱構築の影響をもっとも受けたのは「演技」であるかもしれない。TVアニメにおいて「演技」は、「今、ここ」から離れたこと(過去や未来、非現実や抽象概念)を表現できるという点で、「言語」と同様に特権的地位を付与されてきた。しかし、劇場版においては、「獰猛さ」が演技の根管にあるということが示されている。これを裏付けるように、WSBの各レヴューには動物/非人間の表象が登場する。「怨みのレヴュー」においてはデコトラに描かれた竜と虎、「競演のレヴュー」においてはスズダルキャットとミスターホワイト、「狩りのレヴュー」においてはななが扮する虎、そして「魂のレヴュー」においては「すすめ!アニマルウォーズ」と鳥を象った「神の器」などがそれである。舞台少女たちを「人間と動物」の二項対立から解放するのに、動物たちがモチーフとして取り出されていたのである。

こうして、「理性」や「言語(演技)」といった伝統的に「人間」と結び付けられてきたものが、「獰猛」という「動物」と結び付けられてきたものを前提としていることが示され、「獰猛」を原エクリチュールとして脱構築される。

3.3. 脱構築のもう一つの含意=「再生産」「死と再生」

ここまでみてきた四つの脱構築によって、上で述べたような舞台を頂点とする階層的な図式の境界は崩れ、4者を同じ地平におくこと(平たく言えば「平等」)が達成された、と言えるであろう。そして、その4者を統べる共通の普遍的な原理として、4つの原エクリチュール:「前進」「創造」「読解」「獰猛」という主題が取り出された。

ここで、後半3つの二項対立の劣位の側:「つくる者」「みる者」「動物/非人間」の三つを並べてみると、TVアニメではこれらを全て引き受ける一つのモチーフが存在することに気づくであろう。謎多き存在、キリンである。すなわち、WSB以前の世界においてキリンは「エクリチュール」としての立ち位置を担わされていたのである。

そして、劣位の側に置かれたもの達の根幹がエクリチュールであるとするならば、キリンの根幹にあるもの:原エクリチュールは何か。それこそが「トマト」である。本作には2種類のキリン(通常のキリンと野菜でできたキリン:以下、「肉キリン」と「野菜キリン」)が登場し、それぞれに「生」と「死」のイメージが付加されていると考えられる(詳細は、以下の二つの記事を参照)。

そして、詳細な議論は省くが、「生と死」も脱構築されうると考えるならば、「野菜キリン」の側に「キリン」としての重要なモチーフが託されていると考えられる。したがって、「野菜キリン」の心臓に埋め込まれた野菜であるトマトこそが、全存在者の「平等」を統べる統一原理としての「原エクリチュール」を担っていた、と言える。そこから自ずと、「トマト」にどのようなモチーフが描かれているのかも明らかになる。それが、先ほどあげた「前進」「創造」「読解」「獰猛」である。この結論は、別の視点からトマトの輪郭を浮かび上がらせた以下の記事との整合性も取れているだろう。

とすれば、「トマトを齧ること」は「原エクリチュールを自らのうちに取り込むこと」と同義であり、すなわち「脱構築」であると言える。そして同時に、この原エクリチュールの意味しているところを汲み取れば、「動物のような獰猛さでもって、過去の自分を見つめ直して(再)解釈を行い、それを踏まえて新たな自己を創造し直すことで、前進する」ということであり、これを自らの内に含みこむと言うのは、「再生産」に他ならない。かくして、「平等化」に加えたもう一つの脱構築の含意が浮かび上がる。脱構築とは、再生産なのである。そして、そうであるならば、再生産こそが、同一の平面に置かれた4者―すなわち俳優育成科、舞台創造科、観客、動物―を統べる共通原理なのである。こうして、「私たち(=この世の中のあらゆる存在)はもう舞台の上(なのだから再生産し続けねばならない)」という、劇場版のテーゼが導かれている。

4. おわりに

本稿では、階層的/序列的な構成をとってきたTVアニメの世界観を「解体」し「再生産」する物語として劇場版を捉え、「市民革命」「脱構築」を手掛かりに、その「平等化」「平準化」への志向を読み取った。そこでは、歴史上の「革命」を再演することで階層的秩序の打倒が行われると同時に、「前進」「創造」「読解」「獰猛」といった原エクリチュールを契機として脱構築が行われていた。これらによって、「私たちはもう舞台の上」の「私たち」に、観客を含めたあらゆる存在が包摂されるのだ、という大きなテーゼが導かれていた。

そして、脱構築は平等化の作用と同時に再生産の作用も含み込んでいた。トマトを齧ることは再生産=脱構築のメタファーであり、これを起こすことによって前に進み続けられる、という含意があった。以上のようにして、「私たちはもう舞台の上」が導かれるプロセスを明らかにした。

議論が不十分な点や根拠が不明瞭な点も複数存在するが、全体を貫く大きな一つの軸をもって『少女☆歌劇レヴュースタァライト』の読解を行えたように思う。過去の考えを振り返ったときに現在の考えと接続したり新たなインスピレーションが浮かんだりする過程はまさに「再生産」であり、非常に有益であった。また同時に、思索の道中で生まれたさまざまな発想の中に、本作を別の切り口から捉えるきっかけも得ることができて、読解の尽きなさを再確認した。本作から広がる想像力が、さらなる視座を可能にしてくれることを願って、本稿の結びとする。


(本稿の内容について、考えたことや納得いかない点、理解に苦しむ点などありましたら、遠慮なく著者(@nebou_june)にお聞かせください。


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