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【新連載】小説『ネアンデルタールの朝』第三部第1章まとめ(①~⑤)

第三部
また朝が来てぼくは生きていた

また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべっているのを 
(谷川俊太郎『朝』より)

タイトル

2015年10月 東京

第1章

1、
手に握りしめたスマホを何度も見返す。約束の時間まではまだ15分ほどあった。
吉祥寺駅北口は日曜日の午後ということもあって、たくさんの人で賑わっている。尿意を感じた民喜(たみき)は駅の構内の最寄りのトイレへと向かった。
小便器の前に立ち、用を足そうとする。が、ほとんど出なかった。30分ほど前に一度行っているのでそれはそうだろう、と思う。ズボンのチャックを絞め、鏡の前に立って髪型を整える。
待ち合わせ場所に早足で戻る。バスロータリーの上には雲一つない青空が広がっている。まだ明日香(あすか)さんは来ていないようだ。
10月になったというのにまるで初夏のような陽気だ。天気予報によると今日は最高気温が27度になるとのことだった。

「ごめんなさい、待ってた?」
約束の14時ちょうどに彼女はやってきた。走って来たからか、頬がほんのりと赤く染まっている。
民喜は笑顔を作り、
「いや、大丈夫だよ。僕もさっき来たとこ」
「そっか、よかった。この度は誘ってくれてありがとう」
明日香は目を伏せ、恥ずかしそうに微笑んだ。
「いや、こちらこそ」
そう言って民喜は軽く咳払いをした。明日香は群青色の長袖のワンピースを着ていた。彼女のワンピースの青を見た瞬間、民喜はハッとした。
二人で並んで商店街へと続く横断歩道を渡る。目的の映画館は駅前の商店街を突っ切って、左に曲がってすぐのところにある。ここから歩いて5分ほどだろうか。民喜自身はまだ実際にはその映画館には行ったことはなかった。
「明日香さん、忙しくなかった?」
左隣を歩く明日香に話しかける。
「ううん、大丈夫だよ、ありがとう」
明日香は微笑みながら言った。商店街を吹き抜ける風が彼女の長い髪を揺らしている。
大学以外の場所で彼女と二人で会うのはこれが初めてのことだった。そして民喜にとってこれが、人生で初めてのデートでもあった。
会話はそこで途絶えてしまい、賑やかな商店街の通りをしばらく無言で歩き続ける。頭を働かせて何かを言おうとするが、気の利いた言葉がまったく浮かんでこない。
明日香とこうして二人で吉祥寺の商店街を歩いているというのが、不思議だった。まだ実感が湧いてこず、何か夢の中にいるようなフワフワとした感覚が自分を捉えている。
不思議な感覚の中で、民喜はふと故郷の海を思い起こしていた。……

「おう、民喜」
発信音が二度鳴った後、すぐに将人(まさと)は電話に出た。
「元気?」
「ああ。元気だ。どうした?」
「いや。別に、そんな大したことじゃねえけど。ちょっと将人に話したいことがあって」
将人の声の背後からテレビの賑やかな音声と笑い声が聞こえてくる。
「そうか」
「今日も仕事だった?」
「ああ、もちろん。民喜ももう大学始まってんだろ?」
「うん」
「8月はサンキュー、楽しかったな。また飲もうぜ」
「うん。ぜひ! で、その、早速だけども……。8月に会った時、気になる人がいるって言ったの、覚えてる?」
早速話を切り出してみる。
「えーと……そういえば言ってたな」
「実は、その人と一度ゆっくり話してみたいと思ってるんだ」
喉元に緊張が走り、民喜は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「おー、デートか。いいな!」
将人は嬉しそうな声で言った。将人が二重のどんぐりのような目を輝かしている様子が浮かぶ。
「で、どうしたらいいべ」
「は? 何が」
「ゆっくり話してみたいんだけども」
「デートに誘えばいいべ」
「いや、それが簡単にできるんだったら、将人に相談はしねえ」
「へ……? 民喜は時々、不思議なこと言うな」
将人はキョトンとした声を出し、
「えーと……彼女、確か民喜と同じサークルだったよな?」
と聞いてきた。
「んだ、同じサークル」
「その人は民喜のこと、どう思ってんだ?」
「えっ、俺のことか?」
 民喜はしばらくジッと考え込んで、
「うーん。分がんね」
と答えた。そう答えつつも、彼女が好意を持ってくれているのではないかと強く期待している自分がいた。
「そうか。まだ未確認か。ま、あんまり難しいこと考えず、とりあえず誘ってみたらいいべ。俺ならドライブに誘うけどな。民喜は車持ってねえからな。映画にでも誘ってみたらいいんじゃねえか。そんで、その後どっかの店行って、ゆっくり話したらいいべ。で、そのまま勢いで告っちまえ」
「いや、告るのはまだ無理だ」
「民喜はホント、奥手だな」
将人はクスクスと笑った。民喜は宙を見上げて、
「映画かあ。でも、いきなり映画に誘って、びっくりされねえかなあ。同じサークルの友達なのに、急に誘って。俺が気があることバレちまわねえかなあ?」
「気があるからデートに誘うんだろ?」
「まあ、そうだけども」
「いいじゃねえか、気があるアピールしといた方が」
「うーん……。あ、あと秋の定期演奏会が近いんだ。そんな状況で休日に映画に誘うのは迷惑じゃねえかな?」
「いいじゃねえか、気分転換に、っつうことで誘えば」
「うーん、そうか」
民喜は懸命に頭を働かせつつ、
「誘い方は、直接会って誘うのがいい? それとも電話がいい? それともラインの方がいい?」
「どっちでも……まあ、ラインでいいんじゃねえか」
将人はわざとらしくため息をついた。
「あ、そうそう。その子、彼氏はいないんだろうな?」
将人の問いに、民喜はハッとして目の前の空間を見つめた。
「彼氏がいるかどうかは、知らねえ。いや、たぶんいないと思うけど……」
「何だ、肝心のそこも未確認か。まあいいや、それも含めて探ってみれば」
そう言えば、明日香さんに彼氏がいるのか、はっきりと確かめたことがなかった。てっきり彼女には付き合っている人はいないものだと思っていた。サークル内にはもちろん彼氏はいないし、学内を男性と二人きりで歩いているところも見たことはなかった。

電話を切る間際、思い出したように将人が尋ねてきた。
「あ、そうだ。民喜が好きな人、名前は何て言うんだっけ?」
民喜はゴクッと唾を飲み込み、
「明日香さん。永井明日香さん」
「明日香ちゃんね。オッケー! 民喜が明日香ちゃんとうまくいくよう、俺も応援してるよ」
楽しそうな声で言った。
「うん、ありがと」
「デート当日はぜひラインで実況中継してくれ」
「いや、しねえ」
「してくれよ。っていうか、俺、こっそり後ろからついてこうかな」
「やめてくれ」
「駿と一緒についてこうかな」
将人はワハハと嬉しそうに笑った。
「やめろ」
民喜もつられて笑った。


2、
「民喜君は、映画よく観るの?」
明日香が民喜の方に顔を向けて言った。顔を向けてはいるが目は恥ずかしそうに伏せたままだ。
「いや、普段は、そんなに」
そんな彼女の横顔を見つめつつ、民喜は答えた。
「明日香さんは?」
「たまにDVD借りてきて観ることはあるけど。映画館はそんなに行かないかな」
「そっか」
歩きながら、普段はそんなに映画を観ないのに、今回映画に誘ったことが不自然に思われるかもしれない、と思う。たまに映画館で映画を観る、と答えた方がよかっただろうか。いや、でもそうすると明日香さんに嘘をついてしまうことになる……。
あれこれ考えている間に、商店街のはずれまで来てしまった。左に曲がるともうすぐそこが映画館だ。あまり会話も弾まないまま、映画館に到着しようとしていた。
都道7号線に出る。涼やかな風が民喜と明日香の髪を揺らした。
「あの、すぐあそこが、映画館」
50メートルほど前方に見えている建物を指さす。
「うん」
明日香は頷いた。
映画館に向かって歩き出すと、花のような香りが民喜の鼻をくすぐった。すぐ隣を歩く彼女から漂ってくる香りだった。自分はいま、本当に明日香さんと一緒に吉祥寺を歩いているのだ、と思う。
胸の内に彼女とデートをすることができていることの喜びがジワジワと込み上がってきた。

「えーと、『キングスマン』、大学生二人でお願いします」
財布から学生証を取り出し、窓口の中年の女性に見せる。
「はい、お一人様1500円になります」
財布から千円札と500円玉を取り出しながら、(あれっ、こういう場合、映画に誘った自分が二人分支払うべきだろうか)と思う。
何度もこの度のデートのシミュレーションをしていたにも関わらず、映画代をどうするかは考えていなかった。迷っている間に明日香は自分の学生証と料金を窓口の釣銭受けに置いてしまった。
建物の中に入る。昔ながらの雰囲気をそのまま残している、味のあるロビーだった。年代を感じさせる壁や床。駅に設置してあるようなプラスチック製のイス。自分は平成生まれだが、おそらくこのような雰囲気を昭和の雰囲気というのだろう。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね」
そう言って明日香はロビーの端の方へ向かった。
やっぱり二人分支払った方がよかったのだろうか……。
判断がつかないまま、民喜はカバンからスマホを取り出した。見ると、将人からラインのメッセージが届いていた。
――グッドラック!
併せて特大のハートマークも送信されている。とりあえず、オッケーサインのスタンプを返信しておくことにする。

彼女が戻って来ると、
「明日香さん、何か飲む?」
と尋ねた。上映まではまだ15分ほど時間があった。
明日香は一瞬上を向いて考える表情をし、
「うーん、私は大丈夫。ありがとう」
「うん、了解」
民喜は自動販売機の前に行き、ホットコーヒーを購入した。
館内にはシアタールームは一つしかないようだった。すでにドアが開いていたので、二人で中に入る。
薄暗い館内にやはり年代を感じさせる朱色のカバーの座席が並んでいる。スクリーンはそれほど大きくない。映画館特有の匂いを嗅ぎながら、急なこう配の階段をゆっくりと降りてゆく。人はまだほとんど入っていないので、どの席でも座り放題だった。
「どこがいいかな」
明日香に尋ねると、
「うーん、じゃあ、あの真ん中の辺りは?」
彼女が指さしたちょうど真ん中の席に座ることにした。薄暗い館内において彼女の着るワンピースはさらに深い群青になっていた。
並んで座り、何も映っていないスクリーンを見つめる。明日香は前を向いたまま、小さく可愛らしい咳払いをした。左隣に座る彼女の体からまた花のような香りが漂ってくる。どうして女性はこんなに良い匂いがするんだろう、と思う。
少し手を伸ばせば、彼女の手に触れることができるほどの距離……。間近に彼女の存在を感じ、緊張と喜びとが民喜の体の内を駆け巡った。
コーヒーを一口すすり、前から話そうと決めていた話題を切り出す。
「あの、明日香さん」
明日香は民喜の方に顔を向けた。
「読んでみたよ、原民喜」
そう言ってカバンの中から文庫本を取り出した。
「あっ、原民喜さんの本。読んでくれたんだ。……ごめん、私まだ読んでない」
彼女が申し訳なさそうな顔をしたので、
「いや全然、大丈夫」
民喜は手を振った。
「原民喜さん、どうだった?」
「うん……」
民喜はコホン……と咳払いをした後、
「色々と心に残ったところがあるんだけど、特に印象的だったのは、《水ヲ下サイ》っていう言葉。作中に、詩として出て来るんだけど」
「あ、確か、その詩、合唱曲にもなってるよね。歌ったことはないけど、コンクールで別の学校が歌っているのを聴いたことある」
「あっ、そうなんだ。そう、個人的には《水ヲ下サイ》って言葉が特に印象に残った。原爆で被ばくした人々が発した言葉なんだけど……」
明日香は頷いて、民喜が手に持つ文庫本の表紙に目を遣った。表紙には一本のヒマワリの絵が描かれている。
原民喜についてもっと色々と彼女に伝えたいことがあるような気がしたが、うまく言葉が出てこない。
民喜はまたコーヒーを一口飲み、
「あと、これ、ありがとう。谷川俊太郎の詩集」
カバンからもう一冊、谷川俊太郎の詩集を取り出した。
「ごめんね。長い間借りっぱなしで」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
明日香は微笑みながら詩集を受け取った。
「いいなと思う詩、たくさんあったけど、特にあの詩がよかった。ええと……」
民喜はすでに諳んじてしまっている詩の前半部を呟いた。

 あの青い空の波の音が聞えるあたりに
 何かとんでもないおとし物を
 僕はしてきてしまったらしい …

「あっ、『かなしみ』」
明日香が呟いた。
「そう、『かなしみ』」
明日香は本をパラパラとめくって、『かなしみ』が載っているページを開いた。
「わたしも、この詩、好き」
明日香は弾んだ声を上げた。今日初めて耳にした彼女の明るい声だった。
明日香の柔和な表情を見て、民喜は幾分ホッとした気持ちになった。
今日駅で会ったときから、心なしか、ずっと彼女の表情が硬いのが気になっていた。大学で会っているときの柔らかな雰囲気が、今日の彼女からはあまり感じ取ることができないでいた。何か自分が気に障ることをしてしまったのではないか、と民喜は気が気ではなかった。
「この詩のおかげで、色々と大切なことを思い出したんだ」
「そうなんだ」
明日香はぱっちりとした切れ長の目で一瞬民喜を見つめ、すぐに目を伏せた。
この詩集は民喜にとって、まさに「お守り」だった。故郷の町を4年ぶりに訪ねたあのときも、彼女から借りたこの詩集をカバンの中に入れて、大切に持ち歩いていた。
胸の内を様々な熱い想いが駆け巡っているのだが、やはりうまく言葉にして伝えることができない。何も言えないまま、民喜は小さな咳払いを繰り返した。
ブーッ――
上映開始時間を知らせる長いブザー音が鳴った。民喜と明日香はハッとしたように正面のスクリーンを見つめた。素早く照明が消え、暗闇が二人を覆った。


3、
映画館の外に出ると、傾きかけた太陽の光線が民喜の目を射った。思わず額に手をかざす。
民喜は立ち止まり、勇気を出して、
「明日香さん、この後、もしよかったら少し、井の頭公園を歩かない?」
と誘った。
映画を観ている間、民喜はこの短い一言を、何度も胸の内で練習をしていた。井の頭公園を散歩した後、どこかのベンチに座って、絵を見てもらうつもりだった。
明日香は民喜の顔を見つめ、
「うん、ぜひ」
眩しそうな表情で頷いた。
(よかった……)
明日香がオッケーしてくれたので、ホッとする。
ここから井の頭公園までは、歩いて15分くらいだろうか。来た道を戻って駅を通り抜け、南口から公園に向かうのが一番近いルートのはずだ。
民喜は井の頭公園が好きで、たまに一人で自転車でやって来てブラブラと散歩をすることがあった。井の頭公園を歩いていると、不思議と心が休まった。

しばらく二人で無言のまま歩き続ける。映画を観終わっても特に感想を言い合うことはなかった。色々と映画の感想を言い合いながら、井の頭公園に向かうことを想定していたのだが……。
あまり彼女の好みの映画ではなかったのかもしれない。確かに過激な暴力シーンが沢山ある映画だった。観る映画の選択を間違えてしまっただろうか、と民喜は幾分後悔していた。
映画を観ている間、明日香がずっとお腹の下のあたりに手を当てていたのも気になっていた。お腹の調子が悪いのだろうか。
そっと横目で明日香の表情を伺う。少し俯き加減で歩く明日香は心なしか表情が硬かった。何かを話しかけようと思うのだが、ふさわしい言葉が浮かんでこない。
やっぱり体調が悪いのだろうか。それとも、何か彼女の気に障ることをしてしまったのだろうか。それとも、よっぽど映画が面白くなかったのだろうか……。
騒がしい商店街の通りをやはり会話のないまま歩き続ける。民喜はだんだん不安と焦りを感じ始めていた。
(おかしい。こんなはずじゃなかった……)
遂にひと言も言葉を交わさないまま、吉祥寺駅に着いてしまった。不安のあまり、民喜は思わず、
「明日香さん、体調大丈夫?」
と尋ねてしまった。
明日香は顔を上げて、
「あ、うん、大丈夫だよ」
と微笑んだ。
「そう、ならよかったけど」
二人で駅の構内に入ってゆく。
「民喜君も……」
明日香はそっと民喜の表情を伺うような目をして、
「体調、大丈夫?」
と言った。
「僕?」
民喜はキョトンとして、
「え、僕は大丈夫だよ。全然」
と答えた。
「そう、なら、よかった」
明日香は頷いた。

ゆるやかな階段を下りてゆくと、黄金色に染まった井の頭公園が目の前に現れた。
立ち並ぶ楓の樹が地面に長い影を落としている。夕陽を反射させてサワサワと揺れる樹の葉は不思議と民喜の目に染みた。動揺していた心が幾分落ち着きを取り戻し始める。
「去年、みんなでお花見に来たね」
背後から明日香の声がした。
「あっ、そうだね。去年」
彼女の方を振り返る。去年の4月、井の頭公園でコーラス部の皆で花見をした。池の周りを満開の桜が咲き誇る光景が脳裏に浮かんでくる。
「あまりこの時間帯には来たことはなかったけど、夕方もきれいだね」
梢の方を見上げて、明日香は言った。彼女の表情も幾分柔和になっている気がする。夕陽に輝く公園の景色が彼女の心を柔らかにしてくれているのかもしれない、と思う。
二人で並んで七井橋を渡ってゆく。向こう岸のボート場の前をスワンボートとサイクルボートが列になって並んでいる。いまはボートに乗っている人は誰もいないようだった。ちょうどボートを漕ぎ終えたのであろう家族連れが発着場の上を歩いている。
西の空は淡いオレンジ色と黄色に染まり始めていた。沈みゆく太陽が池の水面に光の道を造り出している。何人もの人が橋の真ん中に立ち止まり、その光景を眺めたり、スマホで撮影をしたりしている。
民喜と明日香も橋の真ん中辺りで立ち止まった。
「きれい」
明日香は呟いた。
欄干に添えられた明日香のほっそりとした手に自分の手を重ねたい衝動に駆られたが、民喜はグッと堪えた。
しばらく橋の上から並んで夕焼けを眺めた後、二人でまた歩き出した。
どこかのベンチに座って「ネアンデルタールの朝」の絵を見せたい、と思うのだが、なかなか言い出せない。カバンの中に手を入れ、額に入った絵の存在を確かめる。
そうこうしている内に、もう一つの橋も渡り終えてしまった。
木立の奥に立ち並ぶ飲食店にはポツポツと明かりがともり始めている。ここから左に曲がれば、井の頭公園駅に至る道。右に曲がれば、弁財天に続く道。
「こっち、どうかな」
民喜は弁財天に続く遊歩道を指さした。
池に点在する噴水が水しぶきを輝かせている。池のほとりに並ぶベンチにはすでに何組かのカップルが座っていた。ここだ、という場所が見つからないまま歩き続ける。
弁財天の社殿の朱色の柱が見えてきた。背後の空も鮮やかな茜色に染まってきている。
もうこのまま公園を一周して終わりでいいじゃないか。
頭の片隅で声がした。
確かに今日のところは、もうこれでいいような気もする。明日香さんも何だかあまり体調が良くなさそうだし、あまり長く歩かせても悪い、と思う。
弁財天の前を通り過ぎる。民喜の内に再び不安と焦りが生じていた。
何のために今日、明日香さんを誘ったんだ。
頭の片隅から別の声がする。
勇気を出して、絵を見せろ――。
どうしたらいいのか決めることができずに歩き続ける。頭から血の気が引いたようになり、意識が幾分ぼんやりとしてくる。
そうして歩いている間に、まだ誰も座っていないベンチが並ぶ一角に行き当たった。
ここだ、ここにしよう!
胸の内で声がした。
この手前のベンチに、と心を決め、
「明日香さん、ちょっと、ベンチに座らない?」
明日香は可愛らしい咳払いをして、
「はい」
と返事をした。

ベンチ

ベンチの真ん中には仕切りがあった。仕切られた右側に二人で座る。すると彼女と体を寄せ合うような格好になった。本来一人掛けで設計されているところに二人で座ってしまったようだった。
左半身に彼女の体の暖かみを感じ、ドクドクと胸が高鳴る。今にも互いの手が触れてしまいそうだ。
「あ、ごめん、ちょっと狭いかな」
民喜が立ち上がろうとすると、
「あ、うん、でも大丈夫」
明日香はそう言って目を伏せた。彼女のすべすべとした頬は赤く染まっていた。
彼女が大丈夫ということだったので、民喜はまたベンチに座り直した。互いの半身がギュッと密着する。明日香はまた小さく咳払いをした。
体の中を血が激しく駆け巡る。血の気が引いたようだった頭に、今度は血が急上昇してくる。
緊張のあまり、何も言えずにただ前を見つめる。輝く水面の向こうに、さっき二人で渡った七井橋が見える。日が沈む前の最後の明るさが、ベンチに座る自分と彼女を包み込んでいる。
民喜はそっと深呼吸をして、心を落ち着かせようとした。


4、
「明日香さん、この絵」
幾分心が落ち着いてから、民喜はカバンの中から絵を取り出した。
「ネアンデルタール人の絵なんだけど……」
明日香は目の前に差し出された絵を見つめながら、事情がよく呑み込めない様子で、
「えっ、誰の絵?」
と聞き返した。
「ネアンデルタール人の絵」
「ネアンデルタール人が描いた絵?」
「いや、描いたのは僕」
「民喜君の絵?」
明日香は絵を両手で受け取り、
「あっ、民喜君が描いたネアンデルタール人の絵なの? ごめん。変なこと言っちゃって」
恥ずかしそうに笑って、
「へーっ、民喜君、絵を描くんだ」
絵の方に顔を近づけた。
朝の光の中に立つネアンデルタール人の家族の絵。真ん中に立つネアンデルタール人の女の子は、何かを大切に守るようにそっと胸の上に手を置いている。女性の口元は、何かを自分に語りかけようとしている……。

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「ネアンデルタール人って、どんな人たちだったっけ」
「僕たちとはまた別の人類で……。近い関係なんだけど、別の人類。大昔に絶滅しちゃったみたい」
「あっ、別の人類なんだ。でもあんまり見た目も私たちと変わんないし……。すごく優しい顔をしてるね」
絵の中の三人をジッと見つめて言った。
「民喜君の絵のタッチも優しいね。とてもきれいな絵」
「ありがとう」
民喜は照れくさそうに礼を言った。
「一応、タイトルは『ネアンデルタールの朝』って付けてるんだけど……。描いたのはもうだいぶ前で。4年前、高1の時に描いた絵なんだ。ちょうど、震災の前の日に」
「震災の前の日?」
「うん。震災の前の日に、夢を見たんだ。朝の光の中、ネアンデルタール人たちが自分の目の前に立って、微笑んでる夢だったんだけど……。微笑む彼らを目の前にしていると、僕の全身も眩しい光に包まれたようになって……。で、パッと目が覚めた。そしたら、夢の続きのように、カーテンの隙間から差し込む朝の光が眩しく輝いてた。何だか分かんないけどすっごく感動して、胸が熱くなって。それで思わず絵にしてみたのが、この絵なんだけど……」
「だから『ネアンデルタールの朝』なんだ。民喜君にとって、大切な絵なんだね」
明日香はそう言って微笑んだ。彼女がこの絵のことを受け止めてくれていることが、有り難かった。
民喜は下を向いて、
「でも、その次の日に、震災と原発事故が起こっちゃったから……。机の引き出しにしまったまま、忘れちゃってたんだ。この絵のこと。ずっと、この4年間」
彼女が自分の横顔を見つめているのを感じる。
「自分でもよく分がんねえんだけど。夢のことも、この絵のことも、忘れちゃってた。記憶喪失みたいに」
自分の足元を見つめつつ、懸命に言葉を紡ぎ出そうとする。
「原発事故の後、色々なことがあって……。色々なことがあり過ぎて……。その色々なことが、事故の前のことをあんまり思い出せないようにしてたのかもしれねえけども」
そう言った後、つい福島の方言が出て来てしまったことに気付き、民喜は恥ずかしくなった。顔を上げ、明日香の方をチラッと見遣る。しかし彼女は真剣な表情で聞いてくれていた。民喜は軽く咳払いをし、
「それで、あの、今年の春、本館前の芝生で谷川俊太郎の話をしたの、覚えてる?」
明日香は即座に、
「うん、覚えてる」
と答えた。
「そのとき、明日香さん、谷川俊太郎作詩の『朝』っていう曲を歌ってくれたよね。あの桜並木で……」
「うん、歌った」
明日香は目を伏せ、恥ずかしそうに微笑んだ。

 また朝が来てぼくは生きていた ……

彼女の声がよみがえってくる。あの桜並木で、彼女は自分に『朝』を歌ってくれたのだ。懸命に、涙を流しながら――。
「明日香さんの歌声を聴いた時、ホントに感動した。胸が熱くなった。それで、何かを思い出しそうになったんだ……。でもその瞬間ははっきりとは思い出せなかった。その後、家に帰って谷川俊太郎さんの『かなしみ』っていう詩を読んで……。やっぱり何かを思い出しそうになって……」
自分の内にある想いを何とか言葉にしようとする。

 あの青い空の波の音が聞えるあたりに
 何かとんでもないおとし物を
 僕はしてきてしまったらしい
 ……

「俺は《何かとんでもないおとし物》をしてきたんじゃねえかと思って、何か心がザワザワして……。そんとき、明日香さんの歌声がよみがえってきて、それで、思い出したんだ。いま話した夢のこと、あの朝のこと……そう! 『ネアンデルタールの朝』のこと。そしてこの絵を家の引き出しに入れっぱなしだったこと。その他にも、色んな大切なこと……」
民喜はフーッとゆっくりと息を吐いた。
「それで、どうしても、この絵を取り戻しに行きたくなって。行かなきゃいけないって気持ちになって……。この夏休みに実際、取りに行ってきたんだ。家のある辺りはまだ居住制限区域になってて日中しか入れないんだけど……。行って来たんだ、4年ぶりに」
明日香の顔を見つめる。彼女と目が合う。
「明日香さんのおかげで、取り戻すことができたんだ」
「いや、そんな、私は何も」
民喜は言葉を被せるようにして、
「いやホント、明日香さんのおかげなんだ。それで、明日香さんにぜひこの絵、見てもらいたいと思って……」
明日香はコクンと頷いて、
「ありがとう」
と言った。話している間に民喜の内にまた熱いものが込み上がってきた。
「この夏、辛い時はいつも、明日香さんの歌声を思い出してた。そしたら、前を向いて歩いていこう、って気持ちになれた」
と伝えて民喜は下を向いた。これ以上話すと、涙が出て来てしまいそうだった。
数秒の沈黙の後、
「ありがとう」
すぐ耳元で、明日香の声がした。
民喜はコホンと小さく咳払いをして顔を上げた。いつの間にか太陽は沈んでしまっていた。しばらく無言のまま、紅藤色に染まった公園を二人で見つめる。
体全体に、隣に座る彼女のぬくもりを感じる。そのぬくもりは、今度は非常に安らかなものとして感じられた。
暖かい、と思う。
暖かい。
できれば、ずっとこのまま、二人でこうして座っていたい……。

「絵を見てくれて、ありがとう」
明日香から絵を受け取ろうとした民喜は、ハッとして絵を覗き込んだ。絵の中の女性の口元が微かに動いた気がした。
「あっ、そうだ!」
明日香の顔を見つめて、
「ネアンデルタール人の夢を見た時、声が聴こえたんだ。『善い』って声が」
「善い……?」
明日香が呟いた。
「そう。彼らが自分に向かって、声にならない声で、『善い』って言っているのが聴こえて……。そしたら胸の奥の方から熱いものが込み上げて来て。涙がポロポロ溢れてきて。本当に嬉しくて、目が覚めてからも、その感動がずっと続いて……。その瞬間を絵にしてみたのが、この『ネアンデルタールの朝』だったんだ」
「そうなんだ」
ポツリとそう答えた彼女はそれ以上、何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた後、
…………善い
明日香は再びそう呟いた。すると彼女の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。薄明の中、涙は一瞬星のように瞬いて、消えた。


5、
――どんな感じ? 手ぐらい握れた?
ハートのスタンプと共に将人からラインのメッセージが届いていた。
――いや。今日は特に。明日香さん、ちょっと体調悪そうだったし……。サンキュー。
駅のホームの椅子に座って電車を待っていた民喜はそう返信し、スマホをカバンの中にしまった。

「民喜君、今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
明日香は微笑みながら手を振って、足早に階段を上って行った。この後、駅に隣接するアトレで買い物をする用事があるとのことだった。
階段を上る彼女の後姿を見送る。彼女の群青のワンピースはすぐに人ごみに紛れ、見えなくなった。
井の頭公園から駅に戻っても、食事の誘いを切り出すことはできなかった。何だか、そういう雰囲気ではないような気がした。彼女に絵を見てもらうという一番の目的は果たすことができたから、その点は良かったのだけれど――。
「まもなく、3番線に快速高尾行きが参ります。危ないですから、黄色い線までお下がりください」
ホームにアナウンスが流れる。民喜はゆっくりと立ち上がり、スーツ姿の中年男性の後ろに並んだ。
明日香と別れてから、民喜は彼女の涙について考え続けていた。あの涙は、どういう涙だったのだろう?
桜並木で『朝』を歌ってくれたときも、彼女は涙を流していた。

 また朝が来てぼくは生きていた ……

戸惑い、いとおしさ、切なさ――様々な感情が胸の内を駆け巡る。
色んな感情が錯そうする中で民喜が理解していたこと、それは、彼女もまたひどく辛い経験をしてきたのだろう、ということだった。
明日香さんもまた、人には言えない辛さを抱えているのかもしれない。大学ではそのような素振りは一切見せないけれど……。
快速高尾行きの電車がホームに到着する。車内に入り、出入り口のドアのすぐ近くに立つ。
「3番線、ドアが閉まります。ご注意ください。……」
寄りかかるようにして吊革に掴まり、もうすっかり日が沈んだ窓の外を眺める。
そう言えば、俺は明日香さんについて何を知ってるんだろう?
民喜はふとそう思った。
今日、明日香さんに彼氏がいるかについても、はっきりと確かめることができなかった。
自分が知っていること――。
同じ東北出身であること。歌が好きであること。谷川俊太郎の詩が好きであること。実家で猫を飼っていること。
民喜は過ぎ去ってゆくビルの屋上のネオンに目を遣った。
そして、胸元に小さなほくろが2つあること……。
それだけ?
自分は明日香さんについて、ほとんど何も知らないことに思い至る。
そう言えば、俺は彼女についてまだほとんど何も知らないのかもしれない。全然理解することができていないのかもしれない。でもだからこそ、彼女についてもっと知りたい、と思う。
窓ガラスに映る自分自身と目が合う。
と同時に、彼女が抱える苦しみを知ってしまうことに対してどこか恐れも感じた。
突然、激しい疲労感が民喜を襲った。思わず吊革から手を放し、空いている席に座る。俯いて、目を閉じる。
瞼の裏に、涙を流す彼女の顔が浮かんでくる。

クスクス……という笑い声に民喜は顔を上げた。
車両の連結部の近くに自分を見ながら笑っている数名の若い男女がいることに気づく。同じ大学の誰かかと思ったが、彼らの顔に見覚えはなかった。
民喜は顔を逸らし、前を見つめた。気のせいだろう。そう思ったが、再びクスクス……という笑い声が聞こえた。そっと彼らの方を盗み見ると、今度は明らかに自分を見て笑っていた。頭からサッと血の気が引いてゆく。
クスクスクスクス……。
笑い声は民喜の頭の中でエコーを帯びながらどんどん増幅されていった。動悸がし、胸が苦しくなってくる。
2駅先の武蔵境駅で降りるつもりが、いたたまれなくなった民喜は次の三鷹駅ですぐに下車してしまった。


*引用:谷川俊太郎『朝』(『谷川俊太郎詩選集1』所収、集英社文庫、2005年、220頁)、『かなしみ』(同書、15頁)

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