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存在そのものの尊厳 ~まど・みちおさんの詩について

1、「指さし」する先にあるもの ~存在そのものの尊厳

前回の投稿では、まど・みちおさんの詩の世界と1歳児の「指さし」との共通点について述べました(詳しくは以下の記事をご参照ください)。

なぜ私が「指さし」の視点に注目するのかと言いますと、それが「存在そのものの尊厳」へとつながっていると考えるからです。存在をそのものとして尊重する姿勢――それがまどさんの「指さし」する詩から私が感じ取る根本的なメッセージです。

そらの
しずく?

うたの
つぼみ?

目でなら
さわっても いい?

(『新訂版 まど・みちお全詩集』理論社、2001年より)

たとえば、前回の記事でも引用したこの『ことり』では、対象の《ことり》に「触れる」ことはされません。「触れる」ことはなされず、言葉で「指さし」をするだけです。この距離感の背後には、対象をそのものとして尊重しようとする姿勢があるように思います。

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次に引用するのは、まどさんが25歳のときに記した文章です。

《この世の中に色々のものがあるのは、みんな夫々に、何等かの意味に於いて、あらねばならないからであらう。
この世の中に存在するあらゆるもの、それはそのあるがままに於て可とせられ、祝福せらる可き筈のものであらう。
この世の中のありとあらゆるものが、夫々に自分としての形をもち、性質をもち、互いに相関係してゆくと言ふ事は、何と言ふ大きい真実であらう。
(中略)みんながみんな、夫々に尊いのだ。みんながみんな、心ゆくままに存在していい筈なのだ。
 私はかうした事を考へるとき、しみじみと生きてゐる事の嬉しさが身にしみる》(「動物を愛する心」『動物文学』第8報所収、1935年)

この文章からも、まどさんは20代の頃から一貫して同じ考えをもっていたことが分かります。一つひとつの存在はあるがままに尊重されるべきであるとの信条です。


2、「いたみ(痛み/悼み)」と共に

しかし、そのような考えを、まどさんはただ喜びの中で得ただけではないようです。ご自分の中に抱いているさまざまな「いたみ」とともに、これらの考えが紡ぎ出されていったようです。

 花についている毛虫を
 はらいおとし
 サンダルでふみつぶした

 一秒とはかからなかったが
 ふと気がつくと
 髪の毛のように細い一本の手が
 さかんにぼくの頭をこづいているのだ
 何億年の昔の方からのびてきていて

 ――ただ今 おひきとりになったお方は
  どなたさまでしたでしょうか・・・と

 (『新訂版 まど・みちお全詩集』理論社、2001年より)

上に引用した詩『毛虫』をご覧ください。この詩では語り手は《花》を尊重するために、その花についた《毛虫》をサンダルで踏み潰します。多くの人は気にはとめないかもしれないこの振る舞いに対し、まどさんはふと立ち止まり、自分がしてしまった行為に心の「痛み」を覚えます。

確かに、このような行為というのは、前項で述べた《みんながみんな、夫々(それぞれ)に尊い》というまどさんの信条と矛盾したものとなります。一方で、そうしないと大切に育てている花は毛虫に荒らされてしまう現実があります。

「こうあるべき」と願っている自身の理想と、生活してゆく上でやらざるを得ない行為との間にある矛盾。矛盾を抱えた存在であるその自分の頭を、《何億年の昔の方から》のびてきている《髪の毛のように細い一本の手》がさかんにこづいている……。まどさんが紡ぎ出す「存在への賛歌」の背後にはこのような「痛み」が伴っているのではないかと想像します。

まどさんと親しい交流があった阪田寛夫さんの著作『まどさん』(ちくま文庫 1993年)に、次のような文章が出てきます。

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《まどさんが多摩生田の丘に移り住んでからの日誌に、一番たくさん出てくるのは野草と木と花の名前で、その次はムカデだ。奥さんがムカデをみつけて叫び声を発せられると、まどさんはどこにいてもとりあえず駆けつけて、忽ち踏みつぶす。ところがそのあとに、ムカデの命をいたむ言葉が必ず続いていて、それがどの日もどの日も、省略なしに書きこまれている》(253頁)


ムカデを殺す自分と、ムカデの死を悼む自分。まどさんは常に、理想とする世界と現実の世界の間で引き裂かれている自己を意識していたのではないでしょうか。人は「1歳児の世界」のみにとどまっては、生きていくことは出来ません。他のいのちを奪って生きていることの「痛み」と、だからこそ、その死を「悼む」気持ち。その「いたみ(痛み/悼み)」から、たくさんの詩が紡ぎ出していったのかもしれません。


3、《きれいごと》の詩

まどさんは、自分のつくる詩は《きれいごと》の詩であると述べています。

 『クジャク』

 ひろげた はねの
 まんなかで
 クジャクが ふんすいに
 なりました
 さらさらさらと
 まわりに まいて すてた
 ほうせきを 見てください
 いま
 やさしい こころの ほかには
 なんにも もたないで
 うつくしく
 やせて 立っています

この『クジャク』はまどさんの初めての詩集『てんぷらぴりぴり』(大日本図書、1968年)の冒頭を飾る作品です。

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まことに美しい作品ですが、この詩に関する印象的なエピソードが阪田寛夫さんの『まどさん》に記されています。

まどさんが小学校4年生の授業参観に招かれて行った時、『クジャク』の詩をどう感じるかと担任の先生が質問をした。すると、
《やさしい    11人
 きれい     11人
 かわいそう    3人
 しずか      2人
 すずしい     2人
 くるしい     1人
 かなしい     1人》。
このような割合で子どもたちは答えたそうです。「やさしい」や「きれい」といった感想だけではなく、「かなしい」「かわいそう」「くるしい」と答えた子どもがいたことに、まどさんは感動とショックを受けました。

《「かなしい」「かわいそう」「くるしい」と言った子がいたのに、私は感動というか、ショックというか、そんなものを受けたんですけどと、手帳を繰りながら、まどさんは言った。
東大の総長が卒業式に「肥った豚になるよりは、やせたソクラテスたれ」と言ったと同じように、この詩はきれいごとを言っています。きれいごとは作者がお恥ずかしいだけでなく、読む人も白ける。どんな人だって、持っている宝石は捨てたくないし、逆に落ちてる宝石は拾いたくなります。ましてこの詩を書いている作者に、そんな欲望が全然ないかというと、そうじゃない。それを子供が感じたのかどうか分りませんが、あの詩についてかわいそうとか、かなしい、くるしいと答えたのは、理想とかけ離れて現実的に生きる人間というものを、意識でなく、無意識に感じた子どもがいた証明にならないかと思って》(233頁)。

私たちは自身が理想とすることを言葉にするほど、その理想とかけ離れて生きる自己を意識せざるを得ません。この『クジャク』という作品に関する子どもたちとのエピソードからも、矛盾の中を生きる自己に対するまどさんの切実なる想いが伝わってくる気がいたします。

「存在そのものの尊厳」を私たちが言葉にしようとすると、《きれいごと》の詩になってしまう。私たちの紡ぐ言葉は所詮、《きれいごと》の詩である。そのことを自覚しつつも、それでも、まどさんは詩を書き続けてゆきました。


4、祈りとしての詩

まどさんは夜、眠る前にひとりで祈る習慣があったそうです。まどさんは20代の頃にキリスト教の洗礼を受けていますが、しかしその祈る相手はキリスト教の神のみに限定されるものではなかったようです。

《キリスト教でいうエスさま(原文ママ)ではなく、人間を越えた宇宙の意志――我々を我々たらしめたものは信じられるのですが、それに向かって祈る習慣がついてしまったんです。五十何年か、毎日のように続いているわけです》(阪田寛夫『まどさん』、234頁)

人が生きていくということは、対象を傷つけずにはいられないこと。まどさんはこの現実と、「存在そのものの尊厳」という理想の間で引き裂かれています。けれどもだからこそ、まどさんは祈り続けたのではないかと思います。《人間を越えた宇宙の意志》に、自分を自分たらしめている大いなる存在に向かって……。
まどさんの詩は、現実と理想の亀裂の間から落ちる、ひとしずくの祈りでもあったのではないかと私は思います。

《だから詩を書く時は、身も世もないようにして、親なる宇宙をふり仰いで、そこに向かって祈る感じになるので、――いよいよ立派なことを言わなければならなくなってしまうんです》(阪田寛夫氏『まどさん』、237頁)


5、《親なる宇宙》の‟声”

私たちは祈る時、言葉を尽くして自分の願いを述べるだけではなく、むしろ自分の心を静かにして「何ものか」に耳を澄ませているような状態になることがあります。まどさんは詩作において、《親なる宇宙》を仰いでそれに祈る感じで書いている、と述べていますが、それは《親なる宇宙》の‟声”に耳を澄ます作業でもあったのではないかと受け止めています。

存在そのものの尊厳についての言葉は、自分が語っているものであるというよりも、むしろ、自分に対して語りかけられているもの。自己を超えた大いなる存在から、そう語りかけられているもの――。詩作の中で、祈りの中で、まどさんの内にその転換が起こっているのではないでしょうか。

まどさんは自身の詩において自分の理想を語っているだけではなく、むしろ「何ものか」からその「言葉」を語りかけられているのであり、それを詩として書きとめている。私はまどさんの詩からそのような印象を受けることがあります。
存在そのものの尊厳について語る「何ものか」の‟声”に、まどさんは子どものように耳を澄ましています。自分に語りかけるその「何ものか」を、ある人は「神」と呼び、まどさんは《宇宙の意志》と呼んでいます。私たちに語りかける、「何ものか」の‟声”。その‟声”を、私なりの言葉で表すと、こうなります。
「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」――。
この‟声”が、私がまどさんの詩全体から聴き取る基調低音です。


最後に、まどさんが91歳のときに書いた作品を引用したいと思います。

『きょうも天気』

 花をうえて
 虫をとる

 猫を飼って
 魚をあたえる

 Aのいのちを養い
 Bのいのちを奪うのか

 この老いぼれた
 Cのいのちの慰みに

 きのうも天気
 きょうも天気

(『きょうも天気』、至光社、2000年)

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他のいのちを奪って生きているこの自分。しかしそんな自分を、それでも、あたたかく照らしてくれる大いなる存在が、この世界には在る……。

私たちは他者を傷つけずには生きてゆけませんが、それでも「何ものか」からゆるされ、生かされて、いまこうして生きている。そう思うことが出来たとき、91歳のまどさんはまるで「子ども」のようになっています。親の腕に抱かれる1歳の子どものように――。

私たちもまた、まどさんの詩を通して、その‟声”に抱かれる幼な児の自分に立ちかえる機会が与えられているのではないでしょうか。


*本エッセイは季刊詩誌『十字路』(第5号 2015年5月発行)に投稿した『まど・みちおさんの詩について(三)』を加筆・修正したものです。

お読みいただきありがとうございました。

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