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小説『ネアンデルタールの朝』③(第三部第1章-3)

3、
映画館の外に出ると、傾きかけた太陽の光線が民喜の目を射った。思わず額に手をかざす。
民喜は立ち止まり、勇気を出して、
「明日香さん、この後、もしよかったら少し、井の頭公園を歩かない?」
と誘った。
映画を観ている間、民喜はこの短い一言を、何度も胸の内で練習をしていた。井の頭公園を散歩した後、どこかのベンチに座って、絵を見てもらうつもりだった。
明日香は民喜の顔を見つめ、
「うん、ぜひ」
眩しそうな表情で頷いた。
(よかった……)
明日香がオッケーしてくれたので、ホッとする。
ここから井の頭公園までは、歩いて15分くらいだろうか。来た道を戻って駅を通り抜け、南口から公園に向かうのが一番近いルートのはずだ。
民喜は井の頭公園が好きで、たまに一人で自転車でやって来てブラブラと散歩をすることがあった。井の頭公園を歩いていると、不思議と心が休まった。

しばらく二人で無言のまま歩き続ける。映画を観終わっても特に感想を言い合うことはなかった。色々と映画の感想を言い合いながら、井の頭公園に向かうことを想定していたのだが……。
あまり彼女の好みの映画ではなかったのかもしれない。確かに過激な暴力シーンが沢山ある映画だった。観る映画の選択を間違えてしまっただろうか、と民喜は幾分後悔していた。
映画を観ている間、明日香がずっとお腹の下のあたりに手を当てていたのも気になっていた。お腹の調子が悪いのだろうか。
そっと横目で明日香の表情を伺う。少し俯き加減で歩く明日香は心なしか表情が硬かった。何かを話しかけようと思うのだが、ふさわしい言葉が浮かんでこない。
やっぱり体調が悪いのだろうか。それとも、何か彼女の気に障ることをしてしまったのだろうか。それとも、よっぽど映画が面白くなかったのだろうか……。
騒がしい商店街の通りをやはり会話のないまま歩き続ける。民喜はだんだん不安と焦りを感じ始めていた。
(おかしい。こんなはずじゃなかった……)
遂にひと言も言葉を交わさないまま、吉祥寺駅に着いてしまった。不安のあまり、民喜は思わず、
「明日香さん、体調大丈夫?」
と尋ねてしまった。
明日香は顔を上げて、
「あ、うん、大丈夫だよ」
と微笑んだ。
「そう、ならよかったけど」
二人で駅の構内に入ってゆく。
「民喜君も……」
明日香はそっと民喜の表情を伺うような目をして、
「体調、大丈夫?」
と言った。
「僕?」
民喜はキョトンとして、
「え、僕は大丈夫だよ。全然」
と答えた。
「そう、なら、よかった」
明日香は頷いた。

ゆるやかな階段を下りてゆくと、黄金色に染まった井の頭公園が目の前に現れた。
立ち並ぶ楓の樹が地面に長い影を落としている。夕陽を反射させてサワサワと揺れる樹の葉は不思議と民喜の目に染みた。動揺していた心が幾分落ち着きを取り戻し始める。
「去年、みんなでお花見に来たね」
背後から明日香の声がした。
「あっ、そうだね。去年」
彼女の方を振り返る。去年の4月、井の頭公園でコーラス部の皆で花見をした。池の周りを満開の桜が咲き誇る光景が脳裏に浮かんでくる。
「あまりこの時間帯には来たことはなかったけど、夕方もきれいだね」
梢の方を見上げて、明日香は言った。彼女の表情も幾分柔和になっている気がする。夕陽に輝く公園の景色が彼女の心を柔らかにしてくれているのかもしれない、と思う。
二人で並んで七井橋を渡ってゆく。向こう岸のボート場の前をスワンボートとサイクルボートが列になって並んでいる。いまはボートに乗っている人は誰もいないようだった。ちょうどボートを漕ぎ終えたのであろう家族連れが発着場の上を歩いている。
西の空は淡いオレンジ色と黄色に染まり始めていた。沈みゆく太陽が池の水面に光の道を造り出している。何人もの人が橋の真ん中に立ち止まり、その光景を眺めたり、スマホで撮影をしたりしている。
民喜と明日香も橋の真ん中辺りで立ち止まった。
「きれい」
明日香は呟いた。
欄干に添えられた明日香のほっそりとした手に自分の手を重ねたい衝動に駆られたが、民喜はグッと堪えた。
しばらく橋の上から並んで夕焼けを眺めた後、二人でまた歩き出した。
どこかのベンチに座って「ネアンデルタールの朝」の絵を見せたい、と思うのだが、なかなか言い出せない。カバンの中に手を入れ、額に入った絵の存在を確かめる。
そうこうしている内に、もう一つの橋も渡り終えてしまった。
木立の奥に立ち並ぶ飲食店にはポツポツと明かりがともり始めている。ここから左に曲がれば、井の頭公園駅に至る道。右に曲がれば、弁財天に続く道。
「こっち、どうかな」
民喜は弁財天に続く遊歩道を指さした。
池に点在する噴水が水しぶきを輝かせている。池のほとりに並ぶベンチにはすでに何組かのカップルが座っていた。ここだ、という場所が見つからないまま歩き続ける。
弁財天の社殿の朱色の柱が見えてきた。背後の空も鮮やかな茜色に染まってきている。
もうこのまま公園を一周して終わりでいいじゃないか。
頭の片隅で声がした。
確かに今日のところは、もうこれでいいような気もする。明日香さんも何だかあまり体調が良くなさそうだし、あまり長く歩かせても悪い、と思う。
弁財天の前を通り過ぎる。民喜の内に再び不安と焦りが生じていた。
何のために今日、明日香さんを誘ったんだ。
頭の片隅から別の声がする。
勇気を出して、絵を見せろ――。
どうしたらいいのか決めることができずに歩き続ける。頭から血の気が引いたようになり、意識が幾分ぼんやりとしてくる。
そうして歩いている間に、まだ誰も座っていないベンチが並ぶ一角に行き当たった。
ここだ、ここにしよう!
胸の内で声がした。
この手前のベンチに、と心を決め、
「明日香さん、ちょっと、ベンチに座らない?」
明日香は可愛らしい咳払いをして、
「はい」
と返事をした。

ベンチ

ベンチの真ん中には仕切りがあった。仕切られた右側に二人で座る。すると彼女と体を寄せ合うような格好になった。本来一人掛けで設計されているところに二人で座ってしまったようだった。
左半身に彼女の体の暖かみを感じ、ドクドクと胸が高鳴る。今にも互いの手が触れてしまいそうだ。
「あ、ごめん、ちょっと狭いかな」
民喜が立ち上がろうとすると、
「あ、うん、でも大丈夫」
明日香はそう言って目を伏せた。彼女のすべすべとした頬は赤く染まっていた。
彼女が大丈夫ということだったので、民喜はまたベンチに座り直した。互いの半身がギュッと密着する。明日香はまた小さく咳払いをした。
体の中を血が激しく駆け巡る。血の気が引いたようだった頭に、今度は血が急上昇してくる。
緊張のあまり、何も言えずにただ前を見つめる。輝く水面の向こうに、さっき二人で渡った七井橋が見える。日が沈む前の最後の明るさが、ベンチに座る自分と彼女を包み込んでいる。
民喜はそっと深呼吸をして、心を落ち着かせようとした。


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第一部、第二部はこちら(↓)をご覧ください。



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