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五目釜めし

私はまた鬱状態になっていた。
感情が死んでしまったように無気力になり、どうして自分が生きているのかわからなくなかった。
身体が動かない。
起きれない。畳に沈みこんでいくように身体が重く本当に起き上がれなかった。
内職仕事もどうがんばっても出来そうになかったので休ませてもらった。
フォーカシング講座ももう行けそうになかったので休ませてもらおうと思った。
しかし今度のフォーカシング講座はお弁当の出る日だった。
私が休むと弁当がひとつ無駄になる。
そうだ。私の分の弁当キャンセルしてもらおう。私はメイさんにLINEで私の分の弁当キャンセル間に合ったらキャンセルして下さいと連絡した。次いで茂木さんにフォーカシング休むむねをメールで連絡した。
茂木さんからはお弁当がでるので気晴らしに出かけてこられますか?でなければ届けます。と返事が来た。
私はとてもじゃないけど気晴らしどころではなく廃人になりかかっていたので行けるわけがなかった。
弁当を届けてもらうのも申し訳なさすぎる。
キャンセルができればそれでいいや。
とぐったり寝ていた。
孤独死…という言葉が頭をよぎるが、空腹になると何かしらは食っているので死ぬ訳はなかった。食い意地が働くうちは死ぬ訳はない。
しかし、フォーカシング講座当日メイさんから(紗世さんの分、茂木さんが届けるって注文したよ)とLINEがきた。
えっそんな釜めし…。
そう、その日のお弁当は釜めしだったのである。しばらくすると本当に茂木さんが私のアパートまで重い釜めしを持って下さった。
立派な釜めしだった。
返却用の釜からしゃもじから薬味まで付いているんである。
家の丼に中身を移して返却用の釜はまた茂木さんに持って帰ってもらった。
ご足労をかけてしまった…。
誰かが私の事を気にかけてくれるという事が痛いほど身にしみた。
私は泣きながら釜めしを食べた。
五目釜めしの鶏肉、きぬさや、うずらの卵、錦糸たまごが彩りよく私の大好きな栗まで入っていて皆おいしかった。
孤独死などと考えていた昨日が馬鹿らしかった。
その時、私はインドのハンセン病のドクターの話を思った。
道端に放置されゴミか死体かわからないような状態で死を待つ人々が病院へ運ばれる。
患者は手当てをして貰う時できるだけ太い包帯を巻いて貰うのを喜んだ。
「目をかけてくれる人がいる」という実感をその包帯は示していた。
ゴミではなくちゃんと人間として扱われる。真っ白な包帯は人間として愛されているという証明だった。
誰かが気にかけてくれるという事。
目をかけてくれる人がいる。
釜めしは私にそれを教えてくれた。

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