Do more than give.
「れいこちゃん、わたし、そろそろここから引っ越すよ」
おもては雨が降っていた。梅雨らしく曇天が続いて蒸し暑く、洗濯物が乾かない。部屋には、ふたりの色とりどりの衣類が天井から吊り下がっていた。黄色やピンクやしましま柄のれいこちゃんのTシャツ。紺や白のわたしの制服。ふたりの数日分の靴下、下着。安物の香水みたいな柔軟剤の匂い。
「引っ越すの」
「うん。だってここ、れいこちゃんの家じゃん」
「そうだねえ。そうだったねえー」
語尾を伸ばすと、れいこちゃんは立ち上がって流しの前に行った。ぷい、と顔を背けられたみたいに感じた。じゃああああ、という音を立ててケトルに水を入れている。冷凍庫からアイスをふたつ取り出し、わたしに向かって投げる。投げたあと、「いる?」と言う。いらない、って言ったらどうするんだろう。わたしが冷凍庫に戻しに行かなきゃじゃん。それとも、いらないのなら投げ返せばいいのかな。わたしはいちいち考えてしまう。無言で。れいこちゃんはときどき、こういう不思議な順序で行動する。
「いる。ありがと」
れいこちゃんが戻って来てから食べるほうがいいのか、溶けるものだから断りなく先に食べていいのか少しのあいだ迷う。こういうときは無言で迷っているのではなくて、「先に食べるよ」とひとこと伝えたらいいんだ。そういうことが最近になってやっとわかった。
「先に食べるよ」
わたしの言葉に振り向きもしないでマグカップを出したりしている。立ったまま、れいこちゃんはもうアイスを食べていた。棒のアイスを器用にくわえてこぽこぽとコーヒーを淹れている。
「コーヒーのむ?」
「うん」
「ほいほあお」
よいこらしょ、と言おうとして、でもアイスをくわえていて変な言葉になっている。そういうときでも、彼女はわざわざ「よいこらしょ」とか言う。かわいい。というかサービス精神が旺盛。
「淹れたあとに聞くじゃん」
「え」
「れいこちゃん、いまみたいに、コーヒー淹れたあとに『のむ?』って聞くじゃん。もしわたしが『いらない』って言ったらどうするの?」
「わたしがユウちゃんのぶんものむ。なんで?」
「いや、先に聞かないのかな、って」
「あー、そっか、先に聞いたらいいんだよね。わたしおかしいかな」
「おかしいとかじゃないけど。わたしだったら先に聞くかなあ、って思ってさ」
「いいじゃん、ふたりぶんのめばいいだけのことだからさ」
なんだか、そういうことじゃないんだけどなという思いが靄みたいに残りながらも、でもれいこちゃんのこういうところに救われてきたんだな、とふと思った。
「これ、箱のコーヒー?」
「うん。あ、アイスはわたしの」
「おお。ありがとう」
「箱」というのは、わたしたちふたりが共用しているものを入れている箱のことだ。コーヒーの粉とか片栗粉とか醤油とか、ひとりでは使い切れないものを入れた箱。いつだったか、シェアハウスについての動画か何かで、互いのものを無駄なく使う方法としてこのような「箱」を活用しているのを知り、わたしが提案したのだった。それまでの「使っていいよ」というれいこちゃんの言葉に甘えることに罪悪感を持っていたわたしは、この「箱」にかなり助けられた。箱の中身については、きちきちに清算しない。こういうルールだった。
雨音が鳴る。しゃあああ、と水たまりを走る車の音。部屋の湿気た空気。コーヒーの匂い。深夜の気配。
「明日は?」
「遅番」
ずずず。れいこちゃんがコーヒーをすする。あちい。ごろん。アイスの棒をごみ箱に入れ床に寝転ぶ。
「明日は? しか言ってないのにね」
「ん?」
「遅番って答えたじゃん。おー、ユウちゃんわたしの言いたいことわかるようになってきたね、って思った。いま。なんか長年連れ添った夫婦とかみたい」
どうしてそういうこと言うの。切ないじゃん。なんでいま言うの。決めようとしてるのに。寂しいじゃん、不安になるじゃん。ひとりでどうにかしなきゃなあ、よし、って気持ちを固くしようとしてるのに、ぐらぐらするじゃん。
無言になる。でも無言が怖くて、
「ふふ。れいこちゃんのことはお見通しだよ」
なんて言う。
「眠いよう。コーヒーのんだのに。もう起き上がれない。無理。おやすみ」
「だめだよ、また肩が痛くなるよ。歯磨きしたほうがいいよ。がんばれれいこちゃん」
床で足だけぶらぶらさせながら、いいじゃんよー、ユウちゃんも一緒に寝よ、ふたりで寝たら怖くないよ、なんて言う。しょうがないなあ、とわたしもそのまま床に倒れ込む。狭い部屋で、テーブルの脚が頭に当たりそうになるのを避けようとしたられいこちゃんの肩に頭が当たった。
「よしよしいい子だね」
急にれいこちゃんがわたしの頭を撫でてきた。
「れいこちゃん」
「ん」
「ハグしていい?」
「やだ暑い」
「ハグしていい?」
「いやだってば」
「ハグしていい?」
「絶対やだ、どっかいけ」
うっそぴょーん、と言って、寝たままれいこちゃんはわたしをハグしてきた。
「仕方ないなあ」
「ほんとに暑いね」
「ね」
目を閉じる。寂しいじゃん、不安になるじゃん。なんでそういうことしてくれるんだよ。
梅雨が明けたら引っ越しかな。
自分で決めないと。決めるのは自分。後悔しないように。