パラレル・バタフライ
「後悔しても現状は変えられない」
社会人として働き始めた時に先輩から言われた。
「だから考えても仕方ないよ」そう付け加えて励ましてくれた先輩の言葉に僕はかなり救われた。こんな単純なことに、言われて初めて気がついた。後悔だらけだったたくさんのことが、小さな泡となって少しずつ溶けていくような感じがした。
それでもやっぱり僕は後悔している。たくさんのことを。「考えても仕方ない」。そう思いながら、たくさん後悔している。もうどうしようもないことばかりのガラクタの山を見て「あーあ」と思っている。あーあ。考えてもどうしようもないのに。
人生は選択の連続と言うけれど、これは本当にそうだと思う。
後悔というのはこの選択の残滓みたいなものです。上手くいかなかった時に自分の中で選ばなかった方の未来を都合よく解釈してしまって生まれる。だからこんなもの考えても仕方ないんです。
人生はゲームみたいだけど、全然ゲームじゃないから選択肢でセーブして戻ってロードなんてできない。1秒1秒オートセーブです。あの時あの瞬間も、つい1秒前のオートセーブに上書きされていくのです。
「あの時あっちを選んでいたらどうなっていたかな?」これも無駄です。でも僕はこれを考えて色々妄想するのが好きだったりするんです。人生は一度きりで一種類しかないけれど、こうやって考えれば小さな分岐点の先の少し違う人生が見える気がする。いわゆるパラレルワールドを少し体験できるような、そんな感じがちょっと好きなんです。現実逃避かもしれませんけど。
先日機会があって自分が生まれてから約2年だけ住んでいたという大阪の服部川という場所へ行きました。地名は両親から何度か聞いていて覚えがあったけれど、2歳の頃までの記憶はもはや断片すら残っていない。物心ついた頃には既に奈良の片田舎で暮らしていたから、大阪で生まれて育っていたというのは少し自分の記憶に矛盾を起こしているようで変な感じがする。
大阪の中心部から離れ、ビルやチェーン店より一戸建ての住宅が多くなり始めたそこは、その奈良の片田舎と少し似て静かな場所だった。
ただ、少し行けば大学があったり駅や何車線もある幹線道路があったり、遠くにはビル群まで見えていたりして、似ているけれど、そこは確かに違う別の場所だった。
目まぐるしく変わる大阪の町並みにおいて、当時の面影がまだ残っているらしいという両親の話を聞いて「ここで生まれ育って生きていたら自分はどうなってたんだろう」とぼんやり考えた。
8月のある日の別の人生。映る景色はどれも新鮮で、新しい人生というよりは新しいステージが開放されたような新鮮さがあった。
ただ、その白昼夢みたいな想像の中で、どうしても「自分の周りの人」だけがイメージできなかった。
奈良の片田舎で育ったからこそ出会えた何人かの人たち。その全てとは会えないと仮定した途端に、あっさりと考えは止まって、あそこで育って良かったな、としみじみと感じた。ああ、あの人たちに会えて良かったな、って。
もしここで生まれていたら出会えていなかった人たちがたくさんいて、僕は彼らや彼女らと出会えたから、たくさんの知識や感情を知って、彼らから教えてもらった言葉たちを使って、今こうして文章を書いている。それだけでなんだかもう十分だった。
当時両親が暮らしていたというアパートを通り、近くの細い道を上がると少し急な斜面があって、高台に登った。そこからは驚くくらいに大阪市内が一望できて、あべのハルカス、六甲山が遠くに見えた。ここで生まれ育っていたら、きっとこの景色を何度もここに見に来ただろうな。そう思った。
「一期一会」という言葉はかなり陳腐だけど、全ての出会いはなんて運命的なのだろうと、この景色を見て思った。
あの時、父親が奈良に引っ越すという一つの選択と、その後の自分のいくつかの選択があって、僕の周囲の人たちにもそういういくつもの選択があって、その全てが奇跡的に噛み合ったから、僕は色んな場所で、色んな人に出会った。この選択が一つでも違えば、きっと出会わなかった人たちに。
僕が世の創作物全てをリスペクトしている理由の一つもこれに似ているところがある。
全く別の人生を生きてきた誰かの作品が、全く違う別の人生を生きてきた人たちの手で作り上げられて、全く別の人生を生きてきた誰かに届く。
僕はこの作品を通して繋がる特別な一体感と、一直線な感覚がすごく好きだ。別々の人生が「作品」というただ一つのものを通して、ただ一つのポイントで混ざり合うのは、まさに運命的で奇跡的だと思う
バタフライエフェクトという現象があります。
「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきは、アメリカで竜巻を引き起こすか?」という少し馬鹿げた問いかけから始まるこの現象は、小さな蝶の羽ばたきというわずかな事象がその後の状態に大きな影響を及ぼすという意味があります。僕は人生の選択とかってこれに似てる気がします。
些細な決断が、大きな結果や、全く違う結論へ導いていく。
僕の些細な選択が誰かの些細な選択と混ざり合い、いつか大きなものができる、そう信じたいです。