人生というコンテンツ
人は何に面白さを感じるか、ということについて考えています。
今日はコンテンツを例に、そのことについて思ったことを書いてみようと思います。
子どもにとっての面白いものは、大人にとっては幼稚に見えますよね。幼少期は、アニメや教育番組が、子どもにとっての一台娯楽コンテンツになりますが、彼・彼女らは、どちらかといえばストーリーよりも映像そのものに対して関心を示しているようにみえます。よく母親が言う「あなた、子どもの頃は同じビデオばっかり見ていたのよ」という典型的なエピソードがありますが、これもまさしく、映像そのものに関心を寄せていることの証左ではないかなぁと。
で、成長するにつれて、ストーリーというものを理解し、徐々に複雑な登場人物の関係を理解できるようになり、面白さを感じる領域もそれに合わせて広がっていきます。見ているアニメも、徐々に少年向けのものになり、やがては映画やドラマを見るようにもなります。さらに抽象度の高い作品や、受け手に解釈を委ねるような作品にも触れるようになり、高度な思考力を獲得していきます。
この段階で感じている「面白さ」は、映像そのものへの関心から更に進んで、思考することに移行しているように感じます。自身のこれまでの経験を、作品と照らし合わせて、解釈を加える。それをフィードバックとして受け取り、自身の生き方にも影響を与える。コンテンツと自身の人生を相対化することで、作品そのものの面白さを、更に拡張し始めるのが、中高生くらいなんじゃないかなと思います。
相対化と書きましたが、大人になるにつれて、コンテンツと現実世界のどちらに軸があるかという点で、差が生まれるような気がしています。つまり、中高生くらいまでは作品の方に軸があって、作品から影響を受けた結果、人生観に影響を与えることになったりするわけです。よく思春期に衝撃を受けた作品は、その後の思考や価値観に影響を与えるといったことが起こりますが、それもこの類と言えそうですよね。
年齢を重ねるにつれて、作品から影響を受ける度合いは減っていきます。今度は逆に自分の人生の喜びや苦しみを作品に見出したり、感情移入したりする機会が増えていく。作品そのものではなく現実の方に軸足が移っているので、そうなるわけです。
こういうコンテンツに感じる「面白さ」は、一言でまとめてしまうと人生経験によってどんどん変わっていくもののように見えます。自分の人生に軸足が移っていき徐々にコンテンツの比重が小さくなっていくと、いずれは創作ストーリーでは飽き足らず、現実そのものを変えようという試みをする人が現れる。そういう人たちが起業したり思想家として活動したりして、自らが物語の主人公になろうとしていくんじゃないでしょうか。
「面白さ」を感じる対象は創作から始まり、最終的には人生そのものがコンテンツになっていくのではないか。そんな話でした。
それではまた!