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26歳の私がまとめた、自分を守る方法

誰に何を言われようと、私は私が大好きである。
好きな食べ物を食べさせてあげたいし
綺麗で心ときめく服を着させてあげたいし
身体が傷ついたり弱ったら手当をしてあげたい。

このことに気が付いたとき
とっても気持ちが楽になった

誰かに大切にされたくて、他人を求めていた

なんでこんな当たり前のことに気がつかなかったのだろうか。
心当たりは2つ。
1つは、「ナルシスト」はダサいという思い込み。
2つは、親から貰えなかった”受け止められる温かさ”を大人になっても求めていた。

今ではそんなに使われることはないのだろうか。
ナルシスト、いわゆるナルシ。私が中高生の頃は、ナルシと呼んでいた。
私のクラスには、「私ってすごい、私ってモテる、私って完璧。だから、誰も私に指図しないで。私が周りに指図するのよ。」という、女王様基質の女子がいた。メールの返信が遅いと、「昨日何していたの?」と問いを投げかけてきたりするような、少々他人へのコントロール欲が強い人だった。
私は、なぜかその子と、クラスも、選択科目も、進学コースも、部活も、塾も一緒だった(笑)そんなことから、周りからは仲が良いからわざと一緒にしているんだと思われている始末。だが、中高生の女子の友情問題というのは複雑で、嫌だからそのグループを抜けるだなんて大胆なことは私にはできなかった。結局、こんな人にはなりたくないなというもやもやを抱えたまま、高校卒業まで、彼女と過ごすことを選択したのだった。

当時、12歳の自分では、ナルシストとは、自分が大好きな人だった。彼女と過ごしていると、「この人ってホント自分のこと好きなんやな」とため息をつきたくなることが多かった。
けど、26歳になった今なら違う考え方ができる。憶測ではあるが、彼女はきっと自分のことが嫌いだった。自分の好都合になるよう他人をコントロールすることで、周りから「好き」と言ってもらいたかったんだ。自分で「好き」という代わりに。
思春期の中高生にはよくあることだと思う。親元から徐々に離れ始めたこの時期に、無条件に自分が好きだと思える人はそうそういないのではないだろうか。勉強が本格化する中学生は、これまで経験したことのない競争社会に晒される。成績・内申点・進学先・部活動・スクールカースト。小学生の頃とは一味違う、上下社会を経験する。きっと、彼女もその上下社会に圧倒された一人だったのだ。
私は、そんな彼女を見て、”自分を好きになることは間違っている”というメッセージを心の石碑に刻んだ。思春期の私が、幼い私に命令する。自分を自分で好きになってはいけないよ。本当は、大好きなのに。

中高生のころは、自分のことを嫌いぶっていてもなんとかなった。いや、別に私なんてさ~っていう態度をとっていても、自然と周りから「彩はすごいよ!」とおだててもらえる。有難いことに、私は中高大の約10年間、クラスメイトには恵まれた。自分の特技や性格をプラスに評価し、それを伝えてくれる人が何人もいた。その人たちからの支えがあって、心のなかの幼い自分は満たされていたのだ。自分で自分を好きになる必要性もなく、周囲に依存することでなんとかやってこれた。

自分で自分を守れなかった20歳の夏

時は過ぎ、20歳。大学3年の頃、他人と大きな衝突をした。
これが人生史上なかなかの衝撃だった。

当時は部活動のマネージャーとして、青春を捧げていた私。具体的なスポーツ名は身バレのため伏せておくが、インカレがあったり、全日本選手権があったりと、そこそこ真剣に取り組んでいた類のスポーツだ。

話を戻して、大学3年生の初夏。ある日、嬉しいことがあった。
選手たちは、実力に応じて5つのグループに分けられる。各グループは、選手たちが指名をし、マネージャーが合意をすれば、専属のマネージャーを付けることが可能になっていた。専属のマネージャーを付ければ、遠征に手配をお願いしたり、スケジュール管理をしてくれたりと、雑務を選手自らがやらなくて良くなるので、選手にとってそこそこメリットのあるシステムだった。
この話の要は、指名制であること。つまり、マネージャーの人気が如実に出てしまうわけで、指名されるかどうかを気にする人は気にするのである。

夏の大会前のグループ発表があったある日。私は一番実力が上のグループの専属マネージャーに呼ばれた。これは正直びっくり人事。当時、一番上のグループには4年生又は幹部が配置されるのが暗黙のルールであった。よって、配属を期待していた4年生・当時の幹部・その周りは、私のことを良く思わないわけで。「なぜ彼女が?」という視線や直接的な発言、露骨な態度を浴びることとなるのである。

これがかなり心にきた。
自分で自分を守る方法を知らずに20年間生きてきてしまったものだから、無防備に殴られ続けることしかできなかった。部活を辞めたいと何回も思った。このころから過呼吸が出てくるようになり、パニックが始まった。

自分で自分を大切にする力を育てる26歳の冬

3年生の初夏の出来事は、なかなか辛く、消化しきれなかったが、6年経った今ようやく整理し、自分の心の中の本棚にしまえつつある。
”自分で自分を守ることできるのが大人”であることを教えてくれた出来事だったのだ。今、流行りの言葉を使うなら、”自分の機嫌は自分で取ろう”に近い。

やっぱり私って、自分のことが大好きで、ナイフを刺されたら、やめてよ!!って思う。だって、大切で大好きだから。

それを素直に認めて、自分を大切にしてあげる。
すると周りへのコントロール欲も薄れ、心が穏やかになった。

□ 好きな食べ物を買ってあげる。
□ 身体のどこかがほつれて、病気になったら、美味しい食べ物を食べたり、ゆっくり横になったり、薬を飲んだりして、身体を修理してあげる。
□ 心に、他人の言葉のナイフが刺さって、血が流れたら、ハーブティーを飲みながら、編み物をさせてあげる。悲しみや痛みを聴いてあげる。傷がかさぶたになってきたら、次このナイフが飛んで来たらどうするのか、今後どう歩いていくのか、自分と会議をしてあげる
自分の心がときめく服を着させてあげる。自分の心がときめくメイクを施してあげる。流行に乗りたいときは乗らせてあげて、素朴なスタイルがしたいときは、させてあげる。どっちも私の大切な感情・欲求。(けど、お洋服・メイク道具って高いからそのための金銭管理をしっかりしないとね。お金って有限。欲は無限。)
髪の毛をとかしてあげる。定期的に切ってあげる。
顔を洗い、保湿をしてあげる。自分の身体の一部を大切に扱い、綺麗にしてあげる。
□ 感情を抱きしめてあげる。ジャーナリングをする。自分の外に吐き出して、そうだったんだねって無条件に在ることを認めてあげる。


自分に毎日コツコツと栄養を与えて、大切にしてあげる。これが26歳の私がまとめた、自分を守る方法(仮)。
きっとこの先、もっともーっと沢山の経験をしていって、色々な方法を見つけていくはず。これはあくまでも仮の答え。仮説。
気付きを得られた今日から、検証していくんだ。

SNSが身近にあるから、”自分の心”と”他人の心”の境界線が混乱しやすい。特に容姿に関しては、それが顕著だと感じる。他人がときめくものは、バズって発見欄に出てくる。それが、自分の心とたまたま合致すれば、全く問題はないのだけど、自分ひとりぼっちになったときでも、それが良いと思えるのかな。他人からの承認ありきで、自分の容姿を持つアイテムを選んでいないかな。一度立ち止まる習慣は忘れたくない。


今日も、自分の心・感覚・身体を大切に。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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