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消滅家族の記録 6 花を生ける明治の男

 花を生ける男性というと、假屋崎省吾さんのような優雅な人が思い浮かぶが、うちにも花を生ける男がいたのだ。
 明治10年生まれの祖父の兄が華道を教えていたのだという。彼は終戦間際に亡くなったので、田舎に住んでいたこの人物がどのような過程を経て、生け花を習得し教えるようになったのか、詳細は知らない。

 彼の遺品の大正後期か昭和の初め頃の竹籠花器に秋の花を出鱈目流で生けてみた。

 亡母の伯父にあたる人なので、母は彼が花を生けているところを何度も見たことがあると言っていた。母は父親が破産し、祖父母と伯父が暮らす家に預けられたことがあった。
 職業は、若い時分には役所に勤めていたらしい。お正月には到来物の新巻鮭や鰤が毎日出るし、鯉こくも出るし、母は、そのまま伯父の子供になってもいいな、と思ったそうだ。彼は一度結婚し女の子がいたが、妻が子を連れて実家に戻り、そのままになってしまったのだという。
 後年は、母が知る限りでは、華道教授を職業とし、偶に俳句の会の集まりで上京していたらしい。身上を潰し何も残さず、理想的に消滅した人のようだ。

遠州古流師範  嶺玉齊一光

  彼の流派は遠州古流。インターネットで調べたら、以下のことが判明した。     
 日本三大茶人のひとりであり造園・庭園家でもあった、小堀遠州(小堀遠江守政一)を流祖としている遠州流よりわかれて、秋月庵一太坊が起こした新たな一派が遠州古流。小堀遠州は、千利休の弟子のひとりである古田織部の茶の湯を継承し「綺麗さび」といわれる茶の湯の美意識を形成した。                                 綺麗さびとは、わびさびの世界に、優しさ、美しさや豊かさを加えて、華やかさと静かさの調和の美を目指した概念。
 遠州古流は、小堀遠州の美意識を花で表現する流派の一つ。                                

 和の習い事は、流派が多数あり、私にしてみれば何が何だかの世界。若い頃に「いつまでもフラフラしてないで、さっさと片付け」なんていわれ、近くの池坊の先生のところに通ったが、足がしびれて身が入らず、数か月しか続かなかった。

 母は、伯父は枝をたわめるのが上手で、真似をしてもなかなかうまくいかなかった、と言っていた。師範名は嶺玉齊一光。生けた花を展示する際は、名を記した木札を置いたそうだ。
 晩年は芭蕉庵のような茅葺き屋根の小さな家に住み、庭には鯉や鮒が泳ぐ池があり、風流を満喫していたらしい。 
 それにしても、どういう男なのか、と興味が湧く。きっと、母親に甘やかされた総領の甚六だったに違いない。それとも、日常生活を超えた何かへの言葉にできない隠された願望を抱いてしまった男だったのだろうか。
 村人に生け花を教える華道教授で生計が立ったのだろうか。謎の男だ。 
                            

木札                                                                   

 俳句については残された材料が見つからない。母は和綴じの句帳があったといっていたが。
 母のノートに書いてあったこの一句が、彼の句かもしれない。
 「闇空の 華とこそなれ 飛べ蛍」 
 お返しに私も一句詠んでみる。
 「花生ける 明治の男 ホタル追い」 
                         
 句帳が出てきたら、また別の機会に書いてみようと思う。 



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