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消滅家族の記録 1 終焉の地

     私が消滅したら、どこに行って、どんな人たちに合流するのかを書いてみようと思う。

 お棺は、亡母と同様、この記事のヘッダーの写真のような木製のものにしたい。
 お棺に入れられたら、次は葬儀場の火葬炉へ。そして、焼却開始のボタンが押される。今世紀に入り、すでに3回、葬儀場でボタンが押される瞬間を目撃したので、経験は十分だ。
 火葬炉から出てきたら、骨壺に入れられ、後日、お墓に入居する。
 後継がいないので、消滅後の墓地の管理をどうするのか、法的な手続きが必要になるのだろうが、まだ手を付けていない。どなたかに、ご先祖と桜の木付き16坪を差し上げてもよいのだけれど、希望者はいないだろう。

 この写真は、うちの墓地がある辺りで撮られたもの。写真の後方は母方の祖父が生まれ育った集落。年代は明治の後半と思われる。意外なのは田舎の青年たちがすでに洋装していることだ。日露戦争後の景気のよい時代だったのだろう。

明治後期の村の青年たち

 立て板に手をかけ、ズボンとシャツの袖を捲り上げて田んぼに立つ男が、祖父の長兄だ。明治12年生まれで祖父より10歳年上。長兄と祖父の間に5歳にして四書五経を修得し村の神童といわれ一族を背負って立つと期待された兄がいたらしいが夭折し、長兄が家督を継いだと聞いた。
 祖父が子供の頃には、仏壇に家系図の巻物があったが、困窮した長兄が売ってしまったらしい。天井裏に隠してあった21本の刀もいつの間にか駄刀2本になっていたそうだ。家紋が丸に九枚笹なので、関ヶ原の戦いで負けて逃げてきたのかもしれない。祖父の母方は明治までお殿様に仕える漢方医だったが、明治維新で失業し、峠を越えた村に移り住んだ。

駄刀。短いものもあるが、薪割りに使ったらしく、ぼろぼろ。

 父の実家もこの写真の近くにある。何年か前に訪ねてみたら、従兄が健在で、家も昔のままだった。従兄は、家には誰も住んでいないが取り壊してしまうのも忍びないので仕事場に使っている、と言っていた。
 父方の一族は関ヶ原の戦いで石田三成と行動を共にした。
 先祖は、平城京・平安京で戦に破れ、美濃国に逃れ、漢方の薬草園を営みながら山伏のような生活をしていたらしい。三成の父・石田正継と親交があった関係から一族58名を率いて西軍に加わり参戦し、敗戦後、三成を戦場から北方へ案内した。敗走の途中、三成一行と別れ、家康方の詮議を逃れるため信濃に落ち延び隠れ住んだ。
 以上は、本家に残る文書に書いてある、と父に聞いた話と、ネット上に出ていた記事からである。
 石田三成と最後まで行動を共にしていたら、さらし首になっていたのだろう。

 私の父は、満鉄や満州医大に行っていた従兄たちを追って中国に渡り、中国の自治体で仕事をしていたと言っていた。20代で今の億単位のカネを持っていたそうなので、いわゆる大陸浪人だったのかもしれない。現地召集で関東軍に加わり終戦を迎え、現地の中国人から部隊がシベリア送りになるという情報を得て、脱走し運よく生き延びた。
 父の一族は逃げる運命だったようだ。そういう私も、家を蹴っ飛ばして出てきて、挙句は、この国では女が生きる場所は狭小と悟り、海外へ逃げ出した。遁走の血は私の中にも脈々と息づいていたのだ。

 墓地に残る古い墓石の最古のものは享保だ。それ以前のものは近くの曹洞宗の寺にあるらしい。明治の神仏分離・廃仏毀釈の頃に一部の檀家が寺を離れ、この墓地を新設したようだ。
 
 小さい頃は、毎年、お盆とお彼岸には行事のように墓参をしていた。
 私の代になってからはせいぜい年に一度、コロナが始まってからはもっぱら墓掃除・墓参り代行業に依頼している。
 そろそろ罰が当たりそうなので、終焉の地を訪れたほうがよいとは思っているのだけれど、夏は猛暑で外出を控え、涼しくなれば雨が降り続き、体調不良で出かける気にもなれない。グズグズしているうちに消滅し、火葬炉の焼却ボタンを押される日が、そこまで来ているというのに。 

私の終焉の地 。周りにあるのが古い墓石。手前の影は桜の木。春は、花見をしながら…

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