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二人のジルベルト=ジョアンとアストラッド#1イパネマの娘に何が起きたか?

6月5日に、ブラジル人シンガー、アストラッド・ジルベルトがお亡くなりになりました。

彼女は、「イパネマの娘」を歌って全米で華々しくデビューして、それを皮切りに、世界的なボサノヴァのブームを巻き起こし、映画の中でもこの歌を歌い、当時は、「ボサノヴァの女王」とも称されて、時代の寵児となりました。

https://www.youtube.com/watch?v=a8wcZUUXJFs&t=130s

 1964年に公開されたアメリカ映画
「クレイジー・ジャンボリー /
Get Yourself a College Girl」から。
アストラッド・ジルベルトは本人役で出演した。


ところが、ブラジル国内においては、彼女の評価はそれほど高くなく、「イパネマの娘」が世界的な大ヒットとなった直後に、夫君である、ジョアン・ジルベルトと離婚する憂き目にも遭ってしまったのでした。

いったい、そこにはどんな事情が隠されているのでしょうか。

私は、数年前に、ジョアン・ジルベルトの生き様を追求していた、フランス映画『ジョアン・ジルベルトを探して』という映画が公開された時に、この事情について考察をしていたことがありますが、その前に、ウィキペディアによって、まずは、アストラッド・ジルベルトについてご紹介しておきましょう。

アストラッド・ジルベルト
(ブラジルポルトガル語:Astrud Gilberto
(アストルーヂ・ジウベルト)、1940年3月29日 - 2023年6月5日)は、ブラジル出身の、ボサノヴァ、ジャズ、ポピュラー音楽の歌手。




来歴

1940年3月29日、アストラッドは、ブラジル・バイーア州サルヴァドールでアストラッド・エヴァンジェリーナ・ワイナート(Astrud Evangelina Weinert)としてブラジル人の母とドイツ人の父親の間に生まれ、リオ・デ・ジャネイロで育った。

1959年にジョアン・ジルベルトと結婚し、1963年にアメリカ合衆国に移住。

同年3月、アストラッドはアルバム『ゲッツ/ジルベルト』に参加し、ジョアン・ジルベルト、スタン・ゲッツ、アントニオ・カルロス・ジョビンと共にレコーディングを行った(発売は翌1964年)。

そのときまで彼女はプロの歌手として歌ったことはなかったが、彼女の歌声にプロデューサーのクリード・テイラーが目をつけ、彼女が英語で歌う「イパネマの娘」が作られ、世界的にヒットした。

「イパネマの娘」の大成功後、ソロ・デビューを果たし、ブラジルのボサノヴァとアメリカのジャズ・スタンダードの架け橋的な存在となる。

1970年代には自身で作曲をし、レコーディングを行った。

【ジョアンとアストラッドは1960年代の半ばに離婚した。】

彼女はボサノヴァの代表的な歌手という、海外における一定の評価もある反面、
【英語で歌ったために、ブラジル国内ではあまり実績を残していない。そのため、同国内における評価はあまり高くない。】

サンバ歌手で有名なベッチ・カルヴァーリョなどもその点を指摘したコメントを残している。

動物虐待や動物実験には批判的な姿勢を持っており、動物の権利を主張して自らも反対運動に参画している。

2023年6月5日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの自宅にて死去、83歳没。

※※※

以上が、彼女の簡潔な略歴ですが、

「彼女はボサノヴァの代表的な歌手という、海外における一定の評価もある反面、【英語で歌ったために、ブラジル国内ではあまり実績を残していない。そのため、同国内における評価はあまり高くない。】」

という点に、かなり引っ掛かるものがありますね。

いわば、「イパネマの娘」の世界的な大ヒットの直後に、アストラッドとジョアンは離婚せざるを得なかったのですが、離婚後にも、アストラッドは、ジルベルトという、別れた夫君の名字を生涯にわたって名乗っていたのですが、その名で世界的に知られてしまったため、その後の活動を継続するためには、旧姓のエヴァンジェリーナ・ワイナート(Evangelina Weinert)に戻して、アストラッド・エヴァンジェリーナ・ワイナートと名乗るよりも、アストラッド・ジルベルトという氏と名をずっとそのまま通したほうが都合がいいと判断したのかもしれませんね。

さて、世界的な大ヒットとなり、その後に、アストラッドとジョアンの夫婦関係が破綻した原因は、同じウィキペディアで「イパネマの娘」を調べていくと、事情がかなりわかると思います。

「イパネマの娘」
(イパネマのむすめ、ポルトガル語: Garota de Ipanema、英語: The Girl from Ipanema)は、ブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)が1962年に作曲したボサ・ノヴァの歌曲である。

「イパネマの娘」
スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルトの楽曲収録アルバム

『ゲッツ/ジルベルト』
リリース:1964年3月
規格:レコード
録音:ニューヨーク、A&Rレコーディング・スタジオ
(1963年3月18日 - 3月19日)
ジャンル:ボサノヴァ
時間:5分21秒(アルバムでの収録時間)
レーベル:ヴァーヴ・レコード
作詞者原詞:ヴィニシウス・ヂ・モライス
英詞:ノーマン・ギンベル(英語版)
作曲者:アントニオ・カルロス・ジョビン
プロデュース:クリード・テイラー

「イパネマの娘」
スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルト の シングル初出アルバム
『ゲッツ/ジルベルト』

概要

ポルトガル語の原詞はヴィニシウス・ヂ・モライスが、英語詞はノーマン・ギンベルがそれぞれ作詞した。

ビートルズの「イエスタデイ」などに次いで、世界中で多くカヴァーされたポピュラー・ソングの一つといわれ、ボサ・ノヴァのナンバーとしてはもっとも著名な曲となっている。

なお、「イパネマ」とはブラジルのリオデジャネイロ市内に位置するイパネマ海岸のことである。


英語版「イパネマの娘」

英語詞の事情

外国語曲を積極的に聴く態度を欠くアメリカの大衆リスナーへ外国曲を売り込む場合、英語詞は不可欠であった。

これらは多くの場合、2線級のアメリカ人作詞家が手がけることが多かったが、原曲の詞とは全く異なった内容で書かれた安易な「やっつけ仕事」も少なくなく、原作者たちの不満の元になった。

またアメリカやフランスにおける著作権の仲介者たちは、中間マージンを多量に得ようと、外国人たちの無力な立場に乗じ、原作者に対して不利な契約を結ばせた。

ボサ・ノヴァでもそれは例外でなく、もっともひどい例ではジョビンとモライスの作った曲が、彼らと無関係に勝手に「フランス人の作曲したもの」として著作権登録されてしまったケースすらあった。

「イパネマの娘」においても作詞者と著作権仲介者を兼ねたノーマン・ギンベルが、アメリカでの著作権料のうち相当部分を得ることになった。

ジョビンはこれに懲りて、その後は自曲の英語詞についても極力自力で書こうとするようになったという。

『ゲッツ/ジルベルト』

世界的にもっとも有名な「イパネマの娘」は、ヴァーヴ・レコードから発売されたアルバム『ゲッツ/ジルベルト』に収録されたバージョンである。

1963年3月、スタン・ゲッツ(テナー・サックス)、ジョアン・ジルベルト(ギター、ポルトガル語のボーカル)、アントニオ・カルロス・ジョビン(ピアノ)、アストラッド・ジルベルト(英語のボーカル)の4人はニューヨークのA&Rレコーディング・スタジオ(英語版)でこの作品を録音した。

通説では、アストラッドは当初歌う予定はなく、夫のジョアンにつきあってスタジオに来て、たまたま歌ってみたところ、あまりにできが良かったのでそのままレコーディングされたとの伝説がある。

実際にはアストラッドはブラジルで若干の歌手活動の経験もあり、全くの素人ではなかった。

アストラッド自身による売り込みがあり、コマーシャリズム面からの手腕に長けたプロデューサーのクリード・テイラーが、英語を話せ、かつ歌えるアストラッドの商業的価値を計算し、宣伝効果を狙って「飛び入り参加のハプニングであった」とする筋書きを描いたと言われている(ジョアン・ジルベルトは英語を話せなかった)。

『ゲッツ/ジルベルト』は録音から1年後の1964年3月に発表された。 

同年5月、ジョアンのポルトガル語歌唱部分を(シングル版に収まらないという理由で)切り捨てて、残りを切り継ぐ形でシングル・カットされた。

B面はゲッツの1964年のアルバム『リフレクションズ(英語版)』に収録された「風に吹かれて」であった。

英語版「イパネマの娘」は同年7月18日から7月25日にかけて2週連続でビルボード・Hot 100の5位を記録。

また、イージーリスニング・チャートで1位を記録し、グラミー賞最優秀レコード賞を受賞した。

ゲッツのボサ・ノヴァに対する理解は十分なものではなく、また彼生来の傲慢な性格からジョアンやアストラッドに対しても冷淡な態度を取った(録音後、ゲッツがテイラーに「アストラッドにはギャラを出すな」と命令したエピソードが知られている)。

ジョアンもゲッツの横柄な態度やボサ・ノヴァへの無理解、テイラーのビジネス優先な扱いに、いたく心証を害した。

スタジオで両者の間に挟まれてしまったトム・ジョビンが苦労したというエピソードが残っている。

アストラッドは「イパネマの娘」のヒットによってアメリカで人気歌手となったが、ジョアンとアストラッドは程なく離婚している。

アストラッドはクリード・テイラーの後押しによって多くのボサ・ノヴァ曲を英語で歌唱し、「ボサ・ノヴァの女王」とまで呼ばれて世界的にボサ・ノヴァ歌手として有名になったが、実はボサ・ノヴァ発祥の地であるブラジル本国ではこのヒット後もほとんど知名度のない存在であった。



なお、アストラッドが片言の日本語歌詞で歌うバージョンも存在する。

この史実は、ボサ・ノヴァがアメリカ的コマーシャリズムに蹂躙された代表例として批判され、コアなボサ・ノヴァ愛好者たちから、アルバム『ゲッツ/ジルベルト』およびアストラッド・ジルベルトが複雑な扱いを受ける一因にもなっている。

※※※

引用オワリ

要約&補筆すると、ボサノヴァという音楽は、1960年前後に、ブラジル国内のリオ・デ・ジャネイロで生まれた新しいスタイルの音楽であったが、やがて、当時の若者たちを中心にして、次第に米国にもその評判が伝わり拡がり、遂に、米国の人気ジャズミュージシャンであるスタン・ゲッツと、ブラジルの人気ボサノヴァギター弾き語りシンガーであるジョアン・ジルベルトと協同で、『ゲッツ/ジルベルト』というアルバムを米国で録音するところまで漕ぎ着けることができました。

が、そこに、両者の音楽性やスタイル、さらにはスピリッツさえもが全く相容れないものが存在したため、険悪な雰囲気のままレコーディングが進められていったことになります。

ただし、発売されたアルバム自体の評判は非常に高く、売れ行きも好調で、アルバムの中から、シングルカットすれば、さらに大ヒットを狙えるということになります。

そこで、プロデューサーであるクリード・テイラーが目を付けたのが、「イパネマの娘」でした。

この曲は、ジョアン・ジルベルトがギター弾き語りで一番の歌詞をポルトガル語で歌い、
二番については、彼の夫人だったアストラッドが英語で歌えるということで、前もってそれを狙っていたプロデューサーのクリード・テイラーは、あらかじめ、米国人のノーマン・ギンベルに英語の歌詞を書くように依頼済みで、米国でも歌手デビューしたいという希望を持っていたアストラッドと、この曲を、英語の歌詞で歌った歌曲として売り出したいというテイラーの思惑が完全に一致して、

なんと、一番のジョアンがポルトガル語による歌詞で歌った部分をまるごとカットして、あたかも、二番の英語の歌詞だけで歌った楽曲をシングル盤として売り出したのでした。

当時のヒットの決め手は、主にラジオ番組の中でレコードが掛けられるために、なるべく短い時間で録音されたシングル盤(一般には、ラジオエディット・ヴァージョンと呼ばれていますが)が好まれ、そのニーズにもぴったりハマり、まずは米国で大ヒットとなり、やがて、世界中で、このシングル盤がもてはやされ、超大ヒット&ロングセラーとなったのでした。

そんな状況で、世界的な大ヒットが誕生して、米国デビューを華々しく飾ったアストラッド、共演者であり、米国においてボサノヴァを“発掘”した功労者として名を売ったスタン・ゲッツとプロデューサーのクリード・テイラーは万々歳でしたが、1人だけ、非常に面白くない思いをしていて蚊帳の外に置かれていた人物がいました。

それが、誰あろうジョアン・ジルベルトでしたが、彼の視点から、当時の状況がどうであったのかを#2で探ってみることにしましょう。

(つづく)



一連の動きを簡潔にまとめた労作を発見しましたので、ご参考用に。

Naomi's Choice
小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
The Girl From Ipanema / Garota de Ipanema          
「イパネマの娘」 Part 1
- 1962年 Vinicius de Moraes + Antonio Carlos Jobin/Norman Gimbel



#創作大賞2023


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