カジュアルについて(2024.06.23)
[ここからは1,000文字に含みません]
四日目です。昨日は書いている途中で迷い、というか思考が出てしまい「これはひょっとしたら1000文字超えないかもな?」と思っていたら案の定超えず大反省をしました。ただ考えて書くというは面白い、読める文章を書くためには必須の能力ですし、これから鍛えていかなければいけい分野でもあると思っています。
ワードを決めてから文章の構成について考える時間があってもいいのかもしれません。それはそれで、決まりきらないものになってしまう可能性もありますが。
[ここまでは1,000文字に含みません]
カジュアルについて書いていく、よーいスタート。
カジュアルというと、思い浮かぶのはやはりファッションの領域です。
カジュアルとフォーマルのどちらに寄せるか、どちらの方が適しているかなんてのはいつの世も語の種ですし、個々人にこだわりを持つ人も多くいます。(かく言う私も、スーツを切ることがどうしても嫌でクリエイターになったというのも否定できません)
ただ近年、カジュアルとフォーマルは一応の区分こそあれ、その差はどんどん縮まっていっていると考えています。ジャケットひとつとっても素材からシルエットから、一昔前ならば「正式な場に来ていくには少し砕けすぎではないかね」と眉を顰められそうなものも増え、しかしそれらを「ジャケット」というジャンルの概念が「フォーマルにいてもいい」ところまで推し進めています。
思うに昔「カジュアル」と「フォーマル」に分断されていたものが、価値観自体の多様化に伴って徐々に混ざり合ってきたのではないかなと考えます。
それは洋服・ファッションもそうですが、例えば結婚式は血族全員の一大儀式であったところから当人間のより手のひらに収まる形になり、会社という労働者の戦場は徐々にプライベートの楽しみまで含めた場所に溶けていっているように、本来「かくあるべき」と言われるような環境が「そこまでしなくてもよかったんじゃ」と再認識された結果、それが「かく」の服装も同じく影響を受けているのではないでしょうか。
というか、これは私がとても好きな考え方なのですが、「こうあるべき」ではなく「これもあれもいい」という風潮になってきていることを肌で感じ、非常に嬉しい日々を送っています。
私は学生服がとにかく苦手でした。というのも学生服というガチっとした色と生地の硬さをしたそれが、「お前はこのように育つべきである」と常に私に語りかけているような気がしていたからです。もちろんそれが悪というわけではなく、同級生たちはそのことに対して誇りすら抱くような人もいたわけですが、たまたま、自分にはそれが合わなかった。だからそれが許される、受け入れられる場所にいたかった。
カジュアルの語源はラテン語の「偶然な」という意味の言葉だそうです。偶然、たまたま、出会ったものが良かったりした時。それを「今の常識とは違うから」と弾くのではなく「それもいいものだ。でも今までもいいものだ」と受け入れ、その偶然を楽しむ。そんな余裕があるようにいつも生きたいと思っています
そういう意味では私の生きたい方向は「カジュアル」寄りなのかもしれません。
どうでもいいことですが、「カジュアル」を日本語で解釈すると「果樹ある」になることに気がつきました。
見つけた果樹は、ひょっとしたら瑞々しい知恵の実なのかもしれませんね。
(文字数:1,123文字)