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『九十九神示』全文掲載 【戦の巻】①

2024年5月出版『九十九神示つくもしんじ』の全文を各章ごとに掲載しています。


今回は、「いくさの巻」前編を掲載します。




◎戦の巻


長き御霊みたまいくさ終わらす「いくさの巻」であるぞ。


そなたたちは御魂みたま生まれてこのかたいくさいくさに明け暮れて来たのであるぞ。
地球転生てんせいの過去だけではないぞ。
人民、宇宙や高き次元にいくさなどないようにお思いじゃが、銀河という銀河、宇宙という宇宙がいくさだらけであったのぞ。
そなたらの目には、戦国の世も終わり、世界の大きいくさの世も終わり、ようやく平和な世が来たように見えておろうが、人と人が殺し合うことだけがいくさではないのぞ。


自他じたを分かつ心、おのれを善とし、を悪とする心、すべていくさであるぞ。
おのれの考え、おのれの価値観と違う者を否定し、非難し、正そうとする心、すべていくさぞ。
そなた、おのれの正義、美意識にそぐわぬ者、まゆひそめて批判しておろう。
おのれの善悪、優劣、正誤せいご損得そんとく苦楽くらく物事ものごと判断し、日毎ひごと不足不満申して、家族、隣人りんじんと言い争っておろう。
そうして何もかもを分かち、苦しみ生み出しておる心のすべてがいくさであるのぞ。


いくさとは分かつ、分かつ考え方のことを申すのじゃ。
われいくさなどしておらん、誰も傷付けておらんと申すお方、これでおわかりか?
心にいくさなき者、この星には生まれておらんのぞ。
誰も彼も大神おおがみ身々みみちぎって生まれたと申しておろう。
皆々元は一つであるぞ。一人であるぞ。
大神おおがみ様を御親みおやとして、そなたらは誰も彼も兄弟であり、姉妹であるのぞ。
人類みな兄弟と申すであろう。まことのことであるぞ。
宇宙に生きるすべての生命いのち、すべての御魂みたまはそなたの家族であり、そなた自身でもあること、思い出す時迎えておるのぞ。
そのまこと思い出し、各々おのおのが生き方に致せば、世は今日この時からミロクの世じゃ。天国じゃ。


言われてみれば簡単じゃのう。
その簡単な道理、何もかも見失い、来る日も来る日もおのれを分かち、いくさに明け暮れて来たのが、そなたらの歴史であったのぞ。
地球は宇宙の雛型ひながたと申すなれば、宇宙のどこもかしこもそうであったことわかるであろうに。


皆がいくさせず、幸せに暮らせるまことの平和の世、まことの調和の世を願う人民よ。
まずはそなたの生き方から改めてくだされよ。
このの人民は皆、星々の代表、神々の代表じゃと申しておろう。
それぞれの霊統れいとう霊域れいいきあかを掃除洗濯致すための代表ぞ。
神から見れば何もかもが逆さま、あべこべとなっておるから、考え方、物の見方、すっかり変えてくだされよ。
ここで生き方改めねば、ミロクの世へは入れんのぞ。
今まで通りにはいかんぞ。
昨日までのように明日があると思うなよ。
これまで通りに明日を生きれば、天国ないと思えよ。
そればかりか、生きても死んでも今ある苦しみさらに色濃くなること、どうかおわかりくだされよ。


いくさなきまことの平和の世とは、それぞれがまつり合うことじゃと申して来た。
まつり合うとは、各々おのおの身魂みたまの個性とうとび、自由とうとび、互いをいつくしみながら活かし合うことを申すのぞ。
自分と相手の違いを認め合いながら身魂みたまを高め合い、まことを学び合うことを申すのぞ。


皆々神々様じゃと申しておろう。
どんなに嫌なお人でも、宇宙に二つとない神として拝んでくだされよ。
その者、このほうの現れでもあり、そなた自身の現れでもあるのぞ。
そなたが見ておるものは、そなたの過去の心の結果であり、そなたの今の心の映し絵でありますのじゃ。
そなたの心の中にないもの、そなたの世界には映らん道理、おわかりくだされよ。
これ、かがみの法則でありますぞ。
霊主体従れいしゅたいじゅうと申しておろう。
何もかもが先、が元であるのぞ。
苦しきこと、悪しきこと起こる度、そなたの心の中のねんがあぶり出されておるのじゃから、ねん手放す機会与えられておるのじゃから、相手に感謝致し、事象じしょうに感謝致し、手放しなされよ。


考えなしに感情にまれ、相手ののしるでないぞ。
そうなればまた堂々巡どうどうめぐりじゃ。
そうしてそなたらはいつまでもとのいくさ続けて来たこと、悟ってくだされよ。
それが因縁因果いんねんいんがと申すことぞ。
最後の時となっても、皆々堂々巡どうどうめぐりしておる者ばかりじゃ。
最後の時だと知らんお人も、知っておったはずのお人も、皆々りずにいくさ続けておるのう。
生まれ来た目的忘れ、神の声に耳かたむけず、まこと学ぶことおこたり、すっかり悪の世に取り込まれ烏合うごうしゅうとなっておいでじゃ。


いくさ好まぬと申しながら、おのれに自信失くし、自己嫌悪、自責じせきねんつのらせておるお人、それも立派ないくさであることおわかりくだされよ。
そなたらはあっちに振れれば慢心まんしん致し、こっちに振れれば自責じせき致して、いずれにせよいくさばかり繰り返しておるのぞ。
はらの真ん中に神居座いすわっておらん証拠であるぞ。
それではますます悪の世に流されるままのぐさとなってしまうから、身魂みたま磨いてしっかりはらに神まつり直してくだされよ。


そなたら、皆々一つでありますぞ。
生きとし生ける者、皆々一人の自分のことでありますぞ。
ののしる者は、神をののしり、宇宙をののしり、おのれののしっておるということに気付きなされよ。
自己嫌悪し、自責じせきする者は、を嫌悪し、神を嫌悪し、宇宙を嫌悪しておるのと同じであるのぞ。


人は罪の子ではないと申してあろう。
罪ばかり説く宗教、悪の宗教ぞ。
人は喜びの子ぞ。神は喜びであるのじゃから、人は神の子であるのじゃから、うれしたのしと生きてくだされよ。
神の子なればこそ、過去の因縁いんねん洗濯致し、喜びの子に帰らねばならんのぞ。


皆々おのれであるのじゃから、すべてはかがみであるのじゃから、いかりも、悲しみも、寂しさも、ねたみも、すべてはおのれの問題であること、自業自得じごうじとく、自作自演であることおわかりくだされよ。
「カガミ」からガ(我)を取ればカミ(神)になると申すであろう。
ガ(我)とは自我エゴのことぞ。まことを知らぬ肉体ばかりの小さきわれぞ。
ガ(我)を取ると申しても、自我エゴめっすることではないぞ。
小さきわれを、皆々一つ、皆々おのれと見る大きわれまつり替えよということぞ。
れいわれしゅと致し、肉体のわれじゅうと致せということぞ。


このことわからねば、一方的じゃ理不尽りふじんじゃと申して、納得出来ぬに落ちぬと申して、堂々巡どうどうめぐりのいくさ続けることになるのであるから、それではいよいよこの卒業出来んこととなるから、まことの道理よく理解され、自他じた共にいつくしんで、うれしたのしで生きてくだされよ。



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