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『九十九神示』全文掲載 【戦の巻】②

2024年5月出版『九十九神示つくもしんじ』の全文を各章ごとに掲載しています。


今回は、「いくさの巻」中編を掲載します。





おのれの感情のくせ、捉え方のくせ、皆々過去の因果いんがであること、よく見つめなされよ。
過去の世の因果いんがもあれば、今生こんじょう因果いんがもあるぞ。
大き不和ふわめ事のすべては、自分と相手との御魂みたま因縁いんねんによりて起こっておること、よくよく見つめなされ。
難しく考えなさるなよ。
おのれの感情手放し、金輪際こんりんざい争わぬということぞ。
自他じたを分かち、おのれこそが正しいと思うあやま知・・・・を捨て去ることぞ。


理不尽りふじんなことあれば、感情にまれるぞ。
甘んじてはならん、わからせて正さねばならんと、頭の中で自我エゴが暴れ出すぞ。
それとこれとは別じゃ、ここは戦わねば治まらんと、そなたをいくさに駆り立てるぞ。
いくささせるためそなたを正当化しようと、理論理屈ではやし立てるぞ。
それがあやま知・・・・がくちからじゃ。
そなたの心は、いくさなど求めておらんであろうに。
神は心に宿るぞ。良心に宿るぞ。
良心に付け込み、理論理屈でねんき付け、いくさに向かわせるのが悪神あくがみであるぞ。がくちからであるぞ。
一人一人の中にある闇の働きじゃ。


今生こんじょうそなたらが生まれて来たのは、いくさといういくさを終わらせるためであること、ゆめゆめ忘れるでないぞ。
岩戸開きの大峠おおとうげとは、いくさ終わらすとどめのいくさじゃ。
いくさと申せば何もかも悪いわけではないぞ。
悪のいくさと神のいくさとあるのじゃ。
破壊と苦しみを生み出すのは悪のいくさ、それを再び創造と喜びに立て替えるのが神のいくさぞ。
神のいくさも破壊をともなうが、目的が違うことわかるであろうに。


そなたらに終わらせよと申しておるのは悪のいくさじゃ。
悪の世を終わらせ、神の世に立て直すには、心の中につるぎを持たねばならん。
世の中の闇、おのれの中の闇をはら草薙くさなぎつるぎぞ。
この狂った世を受け入れ続け、がたきをえ続けることが調和と思えば大間違いぞ。
誰にも良い顔を致し、へらへら笑っておることが平和と思えば大間違いぞ。
今度ばかりは、神のいくさ志士ししとなりてくだされよ。
戦ってはならんが、戦わねばならん道理、どうかおわかりくだされ。
悪のいくさと神のいくさ分別ふんべつ、付けてくだされよ。


悪をいだき参らせるとは、悪に従うことではないぞ。
悪を認め、許すとは、その御役目おやくめと働きを許すこと。
そなたが悪の世に居座いすわることを許すことではないぞ。
人民にとっての神のいくさとは、悪のいくさを終わらせ、嫌なものは嫌じゃ、おかしきことはおかしいと申し、取り合わぬことじゃ。
悪、叩くことではないぞ。悪、叩くは悪のいくさぞ。
あらがうのは悪のいくさ、従わぬのが神のいくさぞ。これでおわかりか?


堂々巡どうどうめぐり、もうならんぞ。
おのれの悪の戦癖いくさぐせ、自分では気付かぬこと、小さきことも多くあるから、日々心致してくだされよ。
ねんねんぞと申すこと、おわかりくだされ。
生きとし生ける者、皆々大切な個性であるのじゃ。
皆々大切な神の御子みこぞ。
大き神の目で見れば、それぞれの考えに良いも悪いも、優劣もないのであるぞ。
皆々働きであり、因果いんがであり、御役目おやくめであるのじゃ。


皆々必要がゆえに在るのであるぞ。
必要がゆえに起こるのであるぞ。
宇宙にいらんもの一つとしてないのじゃ。
相手に腹立て、批判否定し、正そうとする心からは、いくさと自己満足しか生まれんと申しておろう。
相手を言い負かして治めた平和は平和ではなく、相手の個性潰し、自由潰し、奪っただけであるぞ。
侵略による統治とうちと同じことぞ。


どれほど理不尽りふじんと思えども、どれほど稚拙ちせつと思えども、相手正すことなく、その者の考えとうとび、放っておきなされ。
それでそなたと相手のいくさ因果いんが、終わるのであるぞ。
えんとはえんぞ。そなたのした因縁いんねんは回って自分に返るのぞ。
返って来たえんをそなたがいらぬと申せば、それで巡りは終わるのじゃ。


苦しき因果いんが作ったこと、相手におびしなされ。
掃除の機会いただいたこと、相手に感謝しなされよ。
再び腹立ていくさ致せば、えんはいつまでも巡り続けるぞ。
輪廻りんねと申すはそのことぞ。
この道理、しっかりはらに納めてくだされよ。
そなたが思うそなたのき道、えんを歩めば良いのじゃ。
他人の道はその者の道ぞ。手出し口出しならんのぞ。
とは申せ、えんある者は学びの同志。
まことに向かって学び合い、高め合うには、時には口出しせねばならんこともあるなれど、身魂みたま磨けば臨機応変りんきおうへん、押し引きわかって参るから、何より身魂みたま磨き一等いっとうであるのぞ。


皆々、子らには喧嘩けんかならんと申しておろう。
仲良う遊べと申しておろう。
大神おおがみの心もそれと同じじゃ。
どれもこれも、言われてみれば簡単なことじゃのう。
そなたらにせられた大神おおがみの望み、一言で申せば「仲良う致せ」ということじゃ。
宇宙の雛型ひながたであるこのつくりて、相容あいいれぬ者ら同士混ぜ合わせ、仲良う致せるか見ておったのぞ。
どうじゃ、これでよくわかったであろうに。


人と人だけではないのぞ。
草木虫魚そうもくちゅうぎょ鳥獣とりけもの、空、海、山、川、土、物、事象じしょう、そして神々様、霊人方、何もかもすべてじゃ。
われいくさなどせん、何も傷付けておらん、殺しておらんと申す者、そなた毎日、けもの、鳥、魚、むさぼり食うておるではないか。
気色きしょくが悪い、邪魔じゃがいじゃと申して、小さき虫や生き物のけもの・・・・にしておるではないか。
誰も彼も涼しい顔して商売致しておるが、人民、日毎ひごとどれほどの生き物殺しておるか想像してみなされよ。


生き物殺し食う商売、人の世のどのいくさよりも凄惨せいさんであるぞ。
善の仮面でそれを隠し、グルメじゃ名産じゃと笑っておるが、悪の仕組みに取り込まれ、知らぬ間に手貸しておるいくさもあること知りなされよ。
犬猫いぬねこ血相けっそう変えて守れと申すに、その口で牛豚うしぶた喜んで食うておるのはいかなる道理じゃ。神には理解出来んことぞ。


神が人民に与えておる食べ物、五穀野菜ごこくやさいたぐいと申してあるぞ。
野のものを中心に、海のもの、山のもの、川のもの、つつましく大事に食べなされよ。
今の人民、食えるものなら何でもむさぼり食うて商売に致す餓鬼がきのごとくなりてござるぞ。


人民食べるもの、遠くて近いものと申して来たであろう。
しょうが遠く、産地の近いものという意味ぞ。
しょうが遠いほど弥栄いやさかとなること、知らせてあるぞ。
草木くさきは愛なる意識であるから、人に食べられること嬉しいのじゃ。
御魂みたま出世しゅっせ致して、喜ぶばかりぞ。
美味うまけりゃ良い、滋養じようありゃ良いわけではないぞ。
生き物食えば、生き物のうつるのぞ。
しょうが近いもの、外国のものばかり食うておれば、そなたの波動が狂うのじゃ。
近き神、高き神が守護しにくくなり、獣霊けものれいえんなきれいと呼応し易くなるのぞ。
毎日けものばかり食うておれば、けもの気性きしょう移って来るぞ。
感情、欲求激しくなるぞ。波動荒きれいが寄って来るぞ。
差別や贔屓ひいきを申しておるのではない。
の違い、波動の性質の違いを申しておるのぞ。


しょくにもことわりあれば、えにしもあるのぞ。
土地にえにしあれば、えんあるお土から採れたもの食うのが一等いっとうであろうに。
しょうみ分けあれば、共食ともぐい、雑食ざっしょくならんことわかるであろうに。
戒律ではないぞ。れいの栄養学を申しておるのじゃ。
そなたらはれいの存在であるのぞ。
御魂みたまだけでなく、肉体も波動で出来ておるのぞ。
口に美味うまいものも大事なれど、れい美味うまいものも考えて食べるのが霊体れいたいまつり合わせたまことの人の食事であるぞ。


あし食うなと申せば今の人民難儀なんぎであろうから、無理に変えようとすれば苦しくなるから、出来ることからで良いぞ。
善の仮面被った悪の仕組み理解し、各々おのおので考えなされよ。
じゃと申して、こだわり、押し付けならんぞ。
程度の話を申しておるのじゃ。何事もバランスが肝腎かんじんぞ。
健康志向にかたよれば、不健康になるぞ。
を裁き、罪悪感で心むぞ。
食べること楽しみながら、少しずつ考えてくだされ。



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