『九十九神示』全文掲載 【愛の巻】①
2024年5月出版『九十九神示』の全文を各章ごとに掲載しています。
今回は、「愛の巻」前編を掲載します。
◎愛の巻
愛より生まれ、愛へと還る「愛の巻」であるぞ。
愛とは何かと神が問えば、そなた何と答えるかのう。
難しい難しい人の世の命題であったのう。
日の本の人民、子らには当前のように「あいうえお」教えておるが、そなたら「あ」の意味も「い」の意味もわからず生きておるではないか。
あいうえお、神の言葉であるぞ。神そのものであるぞ。
宇宙のお仕組み、働きのことでありますぞ。
「あい」とははじめの氣、はじめの心であるぞ。
「神は愛なり」と申すであろう。
元の元の道理、神の愛の何たるかすらわからなくなっておるのが、そなたらの御魂の因縁でありましたのぞ。
愛とは、惚れた腫れたの恋のことではないぞ。
それもまた愛であるが、真の愛を忘れた恋は、駆け引き、取り引き、騙し合い、繕い合うては愛を試す狐と狸の化かし合いじゃ。
良いか。そなたらが真の愛を忘れたそもそもが、男と女の色の乱れであったのぞ。
宇宙万物を創り、そなたらを創った愛そのものである神を無下に致し、悪神に唆されて自分らだけの勝手な愛の道理を信じ始めたからじゃ。
あやま知の学の愛、すべてを分かつ悪の知恵の愛ぞ。
それによりてそなたらは、常に己と相手とを分かち、愛ある者と愛なき者を分かち、どちらに愛があるかないかと相手の愛を試して、愛が足りん愛が欲しいとゆすり合っては貪り合う、愛の争奪ゲームをして来たのじゃ。
「神は愛なり」ぞ。
神は宇宙のすべてであると申しておろう。
すべてのものを愛と見なし、すべてのものに神を見れば、何もかもうれしうれしとなるのが宇宙根本のお仕組みであるのぞ。
何故わざわざそれを分かつのじゃ。
何故自と他を分かち、何故神と人を分かつのじゃ。
何故善と悪を分かち、優と劣を分かち、正と誤を分かち、宇宙の真理とこの世の生活を分かつのじゃ。
神は喜びであるぞ。神は理であるぞ。
宇宙のすべてを一つと見なし、愛と成すことが喜びの理なれば、それらを分かつことは理に逆らうこととなり、逆さまの事象と体験を生むのであるぞ。
喜びの逆さま、苦しみぞ。
何かを分かつところに、苦しみは生まれるのじゃ。
何もかもを分かつ悪の知が、そなたらの人生に苦しみを生み続けて来たのであるぞ。
自分と相手を違う者と見なすから、人と神を違う者と見なすから、真の愛がわからなくなり、愛に枯渇し、愛を求め、試し、奪い合うのであるぞ。
神の愛は与える愛、逆さまの愛は求める愛ぞ。
神は万物生みし親であるから、与えることしか出来んのじゃ。
与えることが喜びであり、与える働きそのものであるのぞ。
求める愛は、真の愛を忘れた愛じゃ。
あやま知の愛に囚われ、すべてのものに愛が宿り、すべてのものは愛そのものであることがわからんから、愛を探して彷徨い歩くのじゃ。
己もまた愛そのものであることを忘れておるから、外ばかり見ては物欲し顔で指を咥えておるのぞ。
我は愛されぬ、愛されたいと申す者、神の愛を見失い、無下に致すのも大概にしなされよ。
伴侶、家族、隣人のみならず、神々様、霊人様方皆々に感謝の心を手向け、皆々と共に生き、生かされておること胸に刻みなされよ。
愛されぬ、愛されたいと思うのは、そなたの心が人の上に立っておるからじゃ。
己の心根を差し置いて、人に足らぬ足らぬと求めるばかりの鼻高であるからぞ。
そう申されて腹の立つ者、その心こそそなたが愛されぬ理由であるのぞ。
我は恵まれぬ、我は可哀相じゃと申し、一人で苦を背負うておると思い上がり、他を非難し、他に愛を強いるその心が、そもそもの大き取り違いであるのじゃ。
そなたの心根に、いつ何時も他への感謝、神への感謝が居座りおれば、そなたの生命も、この世の何もかもが持ちつ持たれつ生かされておること、愛し愛され生きておることがわかるというものぞ。
人に愛されるには、愛を注がれる器にならねばならんのう。
そなたが人の頭の上に立っておっては、注ぐものも注がれんであろうに。
水は高きから低きに流れること、天地の理でありますぞ。
誰も彼も御役目じゃと申しておろう。働きじゃと申しておろう。
すべてはそなた自身の学びのための巡り合わせであるぞ。
人間関係、日々の事象を学びと捉え、人に感謝出来る心、家族伴侶に感謝出来る心育て、頭低う致しておれば、その器に自ずと愛の水は注がれ行くのぞ。
感謝せよと言われて感謝するのではないぞ。
他を認め、尊ぶ心に自ずと感謝の念は湧いて来るのじゃ。
そなたの中に他を尊び、慈しむ心なければ、感謝感謝といくら申されても押し付けがましい説教となるだけぞ。
そなた、神は何故万物から愛されるかわかるかのう。
簡単なことじゃ。神は何をも分かつことせず、すべての者に与えるばかりであるからぞ。
愛するから愛される、鏡の法則じゃなあ。
人に愛されるには、人を分け隔てせず、皆々を愛そうと努めることじゃ。
皆を愛することなど出来んとそなたらは申すなれど、誰も彼も好きになれとは申しておらんぞ。
好き嫌いは個性の現れであり、誰にも少なからずあるものじゃ。
皆々愛するとは、それぞれの身魂の個性を認め、尊びなされということじゃ。
そなたが相手を認めんから、許さんから、分かつ苦しみが生まれるのであるぞ。
何もかもを許し、認め、尊ぶことが神心。
神人共に一つであった本来の人間の心じゃ。真心じゃ。
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