ホラー映画において「新しさ」はどれだけ必要なのか
Xのタイムラインに流れてきたツイート。
これを見て、酩酊した脳みそでグルグルした考えを手癖で書き留める。
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「真新しさ」の定義が棚上げされているのはさておき……ホラーは新奇性が求められる/られてきたジャンルといえる。なんで? 大半のホラー映画(なかでもゾンビ映画)が、反復、リメイク、焼き直しでつくられているからだ。“概ね同じ”だからこそ、類型からの差異に目が向けられる。
単調な反復と作り直しを超えた「新しさ」。そこにジャンルの魅力があるし、批評的な意味合いでの価値や機能が見出されてきた(『サイコ』の母親の過剰な愛情という新奇さはマミイズムへの危機感の表象だろうし、『アメリカンサイコ』での新しい「白人男性」描写は規範的男性像への疑念が社会に広がっていることを表していて、『ロンドンゾンビ紀行』の老人ゾンビの歩みは新しさの根拠に作品の魅力がある)。
故に、類型からの差異がどのように、なぜ立ち現れているのかに着眼し、重視するのかは、ホラー映画を観る一つの主な姿勢といっていい。俺はそう思う。否定してしまうと、ホラー映画批評史が根本から揺らいでしまう。
「あるべきとされている境界を定めるコードがいかに動揺しているか」
そこにホラー、そしてホラー史の本質がある。あらゆる創作には同じようなことがいえるが、中でもホラーはその傾向が極端だ。
して、ホラー映画において、過剰だとしても、新しさを求めるーー新しさがなくてガッカリ、減点するーー見方は悪くないんじゃねえのと思う。
ホラー映画において、新しさはいつだって必要だろう。
……なんて書いてきたが、俺は『〜〜ロムルス』を見てねえ。我がの能書きを垂れる前に早く観ろって話。あるべきとされている境界を定めるコードがわからなくなってしまうのが、(なんであれ)最も忌避されるべき状態……といえる。