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アピチャッポン・ウィーラセタクンの個展「Solarium」へ行ってきたとのこと

どの駅からも絶妙に距離があり、出不精の俺にとって“余程のこと”がなければ訪れることがない「SCAI THE BATHHOUSE」でアピチャッポン・ウィーラセタクンの展示が開かれていると知る。

アジアを代表する映画監督の新作映像が見られる。かつ、この機会を逃せばいつ見られるのかもわからない。これは“余程のこと”となる。

というわけで、山手線を降り、日暮里駅の西口から谷中霊園の脇をひたすら歩く

牧野富太郎といえば、高知県の生まれだったはずだけど、墓は東京にあるのな。

徳川慶喜。歴史の教科書に載るような人物は、距離感が遠すぎてフィクションのキャラクターに近い捉え方をしてしまうところがある。それだけに、確かに実在したことを示す跡に突然遭遇すると面食らうというかなんというか。

墓巡りを趣味にする人がいるが、彼らはきっと連綿と続く人類史の雄大なタイムラインに自分が接続しているとぼんやり実感できることを魅力に感じるんじゃねえのかな、多分。墓碑を見やりながら、歩くこと10分ほど。

きたこれ。「SCAI THE BATHHOUSE」。

展示の内容に触れる前に問わず語りをすると……そもそも、俺が初めてアピチャッポンに出会ったのは、高校生の頃「広島市映像文化ライブラリー」で『真昼の不思議な物体』が上映されていたときのことで。当時のmixiの日記を掘り返してみると、こうあった。

「俺はなんでこの映画をすげえおもしろがってんの?」と考えていた。世の中には入り組んだ巧妙な筋書きとか、ホラー、エロ、暴力に溢れてる過激なもんもあって、それらが往々にして退屈なのに、なんだかわからんタイ映画の、しかも紆余し続ける物語にはぐいっと引きこまれる。ずっと見ていたいと思う。いったいどういうことやねん。俺は語る言葉を持ち合わせてねえ。

今回の展覧会。観終えて抱いた感想は10数年前と変わらず、「俺はなんでこの映像をすげえおもしろがってんの?」「俺は語る言葉を持ち合わせてねえ」となった。言わずもがなポジティブな意味で、である。

展示のメインは、アピチャッポンが幼少期に夢中になったホラー映画に着想を得て制作したという『Solarium』。これが、とにかく、なんだ、抜群にいい。

展示室中央に設置されたガラス板を挟み差すように、上方にある2つのプロジェクターから振り下ろし気味に映像が投影される。ガラス板、そしてガラス板を透過して床にも映像が映る仕組みのインスタレーションだ。

5分強の映像で描かれるストーリーは、眼球に執着する男性の消失(何を書いているのか自分で読み返してもわからないが確かにそうなのである)。

暗闇のなかで自身の眼球を探しさまよう男の姿が映し出されますが、彼はやがて日の出の太陽によって破壊されてしまいます。

これの何が素晴らしかったか。言葉にするのは難しい。が、惹かれた理由の一つには「光」へのアプローチの構造的なおもしろさが挙げられる、ように思う。

カメラオブスキュラの誕生から現在に至るまで、写真・映像といったメディアは、原理的に常に光を必要としてきた。それに抗するかのように『Soralium』は、プロジェクターから「発した光」で成立させた作品となっている。光に生殺与奪の権を持たれているメディアにして、光を自在に操って作品化させているわけだ。

双方向に差す光はガラス板に、そして、ガラス板を透過して床一面に広がり、鑑賞者をも不気味に包む。

描かれるストーリーは換言すれば「(妻のために)光が必要な器官を求めて、光に焼かれる男の話」。そして、作品タイトルは、「光を取り込む部屋」を意味する「Soralium」。

アピチャッポンがカメラオブスキュラの反転、脱構築を意図している……という解釈は思い過ごし、とは言い切れないだろう。

今作で最も強烈なビジュアルである、ガラス面にふわっと浮かび上がる映像は、ーーアピチャッポン印の、幽玄を感じさせる映像であると同時にーー構造的な意味では光と闇のあわいを表象したものであり、テーマらしきものの真芯をグッと刺すような印象を受ける。

叙情的な映像それだけで素晴らしい。そのうえ知覚までグッと広げられるというか、なんというか。そんなバランスがまったく嫌味なく成り立っているのがアピチャッポンのかっけえところだな……。

……と、俺の受けた印象を書き連ねてみたものの、アピチャッポンの作品は、言葉で輪郭づけようとすればするほど作品の本質のようなものが瓦解していくような印象がある。

かつてのインタビューで氏が語っていたように、

私はアクティビストでもないし、政治的な映像作家でもありません。私が試みているのは「感覚(feeling)」そのものをとらえることです。それは「個人的な」経験の感覚をどうにか記憶したいという気持ちがあるからなのです 。

というレベルの話で、意味を過剰に読み取ったり、「あらゆる作品に意味がある」という考え自体が落とし穴にはまりかねない態度ともいえよう。

いや、もちろん、アピチャッポンの作品に意味を見いだす悦びであったり、意義も大いにあると思うし、日本唯一の研究家である中村紀彦氏の論考を読んでみると、「はえー、なるほどー」と知的興奮というやつを味わったりもする。

とはいえ、なんだ、もうどっちでもよくて、アピチャッポンのことが俺はやっぱり好きだな、となった。初めて出会った時から変わらず「俺はなんでこの作品をすげえ面白がってんだろ?」という、センスオブワンダーを常に喚起させてくれる作家なんて、いったいどれくらいいるだろうか。いやはや。

初めに観たインスタレーションが素晴らしく、ぽーっとしてしまったあまり、一般公開されるのが初めての機会だというドローイングや、写真を用いた時間彫刻的な作品『Boxes of Time』は横目に見る程度で家路についた。

……そういえば、ギャラリーを出ようとしていると、ベビーカーを押す外国人家族とすれ違ったのだった。受付で「インスタレーションの室内は暗くて怖い感じだから注意して」と声をかけられていたが、3人は意に介すことなく、その展示室に行き、部屋に入った瞬間に幼子はギャン泣きしていた。ただ暗い部屋を怖がって泣いただけだろうけど、幼児からアピチャッポンを体験できるなんて、なんとも素敵で贅沢な文化経験じゃねえの。

なお、「Soralium」の元ネタになった作品はこちらとのこと。


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