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映画『箱男』を観る

小説『箱男』の映画化企画が再始動していると知ったのは、たしか去年の夏頃だった。同じニュースの中で、だったか、スポンサー募集をかけていたような記憶もある。

石井岳龍(いまだに慣れない)も安部公房も好みの作家である俺はといえば、その報を受け、喜ぶよりも先に「どうせ、また頓挫するんだろうねえ……」なんて気持ちになった。

「スポンサーをネットで募る状況ってことはさあ……」

が、その数ヶ月後にはベルリン映画祭でワールドプレミア。

「おいおい本当に完成させちゃったのかよ……」

驚いた。安部公房生誕100周年という追い風はあったにせよ、それは逆にこのタイミングを逸するわけにはいかないことと裏表なわけで、2024年公開にこぎつけた製作陣の艱難は察するに余りある。すげえ。

ただし、同時に頭をもたげたのは「おいおい石井監督とはいえ、あの小説をどうやって映画化すんの?」という、原作を一読した人であれば誰もが想起するそれである。すぐに友人に「箱男が映画化されるとのこと……」と暗にネガティブな思いを込めたLINEを送った。友人からは「爆死確定」とだけ返信が来た。

難解……とは言わずとも(原作が難解であることを理由に映画がつくられないのであればPTAの『インヒアレント・ヴァイス』は企画されない)小説というメディア形式をはみだしたーー箱男が「記述者」から「作中人物の一人」に落とされていくなかで、主観がずれ、作者と読者の反転が企図されているーー複雑な重層をなすメタフィクション……という特殊な構造の原作をどのように映画化、脚本化するのか。

不安混じりで、キタコレ。朝8時。席の埋まり具合は3、4割ほどといったところか。少ない。翌日には石井監督のトークショーが予定されているらしく、そちらの回に足を運ぼうとする人が多いのかもしれない。

『箱男』を読んでもう20年弱が経つので、原作の細かな描写までは覚えていないが、アバンタイトルの写真群や新聞報道描写からして、原作のモチーフを存分に活かそうという意気込みは明らか。

海岸に打ち上げられた魚(ベラ)や、部屋の片隅に置かれた冷蔵庫の箱など、原作を未読であれば当惑してしまうような、ごくわずかなカットをあえて残しているのも、小説『箱男』への目配せだろう。イースターエッグとして、ではなく、原作『箱男』がモザイク的に編み上げられた作品であることに対しての、である。

縦、横、それぞれ一メートル、高さ、一メートル三十前後のものであれば、どんなものでも構わない。(中略)さて、もっとも慎重を要するのが、覗き窓の加工である。最初に大きさと位置を決定しなければならないが、それぞれ個人差もあることだから、以下の数字は、あくまでも参考程度にとどめていただきたい。窓の上縁が、天井から十四センチ、下縁がそれから、さらに二十八センチ、左右の幅が四十二センチ、といったあたりが無難なところだろう。

という(本棚から引っ張り出してきた)小説の記載と比べると、映画の箱男は外形も、覗き窓のサイズ感も異なるが、そのビジュアルは初読時に思い描いていた姿に近い。うまい。

小説『箱男』を読んだときに覚える、主観が混濁していくような感覚も、映画『箱男』には確かにあった。

ともすれば、理解不能な仕上がりになってしまう恐れのあるネタでありながら、過剰にわかりやすくすることもなく、原作に近しい体験を生み出した稀有な例と受け取った。

物語が理解不能に陥っていない大きな要因は、脚本家にあろう。小説の展開を組み替え、三幕構成の形式に嵌め込むことで物語の背骨をしっかりとつくりあげている。作者が亡くなっているとはいえ、なかなかできることじゃない。すばらしい換骨奪胎じゃねえの。

……と、俺は映画『箱男』にずいぶん好感を抱いた。

不安混じりで劇場へ赴いた。しかし、存分に満足できる仕上がりだった。杞憂だったか。その安堵がはじめに訪れたのは映画の冒頭。

箱男が動き出すシーンだ。自分の想像の中でしか動いていなかった……要は見られないものを見る、という、映像メディアの原始的な喜びが爆発する。

ジャン・ルノワールの『トニ』や、フランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』、レオス・カラックスの『汚れた血』……を挙げるまでもなく、映画における疾走シーンは観客の情感を掻き立てる、独特の美しさがあるものだ。

今作での箱男の走りも同様に、そして、それでいて新奇的な独特の美しさにあふれている。石井岳龍節ともいえる、シリアスでもありながら、スラップスティックとしても成立させてくる腕力よ。

箱音がピョコピョコと疾走するーーオノマトペでの形容が熟語に結びついていないが、そうとしか表現できないーーシーンは、その度に思わず手を叩いた。

映画を通じて強調される「箱男」の眼差す/眼差される目線は今作の骨格といっても過言はない。

なかでも魅力的だったのは、“眼差す”目線の方で、観客が受け取る“フィクションの画面”という前提を融解させるようなカメラ演出だ。

見逃している場面もあるかもしれないが、2シーンでそうした演出があった。

2つとも唯一名を与えられたキャラクターである(それだけ重要な存在である)葉子へ向けた眼差しで、橋桁の上で葉子と対峙した瞬間、そして、「見られる気持ちを味わいなさい」(このセリフは映画を観る観客にも向けられている[だからこそ、そのシーンで画面は極端に眩く光る])という言葉を箱男が投げかけられた場面である。

この2つの場面は、これまで第三者的に映画を観賞していた客と箱男との同一化を示唆している。(俺の動体視力を俺は信頼していないが)特に橋でのシーンはカラグレも極端だったように思う。要はラストカットのモノローグは、その時点から決定づけられているわけだ。

……と、書いてきたが、当然ながら、こんな解釈が正しいというわけではない。むしろ、解釈が無限に開かれている/受け手の想像力が無限に刺激される点が、小説、映画両方に共通する、『箱男』最大の魅力だと俺は思っている。カメラオブスキュラとして箱男という存在を捉える見方もできるし、見るー見られる関係をサルトルのいう“相剋”として検討することもできるし、カフカやベケットと並べて疎外の取り扱われ方を比較もできる。

それだけに、ーーこれもまたひとつの解釈ともいえるがーー「SNSの利用が当たり前になった現代社会を予言したような〜〜」といった見立てが蔓延るのは(エンドロールのSEがあったとて)、映画『箱男』の魅力を矮小化している紹介の仕方に思えてならない(作品紹介のプラットホームか何かで目にした)。むしろ、現代社会を予言した50年前の小説が原作なんだという姿勢で映画を観ると、観客は間違いなく肩透かしをくらうだろう。

往々にして「宣伝と作品」は「編集部と営業部」のような、最も身近な“悪魔”との共闘を余儀なくされる関係なので、こうした短絡的なベビーサタンプロモーションが生まれるんだろうけれど、『箱男』は、もっと、もっと、開かれているところにこそ魅力がある作品だと言いたい。して、俺はこの映画が好きだ。

とはいえ、作劇において「それはどうなん?」という気持ちもある。

ラスト、商店街シーンの次に用意された展開はーー安部公房が原作で行った、作者(登場人物)と読者の反転/ブラックホールのような拡大を意識したものだろうと理解できるもののーー蛇足だった印象がある。箱男の覗き窓とシネスコサイズの酷似は誰もが気づく“匂わせ”なわけで、それでそのテーゼを感じ取ってもらう程度でよかったんじゃねえの? 上に書いたような同一化を示唆する演出だってある。

いや、それでも、反日常性の安堵が恐怖に移行する箱男の心情を観客に追体験させるという意味で必要だったのか?

また、原作において結末部で聞こえてくる「救急車のサイレンの音」は、病院、すなわち都市の監視装置を象徴するものと示唆されているが、映画ではそれが携帯電話のビープ音に置き換えられている。それはあまりに直接的すぎるのではないか?

明確な判断は避ける。いや、できない。

が、さすがにラストシーンのモノローグは、「せっかく解釈が開かれた作品なのだから、あえて決定的なピリオドを打つ必要はなかったんじゃねえの」と、少なくとも現時点では受け止めてしまう。

とはいえ、映画を通して魅力あるシーンは数多くあるし、あの原作をここまで換骨奪胎した製作陣の手腕は見事としか言いようがない。俺はこの映画が好きだ。

あと、なんだ、箱男が襲撃を受けるなか、贋箱男を撮るカメラがコンタックスT2だったのも美術のこだわりが見てとれる。良かった。

願わくば、箱男フィギュアを販売してほしい。ほら、ブルーレイの限定版とかでさ。ちょっとお値段が張っても、買うぞ、俺は。

その日の夜は高円寺の阿波踊りを見、オーセンティック居酒屋「田け」へと赴いた。いい1日だったといえる。

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