あまりに美味しい「鰻」について
庶民の味方である吉野家ですら、鰻重にはとてつもない価格設定がなされている。明らかに物足りない一枚盛りで1108円、それなりのボリュームとなる二枚盛りが1922円、見た目だけで満足感のある三枚盛りが2736円。
貧乏な俺、目が丸くなる。広告モデルの藤田ニコルの笑みでは誤魔化せない凶暴な値段設定だ。
にもかかわらず、吉野家でも、コンビニエンスストアでも、オリジン弁当でも、街の至る所で鰻は訴求されている。別に天然鰻の旬ってわけでもねえのにさ。平賀源内に踊らせ続けられちゃってさ。それとも、なんだ。世間はそんなに当たり前に鰻を食している、のか……?
これまでの、ストレートに歩めなかった人生にほぞを噛む。が、無理やり転じて、俺もたまには、鰻を食べてもよい、のか……? なんて気持ちが湧いてきた。
して、鰻欲に支配された俺は財布に1万円が入っていることを確認し、近所の鰻屋へ電話をかけた。運良く当日の席が空いているという。予約の時点で、注文する品を尋ねられ、せっかくならば……と、特上を発注する。
かねて気になっていた「赤垣」。
この佇まい。“老舗”への信頼が厚い俺にとって、たまらない外観である。
予約時間=焼き上がり時間の少し前に店へと入り、5分ほど待つと、赤白チェックのエプロンを身につけたお母さんからお重が運ばれてきた。
お重を開く行為は、いつだって胸が躍るもの。だが、なかでも、鰻の入ったお重を開くというのは、最上の興奮をもたらすといえよう。
バカラでカードを絞るように、じわじわと蓋を開いていく、と……この、てらっと輝く肉厚な身が姿を現した。
眺めた後、カカカッと箸と器がぶつかる音をさせながら、吸い込むように、脂にまみれたフカフカの肉と、やや硬めに炊かれた白米を掻き込んでいく。
鰻と米で食道は渋滞。そこに、日本酒を啜り流し込む。
「んあ〜……」と声にならない声が漏れる。
こりゃあ美味い……。
……とはいえ、鰻を食べる行為は、資源確保という大義にもとる、とまでは思わないが、自分自身が一つの種の絶滅に加担してしまうかもしれねえんじゃねえの? という恐ろしさを少なからず覚える。故に、鰻を食す行為に、どこか後ろめたさを覚えなくもない。
が、それにしたって美味いのは美味い……。俺にとって、鰻はそんな存在である。
やはり、ウナギ生態の研究者である海部健三さんが著書で指摘していたように、現状の異常な漁獲高制限基準ではなく、適切な消費量の上限を設定するのが真っ当なやり口なんじゃねえの、と思う。
貧乏な俺は年に一度ほどしか鰻を食すことがないので、恐らくは適切な消費量内に収まっていると鷹を括っている。故に少なくとも俺は鰻を後ろめたさなく味わえる……。なんていうポジショントークもある発想だ。とはいえ、もしかすると、年に一度だとしても、種の絶滅に加担しているのかもしれない。なんにせよ、そのあたりがクリアになってくれると、消費者としても、より鰻の美味さに向き合えていいじゃねえの。
なんにせよ、俺も、誰も、後ろめたさを感じずに鰻の美味さを味わい続けられるために、現実的なエコサイクルが定められてほしいよな、となる。
近頃、ニホンウナギの完全養殖成功が発表されてもいた。ただし、コストは大きな懸念だという。完全養殖の鰻は美味いのか。今後、コストは低減していくのか。わからない。
仮に自分に子ができたとき、そいつも鰻の美味さにしびれてほしい。そのための基準制定、ないし技術革新が起こればナイス。そんなところ。