快適性の欠如、操作性の悪さから読み解く『RED DEAD REDEMPTION Ⅱ 』
『RED DEAD REDEMPTION Ⅱ』(以下RDR2)は、レッド・デッドシリーズの3作目として、2018年に発売されたロックスター社製作のゲームである。物語の舞台は1899年のアメリカ南部。文明によって居場所を失いつつある無法者が時代の変化に抗いながら、理想郷を求めてあがくサウダージを重厚に描き、ゲームファンから広く高評価を受けているタイトルだ。
惜しくも2018年のGOTYは逃したものの、発売後3日間で7億2500万ドル以上を稼ぎ出し、売上本数はわずか2週間で1700万本超。これらの記録は、映画をはじめとしたあらゆる娯楽商品を含め、世界第2位のものだ(1位は同社が製作した『
Grand Theft Auto V』)。
一方で、本作には発売当初から、多くの非難が寄せられていた。ほとんどはゲームプレイの快適性についてである。Kotakuでは「ペースが遅く、高揚感がなく、プレイヤーのニーズや欲求に応えることにまったく無頓着だ」(Hamilton, 2018)、Metacritic には「退屈なシミュレーションゲーム...恐ろしく反応の悪い操作性とひどく遅いテンポ」(The1MrNate、2018)などのレビューが寄せられた。
こうした反応は海外に限ったものではない。日本でも、発売翌日にはゴゴ通信がユーザーの声をまとめるかたちで以下のようなレビューを公開している。
5chでも発売翌日には「【操作性】RDR2で分かった事はゲームはリアルにすれば良いってもんじゃ無い事【ダルい】」というスレッドが立ってもいた。
鈍重で段階的な操作感を非難する前に
たしかに、RDR2のプレイアブルキャラクター(主人公であるアーサー)の動きは鈍重だ。
倒した敵からアイテムを奪うときには「探る」コマンドを入力し、アーサーに相手のポケットを弄らせなければならない。動物を狩ったときには、「皮を剥ぐ」コマンドを入力しなければアイテムが収集できないし、皮を剥ぐ動作もごくゆっくりとーー短いムービーを経由しながらーー実行される。リボルバーを撃つ際は、射撃のときに二度ボタンを押す必要がある(コッキングの動作を再現しているのだ)。他にも、主な移動手段である馬は、定期的に馬体にブラシをかけてあげなければ能力にデバフがかかるし、ストーリー上の拠点となるキャンプの中で主人公はダッシュもできない……。プレイヤーにとっての快適性という視点からすれば、挙げればキリがないほど段階的なーー人によっては面倒なーー操作が求められ、さらに、アーサーの動きは機敏ではない。
しかし、RDR2の鈍重さや操作性への非難は、RDR2という“ゲームを評価”するうえで的を射た指摘なのだろうか。
そもそも、(Rockstar製のゲームは往々にして操作性が褒められたものでないとはいえ)世界最大のゲームパブリッシャーであるRockstarの開発者はーー推測に過ぎないがーーなぜ予期できたであろう非難を覚悟してまで鈍重な操作感を残してゲームをリリースしたのか。その意図を読み取ろうとしようともせず、操作性の悪さを理由に“瞬発的”に指摘をコメントするのは、あまりにも浅慮だろう。
作り手が何を目指し、そのためにどのような手段を取り、その試みが成功しているのか失敗しているのか。そんな見方でRDR2を読み解いていきたい。
製作者の発言を振り返る
まずは、当時Rockstar Northの共同代表を務め、RDR2では開発の中核を担ったRob Nelsonのインタビューを振り返っていく。
同氏は、ファミ通のインタビューで
と答えており、さらにテクノロジー・ディレクター のPhil Hookerは海外ゲームメディアVG247の取材に対して、
と回答した。
これらの発言からも、本作は「RDR2の世界を(アーサーというキャラクターを通じて)生々しく体験」してもらおうと意図し、そこに製作上のゴールを設定していることは明白だ。
そのためのこだわりはーーRockstarのゲームらしくーー偏執的ともいえる。
偏執的なこだわり
Rockstarの設立者であるDan Houserは、開発中の段階で、脚本を積み重ねると高さ8フィート(約2.4m)ほどテキスト量があると推定したうえで、1人のNPCに与えられた台詞はなんと脚本80ページにも及んでいることを明かした。また、モーションキャプチャーの撮影にかかった期間は2200日。1200人の俳優を起用し、そのうち700人の音声収録を行っている。
人物だけでなく風景の描写も異常だ。明らかにトマス・コールやアルバート・ビアスタットを意識した“アメリカの牧歌的風景”の再現のためには、例えば水の流れを段階的に表現するために“一人のアーティストが”川の流れを専門に作って管理しているほどである。
そして、約200種類が登場する野生動物たちは、地域ごとに生息する動物を種類ごとに手作業で配置したという。群れの形態や時間帯による行動の変化なども自然界の法則に忠実に再現されているーーゲーム内でなかなか見つからない動物を捕獲するために現実世界の動物図鑑をめくった人も少なくないだろうーー。
野生動物のリアリティだけなら昨今のAAAタイトルでは珍しくないことかもしれない。しかし、RDR2での動物の描かれ方はゲーム世界に“生態系”が構築されているといった表現が適切で、例えば双眼鏡を覗いて自然を堪能していると、鳥が蛇を捕らえて飛び去っていったり、動物同士が争ったりするさまをしばしば目にする。よく笑いのネタにされるものとして、馬の睾丸が気温によって収縮するといった細かい描写もある。
そうしたディテールの積み重ねによって、自然で有機的な世界が構築されている。
つまり、作り手の狙いの前提ーーRDR2の世界を生々しく体験させるための世界の構築ーーは完璧と言って差し支えないほど、徹底的に実現されているわけだ。その点を整理したうえで、快適性の欠如、操作性の悪さについての私見を続けていきたい。
完璧に構築された世界で、どのように遊ぶことをRockstarは求めているのか。
「覇権的な遊び」「帝国的なゲーム」への反抗
注目したいのは、チャプター2のメインミッション「傷ついた自尊心に追われ」だ。初めて伝説の動物(ゲームにおけるコレクション要素の一つ)を狩る同ミッションは、アーサーの仲間であるホゼアの案内によって、巨大なクマを目撃した川岸にたどり着くことで始動する。そこでは、まず画面に表示されるガイドに従って、川岸に残された足跡を探し、ゲームシステムの一つである「イーグルアイ(動物や植物の痕跡が表示される)」を起動する。
プレイヤーは痕跡をたどりながら、食いちぎられた魚を発見し、さらに追跡を続け、新鮮な熊の糞を発見する。やがて痕跡が消えていることに気づいたプレイヤーは、岩に隠れながら餌で熊をおびき寄せるようホゼアから指示される。数十秒待つと、エサを確認するよう促され、巨大なクマがそこに現れる……。
本作のメインミッションでもあるこの一連がプレイヤーに提案しているのは、ゆったりとしたプレイングーー生き物の痕跡を見つけ、追い、引き寄せるための餌を用意し、動物と対峙し、狩るーーだ。
ゲーム開始直後に用意された冒頭のチュートリアルミッションでも同様のことが言える。
命からがら雪山の中を逃亡するアーサーたちは、生き延びるために暖の取れそうな小屋を襲撃するのだが、そこで、アーサーはギャングのリーダーから小屋の中を捜索するよう指示され、女性キャラクター・セイディと遭遇する。
通常のゲームプレイであれば、ここでは銃撃にかかる時間よりも、小屋内を探索する時間の方によほど時間がかかる。
ストーリーを駆動するだけであれば、小屋を襲撃し、アニメーションでセイディとの遭遇を描けば良いだけなのにもかかわらず、ーー逼迫した状況であるため、物語の進行上リアリティを阻害するリスクとなるにもかかわらずーー時間をかけた家探しをゲームは提案する。
ゲーム開始直後から、プレイヤーは何度も、鈍重な、ゆったりとした、プレイを求められるのだ。
ここに「覇権的な遊び」(『The Hegemony of Play』Janine Fron, Tracy Fullerton, J. Morie, C. Pearce 2007年)や、「帝国のゲーム」(『Game of empire』 Nick Dyer-Witheford , Greig De Peuter 2009年)に対する批判的態度を読み取ることは決して不自然でない。
「覇権的な遊び」とは、ゲームスタディーズにおける重要な論文の一つで、商業ゲーム制作を定義してきたデザイン・物語・インタラクション・製作システムに潜む支配的な様式について論じられており、そのなかでビデオゲームは、“素早い反射神経の習得や、複雑な空間回転の問題をリアルタイムで解決する能力といった、特定の技能に価値を置く”ことが指摘されている。その議論を引き継いだのが「帝国のゲーム」で、こちらは、スピード、実力主義、テクノロジーに対する男性主義的な支配、そして競争相手(人間であれ非人間であれ)を打ち負かすことを大前提とした“デジタル・ファンタジー”がゲームの前提になっていることを指摘する。
RDR2は、そうしたーー効率的でスピーディな-ーゲームプレイを意図的に妨害する。それにイライラするプレイヤーは、製作陣の意図を介さず、鈍重な動きや操作性を、リアリティを追求したせいだと見当違いに決めつけ非難した。このような反応は、彼らが、これまでの慣習にならった覇権的なゲーム、帝国的なゲームに慣れ親しみ、変化することを避けているーーゲーム内でいつまでも変化を受け入れられなかったダッチのようにーーと言えよう。
また、同作では近年のオープンワールドシステムのAAAタイトルとしてはごく珍しく、装備品や経験値、パークによる“キャラクター強化”が--実質的に--ほとんど機能しないことも指摘しておきたい。物語序盤から乗っている馬と最高性能の馬との間に大きな能力差はなく、アーサーの基礎体力が向上したメリットを実感する経験もほとんどない。
メインストーリーにおいて、報酬によってプレイヤーが動機づけられる局面は一切ないのだ。
Rob NelsonはGamesBeatの取材に以下のようにに答えている。
この発言からも「覇権的なゲーム」「帝国のゲーム」的な仕様を意識的に避けていることは見当違いではないと言えよう。
Rockstarが意図した(かもしれない)もの
前作『Red Dead Redemption』(2010年)でのfade to blackの回避や、『Grand theft auto Ⅴ』(2013年)でのプレイアブルキャラクターのシームレスな切り替えなど、これまでもRockstarはゲームの常識を何度も破壊し、拡張させてきたが、本作においてはゲームスピードの意識的な遅化、そして主人公キャラクターの非成長ーーあろうことかアーサーは物語が進むと、かえって弱体化するーーというかたちで、これまでの常識を破壊している。
そして、こうしたデザインは、ゲームの常識を破壊するためだけの設計ではなく、また別のポジティブな効果を生み出している。
それこそ、ゲームに対する没入感である。理想通りに動かせないアーサーを操るとき、私たちプレイヤーはアーサーと“同期”するのではなく、身体を“投錨”させながら、完璧に構築された世界を体験する。
いまさら指摘することではないが、プレイヤーとキャラクターの身体がシンクロするイコール没入できるというわけではないーースーパーマリオブラザーズをプレイするときに人はその世界に没入するだろうかーー。同期ではなく投錨するからこそ、その世界へ没入できるのである。
プレイヤーは最初、物語の行動を見守る観客として、ギャングやアーサーの苦境に共感するが、さらに進むと、この共感は次第に自分自身への直接の反映となる。プレイヤーの“生世界”とゲームが提示する“生世界”が衝突するにつれて、アーサーはコンピューターが作り出した存在ではなく、一人前の人間になっていくのだ。
これまでの覇権的なゲーム、帝国的なゲームになることを避けながら、RDR2製作陣が目指した「世界を(アーサーというキャラクターを通じて)生々しく体験」するために、快適性の欠如、操作性の悪さは必要不可欠だったのだ。
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ゲーム内に登場するシチューがあまりにも美味しそうだったので自分でも再現した。当時のアメリカで用意できる材料を使って。
わりかし上手く出来ているのではなかろうか。手前味噌ながら美味い。