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天然の個性=才能・養殖の個性=努力

日本は普通と違うこと、普通と違う人を毛嫌いする傾向にあると思う。輪から外れることを恐れるし、躊躇する。だけれど逆に、そこに反抗して人と違う道を行きたがる人たちもいる。

つくりものの天然もの

人と違うことが好きな私は子供の時は「天然」と言われていた。でも言いたい。それは「天然もどき」だよと。私は天然を装っていた。思ったことを何も考えず口にすると天然っぽくなることに気づいた。他と違う人間にあこがれていた私は、天然の養殖に成功した。

そもそもその考え方自体が変わっていたといわれればそれまでだけれど、でも私は、変わっている存在になりたかった。そしてそうゆう人は結構いると思う。自分は個性的だと、へんな音楽や絵を描く「自称個性派アーティスト」。自分は他とは違う、成功するタイプの人間なんだと意識高い系をきどった「自称起業家」。「あの人ちょっと変わってるけどすごいよね」と言われているならいいけれど「なんかあいついろいろやってるけど微妙だよね」と言われる可能性大である。

天然の個性=才能

天然の個性を持っていること、つまりそれは才能というのだと思う。だけれど残念ながら生まれながらに才能があると認識して、またその才能が人に認められる人は少ない。

小学校の時、椅子を作るという授業があった。私は椅子のひじ掛けが恋人つなぎみたいに手が握れるという椅子を考えた。今考えると頭おかしいと思うが、これしかない!と思った。でも先生に却下された。手の構造を作るのが木だと難しかったからかもしれない。その授業で一番褒められたのは、花の形をデザインした女の子だった。たしかにセンスめっちゃあった。でも正直、それは普通じゃないのか?そんなにすごいのか?と思った。

世界が違えは私のアイデアが褒められたかもしれない。私でも彼女でもないほかのだれかが優勝だったかもしれない。でも才能を見出されたのは彼女だった。

それからも私は才能がないことについてだいぶ悩まされたし、自分にはなにも人に勝てるものがない、個性がないと、自分探しを続けていたけれど、ある日気づいた。才能なんてみる人次第だし、才能は努力でカバーできる、と。

才能を養殖する=努力

才能がない人間が、なにかを成し遂げようとするとき、努力なくして成功はないと私は思う。才能がある人間が努力をしてないわけではもちろんないけれど、でも才能はシード権みたいなもので、楽に次のステップに進めるチケットになると思う。スタートが0なのと、スタートしたらいきなり100m先くらいにいるのではだいぶ違う。けれど残念ながら、たいていの人は0地点からよーいドンしないといけない。

私がこれまでにみつけた才能は、努力する才能だと思う。ややこしいけれど、私は、努力する才能を、努力して獲得した。0地点から必死になって走り抜けた。才能がある人間の技を盗み、人として尊敬できない人は反面教師として学ばせてもらった。

その才能は個性となって、私の周りの環境を変えていく。その才能を見出してくれた人が私を信用して仕事をくれる。友達も増える。努力して得たその才能が次の才能をひらかせる道を作っていく。

そして今、私は結構個性のある生き方をしていると思う。自分で選び自分で築き上げた「養殖の個性」。個性をひけらかしているわけでも、ただなんとなく変わった人間を演じてるわけでもない、まぎれもない自分自身の努力の上にできた個性。

才能や個性がないと悩む人たちは、自分が見ている世界をまず変えてみたらいいと思う。自分はどこで何をしたら才能を見出せるのか。そしてなりたい自分に向って努力してみてほしいと思う。シード権はないけれど、予選大会を何度も進む中でシードを持つ人には得ることのできない経験ができるはず。






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