そのままの私を、世界へ、自然へゆだねる。不安を怖れることのない世界。【安心へと戻る道②】
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「親にしてもらってないことは
こどもにはできない」と聞いたことがある。
でも、私はなぜかできる。
親から安心をもらうことのできなかった私は
なぜかこどもの安心を育てることは得意だ。
それはひとえに
これまでの経験と学びの成果だと思う。
保育士としてたくさんのこどもに接して
こどもが何を必要としてるのかを肌で感じて
その肌で感じてきたものが何であるのか
どういうしくみになっているのか
ずっと学んできた。
それで分かったことのすべてを
我が子に注いできた。
実際にやってみて、身につけてきた。
私は今まで出会った
たくさんのこどもたちに教えてもらい
我が子に確信をもらった。
私はできる。私ならできる。
今の私になら、私に安心を伝えることができる。
やっと準備が整った。
そんな今だから、出てきたのだ。
私はやり方を知っている。
身を焼くような不安の中にいるこどもに
安心を伝えること。
身体を使って、伝えること。
いつもハルにするように
私にすればいいだけだ。
好きなだけ叫び、泣かせてあげる。
この時は止めたり、言い聞かせたりしない。
思う存分、その気持ちを出させてあげる。
時間が経つと、勢いが落ちてくる。
そして「ふぅ」とため息をついたときが
モードが変わったサイン。
安心を知らせていくタイミング。
時間をかけて、身体をとおして、伝えていく。
言葉はいらない。
ただただ、私の安心を伝えていく。
知らぬ間に私は眠っていて
「安心へと戻る道」ができたのか
それが完了したのかは分からないまま
朝になった。
それは夜中の出来事だったので
若干寝不足気味の身体。
なんだかぼーっとしたまま朝をすごして。
こどもを保育園に送って
帰り道を歩いている時に気がついた。
光ってる。外の世界が、光ってる。
今日は天気がいいからかもしれない。
だけど
木の向こうから光が差し込み
こもれびが光る。
小川の水が流れて水面が光る。
風が吹いて
木の葉や草が揺れる音が光る。
何もかもが、やわらかく光ってる。
そして私の身体も
寝不足ならば重いはずだけど
今はなんだかそれとは違い
やわらかくなっていることに気付く。
それは「力が入らない」と言いたいんだけど
きっと「力が入っていない」のだと思う。
きっとこれが「本来の状態」なのだろう。
凍らせていたものが溶け、身体も溶け
そしてもう凍るのを恐れて
身を固くする必要がなくなったから。
今までならこの状態を
「弱い」と表現したかもしれない。
弱いから、危ないから
表面を固めないと、と。
そのまま外に出るなんて、なんて危ない、と。
でも今ならわかる。
これは「弱い」ではない。
きっとこれが「ゆだねている」という感覚だ。
私は初めて
外の世界で、そのままの私を
世界に、自然にゆだねている。
何も怖いことなんて、ない。
なんてここちのいい感覚なんだろう。
自然に溶け合うような、空気に溶け合うような。
これが「本当の安心」というものなのか。
不安になっても安心へと戻る道があるから
大丈夫だと思える安心。
不安を怖れる必要のない安心。
不安に対してさえ、安心でいられるということ。
自然に身をまかせながら
ここちよく歩いていた。
いつものベンチが見えたから
座って時計を見ると
30分しか経っていない。
もう長いこと歩いていたと思ったのに。
ふと視線の先に
アカツメクサが揺れていた。
この夏、草花とは少し距離があった。
それは私が、海や水にコミットしていたから。
でも、なんだか草花の世界に戻ってきた気がした。
「母なる海」という言葉がある。
私はもしかしたら
「母との関係」に取り組み
母なる海の安心へと戻ることで
海の学びを完了したのかもしれない。
それは海が終わったわけではなく。
留学して、帰国したみたいに
世界が広がった感じ。
私の中には、海の世界も残ってる。
一度体験したら
なかったことにはならないのだ。
何事も。何事もね。
ないように思えても、身体の中には残ってる。
こうやってこどもは少しずつ
外の世界を体験して「大丈夫」を確認しながら
世界を広げていくのだ。
朝と同じ道を夫と歩いて
おひるごはんを食べに行った。
チーズバーガーを食べて
ポテトと紅茶ははんぶんこ。
はぁ、おなかいっぱい。
食べても食べてもおなかがいっぱいにならない
あの「なんだかおかしい」は
すっかり消えていた。
たった一日で、世界が変わった。
何十年分の世界が。
私はもう、安心の世界に住んでいる。