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中国古代のBLカップル「哀帝と董賢」

(※絵は董賢の絵です。)

序章 哀帝と董賢

秦の滅亡後、紀元前206年から紀元後8年まで、中国は前漢の時代だった。

この前漢の時代には、14人(15人とも)の皇帝がいた。

その皇帝の中で、紀元前7年から紀元前1年の間、在位した哀帝という皇帝がいた。

彼は、19歳で即位し、女色を好まず、法律を好んだ第13代の皇帝である。

そんな哀帝から寵愛を受けた董賢は、紀元前23年から紀元前1年の間を生きた前漢の官人であった。

この哀帝と董賢は男色の関係にあり、哀帝が25歳の若さでなくなるまで、恋人として共に殿中で過ごした。

第一章 哀帝と董賢の出会いと寵愛

彼はかなりの美貌で、紀元前5年のある日に哀帝と謁見した。
ここから、彼らの恋が始まった。

その日、その時、董賢は哀帝に現在の時刻を伝えにいっていた。
そんな董賢を見た哀帝は董賢の美貌に目を奪われ、殿上に招いて、語り合い、黄門侍郎(こうもんじろう、皇帝の側近で勅命を官人に伝える役職、黄門は宮中の門のことで秦・漢の時代に黄色に塗られていたからそう呼ばれる。)に抜擢した。
董賢は最終的に軍事を統括する大司馬の衛将軍という高い位についた。

哀帝の寵愛は董賢だけでなく、董一族にまで及んだ。
董賢の父、董恭は昇進し、妹は皇后に次ぐ地位である昭儀になり、妻に関しても、董賢が自宅に帰るのを嫌がり、自分の手元に常に置いておくために、董賢の妻を殿中に入れるようにし、董賢の宿舎に泊まれるようにした。
こうして、哀帝は殿中に出入りできるようになった妹、妻と共に董賢を自分の周りに侍らせた。

そんな中で大豪邸も含め様々なものを哀帝から賜っていた董賢は毎日のように激しい夜の寵愛も受けていた。
それは大層、激しかったようで、性行為が終わると、董賢は哀帝の腕の中で眠りについた。
しかし、哀帝は皇帝なので、朝になったら公務にでなければならない。
けれど、愛しい董賢はまだ、自身の腕で眠っている。
そんな董賢を起こすわけにはいかない。
ということで、彼は、自身の服からするりと抜けて、寵臣である董賢が頭を預けている自身の服の袖を切り落とし、片方の袖を失った服をそのまま着て、公務を行った。

この哀帝と董賢の愛の逸話から今でも中国では、男色を表す時に、「断袖」(だんしゅう)という言葉を使うことがある。

このように後に爵位も土地も渡されて寵愛されていた董賢と哀帝との恋物語は悲劇的な終わりを迎える。

第二章 哀帝の死と董賢の死

哀帝の董賢への愛は凄まじかった。

しかし、このように一人のものを特別に寵愛していると、周りのものから不満の声が上がる。

董賢への爵位(列候)を与えるために他のものの手柄を董賢が行ったことにしたり、皇太后の死にあたって、土地を与えたりということをしていた哀帝に一人の臣下(王嘉)がこのことを諫めた。

それに対して激怒した哀帝はこの王嘉を罰し、最終的に王嘉は亡くなってしまった。
王嘉以外にも董賢の昇進を拒むものは投獄されたり、死罪にされたりしたようである。

また、不満に思っていたのは彼だけでなく、大司馬の票騎将軍であった丁明は董賢のことをよく思っていなかったようで、王嘉の死をあわれんでいたという。

このように不満に思うものもおり、哀帝の権力は盤石ではなかった。

そんななか、哀帝が若くしてなくなる少し前、哀帝は大司馬の衛将軍となっていた董賢に宴会の席で皇帝の座を譲ろうと思うと言っていた。
この時、王閎という皇帝のそばに使えていたものがそのことを諫めた。

この数ヶ月後、哀帝は25歳という若さで亡くなり、董賢は皇帝の座を譲ってもらうどころか、哀帝という最大の後ろ盾を失ってしまう。

哀帝には、皇位を継ぐ子がいなかったため、董賢に皇帝璽綬(皇帝の証のようなもの)を預ける。

しかし、哀帝が後継を指名していなかったことで前漢の王朝は皇帝を欠くこととなり、宮廷の中の人々も外の人々も不安になり、恐慌が発生した。

この時、先の王閎が哀帝の祖母である王政君に董賢から皇帝璽綬を奪うことを願って、その許しが出た後、董賢から奪い取り、王政君のもとに持ち帰った。

その後、董賢は王政君のもとに呼ばれたが、冠を脱いで謝罪をするのみであった。
哀帝の葬儀についての話をしていたようである。

哀帝の葬儀を行う時、大司馬である董賢の補佐として王政君は王莽を命じた。

葬儀が終わり、董賢への糾弾が始まった。

先の王莽は王政君の意向にしたがって、董賢が哀帝が病気の時に医薬を進めなかったことを弾劾し、董賢の宮殿などの出入りを禁じた。

その後、董賢は宮廷の門の前で冠を脱いで、裸足になって謝ったが、王莽は大司馬の地位を解くという王政君の詔を董賢に伝えさせた。

そのことを知った日、董賢は妻とともに自殺し、葬儀後、王莽は自殺の偽装を疑い使者を使わせて、棺の中身を暴いて、監獄でその死体を観させようとした。

また、王莽は董賢への批判を上奏し、董賢の父や弟などの董一家は流刑に処され、母は実家へ戻った。

その後、検査された死体は監獄内に埋められ、のちに董賢が厚遇していた役人の沛の朱詡は、董賢の死体を衣と棺で葬ったところ、王莽によって遣わされたものにより撲殺された。

哀帝によって作られた董賢の盛大な墓はいよいよ、使われなかったのだろう。

このようにして、哀帝と董賢の悲劇のBL物語は終わった。

個人的に董賢が哀帝の袖で寝ているところを想像して萌えていた。

以上です。

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