思い込みを疑うと、しなやかさに近づける気がする。
わたしたちは、社会生活を送るために、それぞれにさまざまな「常識」を心の中に作って、頑張って生き延びてきました。
思い込みや常識は正しいか?
幼い頃は、保護者から受け継いだ常識を。
思春期には、周りから取り残されないよう、仲間外れにされないような常識を、社会人ともなれば、組織や世間の空気を読みながら、上手くやるための常識を、あたかも自分軸かのように思い込んで生きてきました。
そして、それらの常識の枠を超えることを、いつしか忘れてしまいました。
でも、
実はそれらの常識は、どこでも罷り通るものじゃない上に、自分のオリジナルでもない、ただの思い込みであることも少なくなく、
ある日「おや?」と思ったりします。
そこで、それまでの常識に嫌疑をかけられるかどうかに、わたしたちのしなやかさはかかっているように思うのです。
ランニングで目から鱗が落ちる経験をしました
わたしは、ランニングを趣味というかライフワークにしています。
走り始めたのは40代前半。
体育の授業でしか身体を動かしてこなかったし、信号が変わりそうでも走りたくなかったわたしが、長距離走に持っていたイメージは「辛い」。
そして、自分には向いていない競技だと思っていました。
(なのに、何故走ることになったのかは、また別の記事で)
案の定、フルマラソン完走を目標に掲げながら、何年も完走できませんでした。
わたしより後からランニングを始めた仲間が、次々と完走を達成していく姿を、羨ましい気持ちと、諦めの境地で見つめたものでした。
その頃、わたしの中には
「身体を鍛えたことがないわたしには、走る素地がない。その証拠に走ると必ず足が痛くなる。痛いから完走はできない。」
ついでに、
「完走できる人は、走っても痛くならない」
という思い込みがありました。
そして、「完走プログラム」を主催していたアスリートコーチに、
「みんなどうして痛くならないの?なんであたしは痛くなっちゃうんだろう。」
と愚痴をこぼしました。
するとコーチは、
『みんな痛いよ!僕も痛いよ!』
と言ったのです。
『長い距離走れば、どこかしら痛くなる。だからみんな、痛くても走り続ける練習をするんだよ』
もう衝撃でした。
肉離れや捻挫とは違う、走り続けることによる痛みは、多くの人が感じてるというのです。
にんげんだもの。
と言うのです。
わたしの中で、ひとつの思い込みが破壊され、新しい常識ができました。
「痛くても走り続けられる」
それからわたしは、痛みが出ても走り続けられるようになり、ランニングを始めてから7年経って、ようやく完走を達成したんです。
違うことを受け取れるかどうか
「しなやかさ」には、受け取る力が不可欠のように思います。
そして、それは、それまでの自分の価値観や思い込みを手放したり上書きする力とも言えるでしょう。
つまり、自分の思い込みを健全に疑うことができると、しなやかさを手に入れやすいような気がします。
常識は、自分が作り上げた思い込みです。
人の数だけ常識があります。
だから、自分の思い込みなどただの一例として、違う考え方も積極的に採用できる自分でいたいと思っています。
余談ですが。
実際、完走できた時のわたしは、やはり35キロ過ぎから足が痛くてたまりませんでした。
それでも走り続けられたのは、
「みんなも痛い」
と知ったからです。
39キロを過ぎた時
「わたし、完走するんだ」
と思った時の感動は忘れられません。
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