見出し画像

vol.3 矛盾だらけな気持ちに翻弄される私たち〜やさしさを育むために必要な「4つのちから」~

本題に入る前に、執筆の意図や方向性、コンセプト記事をご覧くださいますと、より内容をお楽しみいただけるかと思います。

※以前に当記事の内容をご覧くださった方々へ
こちらのシリーズは、以前にアップしていた「やさしさを育むために必要な 4つのちから」とほぼ同じ内容ですが、読みやすさを考慮して分割したものになります。最終的にまとめ編として、以前の記事をそのまま再投稿する予定です。


前回までのまとめ

第1回 人の心を助けるやさしさとは?
第2回 自分にやさしくすると、他者にやさしくなれないのはなぜ?

私なりに考えるやさしさの本質は「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」と言う名の、時に自分よりも他者を優先する「思いやり」なのですが、これを行うには、生まれながらに備わっている「自分を守ってやりたい本能」と対峙することが必要であるとお伝えしました。

もちろん、本能と言うからには、それ自体は各々になくてはならないものであって、すべてを弊害として扱うのはナンセンスだと思います。現実的に自分を守らねばならない事情があるのは確かであるし、大切なことだからです。

この「暴れ馬のような本能」をどのように乗りこなし、建設的に活かせばいいのかを考えた結果、やさしさを発揮するために必要な4つのちからである「忍耐力・想像力・洞察力・包容力」を、地道に育むことが必要であると思いました。

今回は、4つのちからの土台となる「忍耐力」について焦点を当て、深掘りしていきたいと思います。

よくある「崇高なアドバイス」の捉え方

まずは、大切なポイントを整理しましょう。

忍耐力は「ぐっとこらえて想像するための空間を作り出す」ために。
想像力は「あらゆる可能性を探索して出来事や感情を立体的に捉える」ために。
洞察力は「たくさんの仮説を検証して客観性のある真実を見つける」ために。
包容力は「磨かれた経験を自他とものためにやさしく使う」ために。

このように、やさしさを育むためには段階を踏むことが必要で、まずは「ぐっとこらえること」からスタートします。

ここで、第1回目の記事でお話した一例を振り返ります。
(「自己犠牲はよくないよ」と訴えかけている方々がおっしゃっていることを、私の独断で解釈したものですので、これが全てではないですし本当のところはわかりかねますが、何卒ご容赦ください)

・人の気持ちなんて考えてもわからないのだから、自分がどうしたいかだけでいい
・面倒な人や困った人のことなんて放っておけばいいし、離れるべき
・思ったことを言えないのは良くない、自己主張できるほうが素晴らしい

これらは大まかにですが、次のような解釈ができるように思います。

「わからないからわからないでいい」
「面倒くさいから放っておく」
「正直な気持ちを正直に表現したい」

つまり、自分から湧いてきた気持ちをそのまま採用しているように見えます。初めの感情から終わりの言動までの流れが、スムーズな状態とも言えそうです。

確かに、自分の気持ちを大切にすることは心の健康を保つことに必要です。なぜなら、ここで無理をして「いい人でいなければならない」と、湧いてきた自然な感情に蓋をするのはしんどいことだからです。

・わからないものをわかろうとするのは大変だと感じても大丈夫
・面倒くさいものを面倒だと感じても大丈夫
・正直な気持ちを表現したくなっても大丈夫

このように、ひとまず「気持ち」の面では、これでいいのではないでしょうか。

仮に「こんなことを思っちゃダメだ」と、どこかから声が聞こえてきたとしても、勝手に湧いてくるものを源泉から止めることはできません。

イヤだな…と思っているのに、大変だな…と思っているのに、そんなことを思っちゃいけなくて、むしろ「ありがとう!」と感謝しながら、他者とわかり合うために尽力することを求められるのだとしたら…私なら、すなおに聞く耳を持てません。

「そうできたら、そうしてるよ!」と、苦しまぎれに言いたくなってしまいます。私たちは時に理不尽な感情を抱える人間だから、神聖なアドバイスを「いきなり」実行に移すのは難しいのではないでしょうか。
(あくまでも個人的な感覚に過ぎず、人様の信じているものを否定する意図はありません)

それなのに私は「他者とわかり合うこと」を、こんなにも勧めています。矛盾だらけだと感じられるかもしれませんが、いいのです。なぜならこれが、人間がありのままの状態で抱えている「複雑さ」ではないでしょうか。葛藤を感じるのは自然なことなのです。

つまり、忍耐力とは「モヤモヤしたものをすぐに排除せず、どうにか抱えるちから」と言えそうです。これは「複雑さをあるがまま受け容れるちから」とも表現できます。

まさに、「ここ」の部分を扱わずして、忍耐力は語れません。

「こうすべきなのにこう思えない」とか、「やさしくなりたいのにイライラする」とか、「わかっちゃいるけどやめられない」とか…様々な複雑さがあるのではないでしょうか。

「抱えたいのに抱えられない」という、もどかしさを感じることも当然ありますし、たとえ抱える準備ができたとしても、複雑なものを複雑なままにしていると混乱してしまいそうです。

だから、なるべく抱えやすくするために、複雑なものをスッキリ整理整頓するといいのではないでしょうか。ぜひ、あちこちに散らばっているものを指定場所に収納するイメージで、この先をお読みください。

「自分の気持ちにすなお」は、好き勝手に振舞うことの免罪符になり得る

やさしさを育てるためには「ぐっとこらえること」からスタートしますが、これは「自然に湧き出る感情そのもの」をぐっとこらえるのではないということでした。では一体、何をぐっとこらえるのでしょうか。

端的に言うと、感情の先にある「言動をぐっとこらえることが必要」ということなのです。今さら、改まってお話しすることではないのかもしれませんが、とても大切なことです。
(自己否定などの「考え」にも該当するお話ですが、話題が散らばってしまうため別の機会に執筆予定です)

つまり、「自分の気持ちにすなおになっても大丈夫」ということと、「すなおな気持ちのまま現実にアウトプットしても大丈夫」とは、似て非なるものということを知っておかねばなりません。

揉めごとを含むあらゆる問題は、思ったことをそのまま、状況や相手、タイミングなどを考えずに行動に移すところから始まるのではないでしょうか。気に入らないからといって無視したり放置したり、感じの悪い言い方をするなどして不快な感情が増幅した結果、トラブルに発展するように思います。

モヤモヤをそのまま表に出すことで悲しい想いをする人が現れてしまうし、喧嘩ばかりしていなければなりません。これでは、「ホッとする安心感」から遠ざかってしまいます。
(「良かれと思って」言ったりやったりすることも、場合によっては他者にモヤモヤさせることはあるのですが、今回の話から逸れてしまうため別の機会に詳細を執筆予定です)

もちろん、結果的にわからないまま面倒で放ってしまうことはあるし、言いたいことを率直に伝えるシーンもあると思います。どんな時でも、意地でも「忍耐しよう!」と言うつもりはありません。これは、まったく現実的ではないからです。

どんなものでも、使いどころが大切ではないでしょうか。だから、すべてをここで語るのは難しいのです。あくまでも「やさしさを育むために必要なこと」という視点でお受け取りください。

忍耐力と想像力をつなぐもの

今回は、忍耐力がもたらすものについて考えていきました。
なかには「しんどいな…」と思うものもあるし、「やっぱり必要だよね」と改めて感じるような部分もあったかと思います。

「なぜそれが必要なのか?」という精神論寄りのお話が多かったため、まだまだ綺麗ごとの域を出ていないように思われるかたがいても無理はありません。「それができたら苦労してないよ」と、私が読者でもそのように感じます。

そのため、綺麗ごとを抜きにして、どのようにすれば具体的に「忍耐力が育まれていくのか?」について、方法論をもとに解決策を見つけたいのですが、これを語るには「想像力」が欠かせないと思っています。

次回は、このふたつのちからについて深めていきますので、引き続きお付き合いくださるとうれしいです。


いいなと思ったら応援しよう!