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便利なものに振り回されない「人間力」とは~コミュニケーションで共生を目指す~

このカテゴリでは、ちょっぴりマジメに「社会の動向を捉える」ことによって、目の前のあれこれと「どう向き合うか?」を考えていきたいと思います。

ひとことで「社会」といってもテーマの範囲が広いため、あらゆる方向性のお話ができるかと思いますが、なかには「さわるとちょっと痛いもの」が含まれる可能性があります。

私の執筆の意図を鑑みても、「生きやすい人を増やすため」にスポットを当てているため、反対側にある「社会問題の種」にふれることもあるからです。

はじめにお伝えしたいこととして、カテゴリ問わず、こういった内容にふれるのは「今ある現状を受けとめ、地に足つけて、コツコツとやさしさを育むために」という建設的な目的があります。

とは言え、せっかく見に来てくださったかたにしんどい想いをさせることは本意ではありません。できる限り安全性が保たれるように配慮しますが、そもそもこういった話題が苦手なかたや、「しんどいな…」と思われるかたはエスケープして、読みやすそうなものをお選びいただけたらと思います。

例えるなら、「風邪のときは、焼肉よりもうどんを食べるほうが消化にいいよね」という考えに似ている気がします。これをもとに「よりリアルで味の濃い内容」を扱うことを「焼肉コース」と名付けて、事前にアナウンスしたいと思います。ご自身の体調に合わせて楽しむための、参考にしてください。

・胃腸にやさしい「うどんコース」
・スタミナたっぷり「焼肉コース」

※「うどん」とは言え、そもそも扱うテーマが濃いめなので「肉うどん」くらいのボリュームと解釈していただくといいかもしれません

また、お話する内容は「私個人の思想や考え」なので、真の正解となるものを語るわけではありません。数値化された、現実的なデータもありません。こういったフワフワしているものが苦手なかたも、あらかじめご注意くださいね。

執筆の意図や免責事項を記載しておりますので、まずはこちらをご覧ください。

私が「社会の動向」を捉えようとすることになったのは、「なぜ、人は悩むのだろう」と考えはじめたことがきっかけです。それが「社会課題」というテーマであらゆる可能性を探ることに発展し、問題が生まれる要因について考えを巡らせることとなりました。

ひとことで社会課題と言っても、あらゆるテーマや物の見方ができますが、今回は、星の数ほどある話題のなかから「便利なものと人間のちからの関係性」について、深めていきたいと思います。


何のための、誰のための「便利なもの」なのか?

突然ですが、私は生粋のアナログ人間です。デジタルのことはまったく詳しくありません。そのため「便利なもの」を語る際、表現に違和感がにじみ出てしまうかもしれませんが、執筆の意図を想像しながら言いたいことを汲み取ってくださるとうれしいです。

前置きが長くなりましたが、さっそく本題に入ります。


「便利で、早く、正確に」

現代の社会において、あらゆるシーンで「合理性」が尊重されることが多いように感じています。もちろん、目的次第ではそうとも言い切れないことはありますが、全体的な傾向として、「便利で早く正確に」を求められることが増えているのではないでしょうか。

「不便で、時間がかかって、失敗する」

逆に、このような「都合が悪いもの」は敬遠される傾向があるように思います。「不便で時間がかかって失敗する」ことに遭遇すると、モヤモヤしたり、イライラすることもあるのではないでしょうか。

まずはじめに、これらについて語るうえで端的に説明するために、情報をシンプルにしたいと思います。

便利で早く、正確なものは「AI」として。不便で時間がかかり、失敗するものは「人間」として、この先をお話します。もちろんAIにも失敗はあるし、人間だからこその正確性があると思いますが、執筆の意図を明確にしたうえで、これらの表現をあくまでも「対比」を目的として使用することをご理解ください。
(「不便で時間がかかり、失敗する人間」とだけ先に言うと、いろいろと誤解を生みそうですが、この先で「ホッとできる真相」が解明されますので、それまでお付き合いいただけると幸いです)

話を戻すと、つまり現代の人間社会においては、「AI」のような合理性があらゆるものの基準になっていて、そこに「人間」が必死に順応しているような図式が思い浮かぶのです。社会課題について考えていると、どうしてもここに引っかかりを感じました。

「何のための、誰のための、合理性なのだろうか」と。

何のための、誰のための…について考えるにあたり、そもそも、どうして「AI」という素晴らしい技術が生まれたのだろうと考えました。

あくまでも推測に過ぎませんが、おそらく、ヒトという生物が自分たちの「頭脳」を活用して、自分たちの不完全さを補うために「便利なもの」をたくさん創り出すことに成功したのではないかと思っています。

この想像が仮にその通りなのだとしたら、そもそもは、人間が「ちょっと助けてほしい」と思ったことをきっかけに、どんどん技術が進化して、今や素晴らしいシステムとして当たり前のように生活の一部になっていると言えそうです。

では、こんなに素晴らしい「AI」なのに、なぜ「何のための、誰のための、合理性なのだろうか」と思ってしまうのかというと、タイトルのとおり「便利なものに振り回されている人間の姿」が、あらゆるところで見せつけられているように感じるからです。

例えば次のようなものを見聞きしたり、実際にこのようなシーンに遭遇したとき、「もしかするとこれって、振り回されているのでは?」と思うのです。

・どうして不便な想いをしなくちゃならないの!と怒る
・どうしてこんなに待たなきゃいけないの!と焦れる
・どうしてうまくできないの!と否定する

これだけを見ると、「どうして、これが便利なものの影響を受けてるの?」と疑問に思われるかたがいるかもしれません。ただ、不便なことに困っていたり、待つことが苦手だったり、うまくできなくてもどかしい想いをしているだけでは?と。

この疑問を解消するためにも、「私たちは一体、何に振り回されているのか?」を探ることにいたしましょう。

あくまでも推測に過ぎませんが、まずは、振り回される対象である「理不尽な感情」が、どのようにして生まれるのか?を見ていきます。

そもそも「できない」とか「難しい」と思っていることに対しては、「うまくやれなくても仕方ないよね」と、比較的落ち着いて受けとめられる気がします。いくら、「鳥のように空を飛びたい」と願っても、私たち人間には翼がないので、大空を自由にはばたくのは難しいです。これに対して「くやしい…どうしてできないのよ!」と怒ったり、「どうして飛べないの…」と悩むことは少ないのではないでしょうか。

そのため、もどかしさを感じるのは「それができる前提であるから」という仮説が立てられるように思います。つまり、「できるはずなのに!」と感じるから、イライラすると考えられます。期待値が高い状態であるとも言えそうですね。

では、なぜこんなにも「できるはずのものなのにできないストレス」に晒されることになったのでしょうか。「なぜなぜ?」と突き詰めていくと、「便利なものが当たり前のように存在している」という環境的な要因が、ひとつの大きな理由になっているのではないか?という考えに至りました。

これが、私が思うところの「イライラやモヤモヤと、便利なものの関係性」です。(もちろんこれが全てだとは思っていませんし、AI技術は大変ありがたいものだと思っています※後に詳細を説明していますので、ひとまず穏便に受け取ってくださるとうれしいです)

当然、あらゆる感情は自然と湧き出てくるため、源泉から止めることは難しいのですが、怒ったりイライラしたり、否定するのは心に痛みを感じるものです。また、非生産的な感情に振り回されてしまう機会が多いと、どうしても疲弊してしまいますよね。だから、しんどいことをなるべく楽にするためにも、まずは地に足つけて、現実を見ていくことが大切だと思っています。

こういった感情の「扱い方や受けとめ方」については、こちらもご参考にしてください。


ここまでのお話を整理すると、つまり、「便利なものによって生産性をあげようとしたはずが、(おそらく合理性を求めすぎた結果)非生産的な感情にしんどい想いをしている」という矛盾があるように思えてくるということです。果たしてこれは、本当に「便利な」状況と言えるのだろうか?と、考えていた次第です。

ヒトとして生きるうえで、本当に合理性「さえ」あれば、それで幸せなのだろうか?と考えずにはいられません。

主人公は「AI」か「人間」か、果たしてどちらなのだろうと。しんどい想いをするために生み出された技術ではないはずなのに、一体何のために、便利なものが必要だったのだろうと思ってしまうのです。

では、この「便利なもの」に対して「振り回されないための策を練ろう!」と思い立ったとします。

仮に「マンモスを追いかける原始時代」にタイムスリップできるのであれば、「便利さ」によって悩むこともなくなるのでは?と考えるかたがいるかもしれません。私も考えてみました。しかしこれは、やはり現実的ではないですし、建設的ではないと思います。

個人的には、「せっかく発展を遂げてきたものをなかったことにする」という考えそのものが、ナンセンスだと感じます。また、ここまでは「便利なものとモヤモヤしたものの関係性について」を中心にお話してきましたが、もちろん「便利なものとステキなものが結びついている」ことだって、たくさんあるはずです。便利な仕組みがあることによって、たくさんの恩恵を得ることができていますよね。

「AI」を創り出してくださった方々のおかげで得られるものは計り知れず、また、アナログの世界で生きる私には到底手出しできないことがたくさんあり、尊敬の念を抱かずにはいられません。(正直なところ、各々の家庭からテレビが見られることが未だに不思議に感じるほどです)

具体的な「たくさんのギフト」について、あげだしたらキリがありませんが、実際にこうやって自分の思想や考えを発信できているのも、便利なシステムを与えてくださっているからと言えるでしょう。私事ですが、ただでさえ新しく一歩踏み出すことに躊躇いがちな性分なのに、あれこれ手順を踏まねばならなかったら…これをお届けするまでにもっともっと時間が必要だったかもしれません。「簡単にできる」ことは大変ありがたいことだと思っています。

だからこそ、「AI」と「人間」のいずれか一方が尊重されるのではなく、それぞれの特長や役割を適切に理解したうえで「便利なシステムと、時に不都合な感情を抱える人間が、適切に共存する」という姿勢が必要ではないでしょうか。

具体的には、ヒトが主体的に便利なものの手綱を握ることができると、両者の良いところを活かし合えるように思います。自分たちの生活を潤すために「AI」をつくり出したのは「人間」なのですから、そのほうがいいのではないでしょうか。

ここでの「共存」について要点をまとめると、次のようになります。

「便利なことが当たり前という前提によって、不便な状況に過剰なストレスを感じてしまう人間の不完全さを受けとめたうえで、便利なものを使わせてもらうこと」

では一体、どのようにすれば共存を目指せるのでしょうか。
ご一緒に考えていきたいと思います。

「成果を出す」ことと「やさしくあること」の共存

ここで、少し前の例を振りかえります。

(こんなに便利な世の中で)どうして不便な想いをしなくちゃならないの!と怒る
(なんでも早くできるはずなのに)どうしてこんなに待たなきゃいけないの!と焦れる
(せっかく素晴らしい技術や情報を得たのに)どうしてうまくやれないの!と否定する

これらについて、「できる前提のものができないために、憤りを感じてしまうのではないか?」という、ひとつの仮説を立てましたね。便利なものを建設的に使わせていただくためにも、ひとまず、この部分について深めていきたいと思います。

他人事のように言っていますが、もちろん私自身も人様のことは言えません。便利なものに振り回される瞬間はたくさんあります。仮に、頭では「理不尽な感情に囚われる仕組み」を理解できた気になっていても、気持ちが追いつかないことはあるのではないでしょうか。

「人間は矛盾を抱えてしまうけれど、それは自然なことである」と、以前の記事でもお伝えしました。よろしければ、こちらもご覧くださいね。

このような「理不尽とも言える不満感」を抱くのは様々な理由が考えられますが、そのひとつとして、ヒトが便利なものに寄りかかりすぎて「全能感に浸ってしまっている状態」と、言い表すことができそうです。

つまり、「AI」が「便利で早く正確に」できることを、まるで「自分たちも同じようにできるはずだ」と思い込んでしまっているのではないか?ということです。

先ほどは、「大空をはばたく鳥」の例をあげましたが、他にも、「大草原を猛スピードで駆け抜けるチーターのように、運動会のかけっこ競争で颯爽と走れるようになりたい」と願うことがあるかもしれません。しかし、人間とチーターのからだは、そもそもの構造が違うという現実があります。これは、誰の目から見ても明らかではないでしょうか。

同じように考えると、「AI」の仕事を「人間」が必要以上にやろうとしたり、仮に心のどこかで「同じようにできるはずだ」と思っているのならば、その前提を見直す必要性を感じます。

そもそも「ヒトは失敗しながらもゆっくりと成長変化していく生き物」なのですから、「面倒な部分を省略してちゃっちゃとできる前提」にしてしまうのは、さすがに荒々しすぎるのではないでしょうか。

「ゆっくりじっくり成長変化しながら、あらゆる感情を味わい、少しずつの成長をよろこぶ幸せ」を見失っていないだろうかと、思わずにはいられません。この「人間だからこそ感じられるすばらしい感覚」をないものとするのは、まるで「人間のちからなんて大したことない」と言われているようで、悲しい気持ちになってしまいます。

鳥が大空を飛べるように、チーターが大草原をダッシュできるように。
人間には人間のすばらしさがあるはずです。

また、同じ人間であっても、一部のジャンルで「天才」と呼ばれるほどの才能を持つかたがいらっしゃいます。なんでもできる人のように見えるからこそ、「私とは別の生き物に見える…」と思うかもしれませんが、こういったかたも、いきなり天才と呼ばれるようになったわけではないはずです。

持ち合わせた才能を発見するまでには苦労があったかもしれないし、能力を生かすための方法をたくさん模索してきた期間があると思います。そして今も、「見えていないだけで、見せていないだけで」技術を磨くための努力をコツコツと行っているのではないでしょうか。

「自信に満ちたキラキラ笑顔」で多くの人を魅了しているあの人も、今に至るまでに「ゆっくりじっくり、成長変化しながらあらゆる感情を味わい、少しずつの成長をよろこぶ」という、人間らしい過程があったと想像します。

冷静になれば、「それは、当たり前だよね」と思えるかもしれません。赤ちゃんがいきなり大人にならないことや、擦りむいた傷がいきなり完治しないのと似ている気がします。

少しずつ少しずつ、大きくなっていく過程がある。少しずつ少しずつ、傷口が癒えていく過程がある。これらは、想像に容易いことだと思います。

このように、落ち着いて考えたら「そうだよね」と思えることでも、普段から「当たり前」のように接しているものの影響によって、知らず知らずのうちに「当たり前の概念」がつくり変えられてしまうことがあると考えています。

そのため、定期的に「当たり前の概念」を見直すことが大切だと感じます。今ある「当たり前」は、本当に当たり前なのでしょうか。その当たり前は、本当にヒトを幸せにするのでしょうか。今一度、じっくり考え、感じることが必要と感じます。

また、これらは「現代人が忍耐を苦手としている(と感じる)理由」として、意味づけすることもできると考えています。「便利なものが身の回りにあるのが当たり前」になると、わざわざ忍耐を発揮しなくても生活できることが増えるからです。
(今回の話題からは逸れてしまうため、後日「忍耐力」の理解を深めるための内容を執筆予定です)

「忍耐力」については、上記リンクの「4つのちから」にて詳細をお話していますので、ぜひご覧になってくださいね。また、ホームページにも記載がありますので、よろしければお立ち寄りください。


ところで、少し前に「ヒトが便利なものに寄りかかり過ぎて抱えるストレス」の原因を「環境的な要因」と表現しましたが、この「環境」とは「便利なシステム」に限らず、便利なシステムのなかで生活している「人間同士の生活環境」も含まれると思っています。

私たちは他者と何らかのコミュニケーションを取りながら生活をしていますが、「私や他者」という一人ひとりには「何を重んじるか?」という価値判断をはじめ、性格傾向や得意不得意を含めた「精神的な環境」が存在しています。心理テストのタイプ診断のようなものと言えるかもしれません。

それこそ、「瞬発力ならお任せ!チータータイプ」や「自由を愛する!鳥タイプ」など、各々の特長によって、知らず知らずのうちに「住み分け」が行われていると考えられます。チーターは大草原、鳥は大空が、自然体で「しっくりくる環境」と言えるのではないでしょうか。
(タイプ診断や「住み分け」の考え方については、別の機会に執筆予定です)

人間同士のコミュニケーションについてのお話なので、あくまでも「チーター」や「鳥」は、「各々の人間の精神的な環境」を象徴しているのですが、つまり、「AIが人間に」影響を与えているだけではなく、「人間同士」でも「精神的な環境の違い」によって、影響を与え合っているということが言いたいのです。

場合によっては、この「精神的な環境」の違いによって、「(不本意ながらも)ある条件が揃った時に」ストレスが引き起こされることもあると考えています。人間が抱える悩みの多くは「他者との関係性」が絡んでいるように思いますので、この部分に話の主軸を置くことにします。

例えば、「AI的な合理性を尊重する(得意な)人」と「人間的な情緒を尊重する(得意な)人」という、少々違ったところがある「精神的な環境」をもつ人がいたとします。

「社会問題の種はどこから生まれるのか?」という視点をもち、この人たちが「便利なものを重んじる社会的な傾向」というフィールドのなかで、どのような影響を与え合うのかを探っていこうと思います。

話が複雑になってきたように思うので、具体的なケースを交えながら整理してまいりましょう。まずは「状況」を見ていきます。具体的なストレス要因については、次の章でお話しますね。(※注意書きあり)


例えば「お仕事の人間関係のシーン」で、次のタイプの人がいたとします。

・効率的にテキパキ作業できて成果を出せる、おこりんぼさん
・マイペースでゆっくり作業だけど、協調性の高いおだやかさん

こういった傾向のあるかたは、比較的多く見られるように思います。
※少々両極端な人物像ですが、「対比」を目的としていることをご理解くださいね。また、「両方当てはまらない…」と思われるかたがいるかもしれませんが、あくまでも数あるうちのひとつの可能性の話をしているので、ご安心いただければと思います。

前者は、確実な成果を出すことができるため評価が高いように思います。
後者は、職場の雰囲気を柔らかくしてくれるため評価が高いように思います。

このように、どちらもお仕事をするうえで必要なスキルを持っていると言えますが、ここに「便利なものを重んじる社会的な傾向」という軸を入れ込むと、とたんに状況は一変します。

お察しのとおり、この軸を基準にすると「効率的にテキパキ作業できて成果を出せる、おこりんぼさん」に軍配が上がるように思います。もちろん、そうとも限らないことはあると思いますが、あくまでも傾向として捉えると、このように言える気がします。

※個人的に、お仕事の意義は「他者と戦うためではなく、他者と協力して社会貢献するためにある」と考えているので、「軍配」という言葉に違和感を覚えるのですが、「評価」というシステムがある以上、どうしても勝ち負けにこだわりたくなってしまう「リアルな人間の本能」があると推察し、あえてこのように表現しました。
(詳細は「マウンティング」についてや、「お仕事関係」のカテゴリでお話しできればと思います)

ところで、誤解のないようにお伝えしたいのですが、テキパキしている人がいつもイライラしやすいかと言えば、そんなことはありません。「テキパキしている穏やかな人」は、当然ながら存在します。

あくまでも、大枠を説明する目的で「傾向」を捉えた時に、効率的に仕事に取り組める人というのは視野が広くて気がつくことも多いからこそ、作業量が増えるなどして負担を感じることが多いのではないか?という考えのもと、このような表現をしています。綺麗ごとを抜きにして「自分ばかりが走り回っているモヤモヤ感」を感じる機会も、少なからずあるのではないかと想像します。

この部分についてもあらゆる物の見方ができますし、また「怒りっぽい」や「作業がゆっくり」などの、場合によっては否定的な意味合いで捉えられかねない表現があったとしても、そもそも「善いもわるいもない」という前提で「それぞれの個性や特長を生かすこと」を目標としてこのお話をしているため、穏便に受け取ってくださるとうれしいです。

今回は、あくまでも「性質の違うものが共存する方法」だったり、「便利さを軸にするとどうなるか?」というお話がメインなので、その前提でご理解いただきますようお願いします。(きちんとお伝えしたい反面、ぜんぶをお伝えしようとするとまどろっこしくなるし…塩梅が難しいですね!)

少し話がそれてしまいましたが、つまり、本来は「それぞれのすてきなところが違うだけ」という事実があるのに、ひとつの軸をいれることによって「評価される人とされない(されづらい)人」が現れてしまうということでした。これが、問題に発展し得る「状況」にあたる部分です。(話し合うテーマによって正解が変わるというお話を度々しているのですが、まさにこれも該当します)

そもそも、なぜ、このようなお話をしているのかというと、冒頭部分でもお伝えしたように「社会課題とされること」によって、ヒトの安心感が失われてしまうのではないか?と心配しているからです。

そのため、仮に、人間が自分たちでつくり出したシステムによって窮屈さや生きづらさを感じていることがあるならば、「生産性を高める方法」を考えると同時に、「ヒトが安心して過ごせる環境」を積極的につくる必要があると思っています。

「あなたがいてくれるから、みんなの士気が上がって助かっているよ」
「あなたがいてくれるから、みんなが穏やかに過ごせて助かっているよ」

「AI技術」という名の便利なサービスや商品と「情緒的なひとときを味わう」というよろこび。また、「合理性という能力」をもつ人間と「感情的な関わりを尊重する」人間。性質の異なるもの同士が、各々のちがいをリスペクトし合うことで、より一層、建設的に能力を活かしあえるのではないでしょうか。

これが、「成果を出すこと」と「やさしくあること」の共存と考えています。つまり、「AIのような合理性と人間らしい情緒」が互いに手を取り合っている状態と言えるでしょう。

これをする意図は、次のとおりです。

「共存」という視点があるから「共生」の意味を見出すことができ、「建設的なコミュニケーション」を行った結果、安心感という名の「生きやすさ」を得るための「他者との関係性」が築かれる。

違いを責め合うのではなく、「認め合い、補い合うこと」が大切です。綺麗ごとを抜きにして、実際に「やろうとすること」が必要です。

この視点がないと「どうしてなの!」という不満感を抱き続けたり、「自分のほうが偉い」もしくは「自分は劣っている気がする」という他者との比較により、マウントを取りたくなったり劣等感を感じてしまうところをグルグルすると考えられます。
(他にも「素晴らしいシステムを良からぬことに使ってしまう人」の話ができそうですが、話が散らばってしまうため別の機会に執筆予定です)

これらは、誰が見ても「しんどい現実」のはずです。だから、これまでお話したような「ストレス要因が生まれるきっかけ」を理解し、一つひとつ手を打っていくことが必要ではないでしょうか。

AIとの共生、他者との共生を果たすためには、「どんどん進化を続ける『便利で早く正確なもの』」と、同等以上に渡り合える「人間のちから」を育む必要があると感じます。

方向性を整理したところで、ここからは、現実的にどのようにして「目の前の社会問題の種」に対応するか?を見ていきたいと思います。

「パズルのピースねじ込み問題」への対応策

※この章は、ちょっぴりデリケートな内容を含みます。胃腸にやさしい「うどんコース」をお選びのかたはご注意ください。(?なんのこと?と思われたかたは、冒頭に説明がありますのでご覧になってくださいね)

「社会問題の種」について理解を深めるという目的で、具体的なシチュエーションを含む内容が記載されています。なるべくしんどい表現にならないように配慮していますが、場合によっては心の傷が思い出されることがあるかもしれませんので、ご心配なかたは無理な閲覧を避け、次の章へ「一気にスクロール!」もしくは、「目次からテレポート!」してください。

また、今回の記事のポイントは「共生することの意義と目的」にスポットを当て、そのために必要な「人間のちから」という名の「情緒的なやさしさ」を育み、パワーバランスをとるための方法を考えることについてお話しています。
そのため、この章を読み飛ばしても大切なところはお伝えできるかと思いますので、ご安心ください。

スタミナたっぷり「焼肉コース」をご希望のかたは、どうぞこのままお付き合いください。より具体的なお話をしたいと思います。

※以下のリンクに「執筆の意図や免責事項」について記載しておりますので、まだご覧になっていないかたはご確認ください。


それでは、「社会問題の種」について具体的なお話をするために、少し前に例としてあげた「お仕事のシーン」を振り返りましょう。

・効率的にテキパキ作業できて成果を出せる、おこりんぼさん
・マイペースでゆっくり作業だけど、協調性の高いおだやかさん

本来は各々の持つスキルが違うだけなのですが、「便利なものが存在していて当たり前」という軸を入れると、前者が評価されやすいのではないか?という仮説を立てましたね。

繰り返しになりますが、この仮説はあくまでも「傾向」として捉えた結果に過ぎず、実際は「作業効率をあげるよりも穏やかな職場環境を尊重する」現場も、当然ながらあると思います。

ここで、ある疑問が生まれます。
「便利なことが当たり前の時代で生きる私たち」という共通点があるのに、どうして、このような違いが生まれるのでしょうか。

・便利なことが当たり前であるから、とことん合理性を追求する環境
・便利なことが当たり前であるけれど、合理性以外の価値を見出す環境

(極端なことを言っていますが、こちらも「対比」を目的としてお受け取りください)

おそらく「どんな人が、場を管理しているか」によって、これらは変わってくるのでしょう。例えば、「管理者と呼ばれる立場の人」や「より発言力のある人」と表現できるかと思います。

想像していただきたいのですが、「あらゆる権利を有する人や発言力のある人」が、「(どんな方法でも構わないから)とにかく成果を出してほしい」という価値基準のもと、場を管理しているとどうなるでしょうか。

すべてではないにしても、「(手段を選ばず)成果を出そうとする人」が増えるような気がします。なぜなら、そのほうが「評価」されるからです。社会的な地位を築いたり収入をアップさせるため、その場において「主導権のある人」が望むものを与えようとするのは想像に容易いことでしょう。

たとえ、自身の信念を貫くために「(ヒトの情緒を守る)手段を選ぶこと」を手放さずに奮闘するかたがいても、風の勢いが強ければ強いほど、不本意ながらも強風にあおられてしまう状況があるのではないでしょうか。

どうしてもこの部分に「社会問題の種」が潜んでいる気がして、心がザワザワします。あくまでも私の想像や感覚に過ぎませんが、次のような流れでしんどいことになってしまう気がします。

「便利で早く正確に」が多くの人に求められている風潮がある
→個人の事情や心情よりも成果を出すことで評価される環境ができる
→自分や他者の成果をあげるため「心」を置いてけぼりにする人が増える
→しんどい想いをする人で溢れかえってしまう(のではないか?)

つまり、私が思うところの「社会問題の種」とは、「当たり前の基準」が少しずつ「機械的な合理性」を求める方向に変化したことで、一人ひとりの個性が尊重されづらくなったり、ヒトが自然体で抱える情緒的な一面が重視されないことを指し、その結果、しんどさを抱える人が現れてしまうのではないかということです。

とことん合理性を追求したところで、どうがんばってもヒトの情緒は存在しているため、機械のように割り切れない複雑な感情がフラストレーションを生むことになる気がします。

また、「社会問題の種」について、次のような見方もできるのではないかと考えています。

社会的な要因:忍耐力や想像力を特別に発揮せずとも、日々の生活が送れる環境があるからこそ「長期的な目線で自分や他者を見守ることが苦手になっている(と感じる)」

立場的な要因:たとえ自身が「穏やかに過ごす価値」に気づいていたとしても、生活をするためには「見ないふりをせねばならない事情がある」

これらの要因が絡み合うことで、「本当は心地よさを重視したいのに、問題の種に対処することが難しく感じてしまう」というループに陥ってしまうような気がします。

このように「不自然な葛藤に晒され続けたストレス」がどんどん膨らんだ結果、抱えきれなくなったものが「無理やりどうにかしたくなること」に発展するのではないでしょうか。

(こんなに便利な世の中で)どうして不便な想いをしなくちゃならないの!と怒る
(なんでも早くできるはずなのに)どうしてこんなに待たなきゃいけないの!と焦れる
(せっかく素晴らしい技術や情報を得たのに)どうしてうまくやれないの!と否定する

先ほどは、これらを「自身が抱く理不尽な感情」としてあげていましたが、成果を出すこと「だけ」に囚われてしまうことで、自分だけに留まらず他者に当たってしまったり、自身が他者から当たられてしまうことにもなりかねません。

心の傷を増やさないためにも、このしんどいループを止める必要があります。(「4つのちから」で詳細をお話しています)

少し前のお話を思い出していただきたいのですが、そもそも人間とは「ゆっくりじっくり成長変化しながら、あらゆる感情を味わい、少しずつ成長する」生き物なのです。また、人それぞれに個性がありますから、当然、他者の思うままに動くことはできません。

ここを、忘れてしまっていないだろうか?と、思う機会が増えた気がします。「どうにもならないものを、無理やりどうにかしようとすること」は、言うまでもなく建設的な営みではありません。たとえ、綺麗ごとを抜きにして「どうにかせねばならない」状況下にあったとしても、ちから任せにはどうこうできないことの方が多いような気がします。

自分自身に対しても、他者に対しても「どうすれば、足並みを揃えて望む結果に近づけるか?」を共に考えることが必要だし、その方が確実な実りを手にすることができるはずです。盛大な綺麗ごとのように聞こえるかもしれませんが、これは「事実」であると考えます。

パズルを早く完成させたいあまりに、まったく違う形のピースを無理やりはめ込もうとしたところで、無謀なチャレンジになってしまいますよね。一つひとつ、ピースの形を確認して、全体像を把握して、何回も何回も繰り返し合う形を探そうとするから、ようやっと壮大なパズルが完成するのです。

わからない事情があるから、できない事情があるから、わかっていないように「見える」し、できていないように「感じる」のではないでしょうか。
だから、わからない「事情」や、できない「事情」を見ていくことが必要なのです。

繰り返しになりますが、きっと、落ち着いて考えれば「当たり前だ」と思えることもあるだろうし、「わかっていてもそう思えない『事情』があって困っている」人もおられると思います。頭では理解できても、心が追いつかないことがあるというお話をしましたが、まさにその状況ではないでしょうか。

だから、この4つのちからが必要だと思うのです。

また、このお話は「ヒトが自らの本能に振り回されている状態」と表現できるかもしれません。

他者よりも優位に立たねば自分の立場や生活を守れないと思うからこそ、「マウントを取る」ことになってしまったり「どうにもならないことをどうこうしたくなる」こともあるのではないでしょうか。ただ、一生懸命に生きようとしているだけなのに、知らず知らずのうちに「競争することを余儀なくされている」と言えるかもしれません。
(※「マウンティング」について詳細を執筆予定)

この「競争」ですが、本来は「マウンティング」以外の方法もあるはずです。しかし、情緒的な関わりが重んじられていない環境下では、「他者よりも上に行かねば!」と、鼻息を荒くする人が存在してもおかしくはありません。

さらに、最近の傾向として「他者よりも自分のために一生懸命になること」に、重心があるように感じます。詳細は上記の「4つのちから」の記事でも、「自己犠牲」についてあれこれお話しているのですが、要するに、各々の「事情」でいっぱいいっぱいになっている人がたくさんいるからこそ、他者のことまで気にかけていられない状況の人で溢れかえっているような気がするのです。余裕が失われていると、自分の身を守ることで精一杯になってしまうのも理解できます。

このような理由から、「パズルのピースをねじ込むこと」のすべてが、必ずしも悪意が発祥になっているのではないと信じたいのですが、どんな事情があるにせよ、当事者としては他者からしんどいものを向けられると心が不安定になるのは避けられません。いくら、他者をあたたかく包み込む心の器を備えていたとしても、それは「イヤな気持ちを分解し、消化する能力」が高いだけであって、しんどい想いを抱えることに変わりはないのです。

誰しも自分を守ってやりたい本能があるのですから、反射的に落ち込んだり、しんどいものを向けてきた相手に「こんにゃろめ~!」と思うのも無理はありません。そしてこの「理不尽とも言える本能」が衝突することで、ますます、悲しい戦いがヒートアップしてしまうのです。
(「自己防衛本能」について、詳細を執筆予定です)

一生懸命がんばっているだけなのに、やさしくなれなくて傷つけたり、傷つくことは辛いことだと思います。だから、落ち着いて「今、何を選ぶことが必要なのか?」を見ていく必要があります。

「競争を余儀なくされる環境」×「自分のことで精一杯」という、しんどいかけ算の結果、心の傷が増え続けている気がしてなりません。だから、「しんどい現実」を「やさしい視点」で割り算して、心の傷を癒してあげることが必要ではないでしょうか
これをするために、4つのちからを育むことが大切だと思っています。

私なりに考えた「選ぶべきもの」とは、つまり、こういうことです。

今、積極的に取り組むこととは、しんどさを生む「悪者探し」ではなく、なるべく多くの人が協力して「安心感」をつくることであると考えます。

もちろん、各々の状況によっては単なる綺麗ごとのように聞こえるかもしれないと想像しますが、だからこそ、綺麗ごとを現実にする試みが「本当に必要なこと」だと思っています。各々の余裕が失われやすい環境があるからこそ、持っておきたい視点ではないでしょうか。
(※こういった綺麗ごとを現実にするために、「洞察力」が大きなちからを発揮してくれると考えますので、今後、あらゆる方向性で執筆予定です)

また、「パズルのピースねじ込み問題」について、こんなお話もできそうです。

現在はバリバリ働くための状況が整っていて、他者から非難されづらい状態にある人も、いつ何時、今の調子で働けなくなるかわからないという現実があるのではないでしょうか。ヒトは繊細な生き物なので、どうがんばっても体調を崩して休むこともあるでしょうし、自分以外の事情が絡んで休まざるを得ないこともあるはずです。このように、他者に面倒や負担をかけるのは、回避しがたい事情があるように思います。

そんな時、「他者よりも優位に立ち、他者から非難されないために自分にムチを打ってでもがんばり続けている」という前提があると、心から安心して休めるでしょうか。きっと、休んでいるのに気が気じゃなくて「気が休まらない」ように思います。

つまり、「休まねばならない事情があるのに休むことが許されない」ことが当たり前だと思っていると、自身に対しても「いつも何かから責められている」というプレッシャーを与えることになります。これでは、安心感や気持ちの余裕が失われてしまっても無理はありません。

人一倍たくさんの仕事をこなし、休まないように、迷惑をかけないようにと一生懸命がんばっている人が、結果的にイライラやモヤモヤを抱えることになってしまうなんて、辛く悲しいことだと思います。たくさんがんばっているぶん、心から笑っていられる安心感を抱きながら、報われてほしいものです。

そのためにも、綺麗ごとのような「やさしい視点」が必要ですし、「自分を含めた他者の存在を慮ること」が求められているように思っています。

今、積極的に取り組むことは、しんどさを生む「悪者探し」ではなく、なるべく多くの人が協力して「安心感」をつくること。

これを実践することで、知らず知らずのうちに自身に向けられた「パズルのピース、ねじ込み問題」も和らげることができるはずです。


ここまで、様々な視点で「便利なものに翻弄されてしまう人間の現状」を見てきました。

「便利なものを中心に正解を出し、それに沿って物事の価値判断を行う『だけ』では、ヒトが安心して生きる環境をつくるのが困難になってしまうのではないか?」というお話でしたが、いかがでしょうか。

個人的に感じることとしては、「欲しいものを追いかけていたはずなのに、なぜかしんどいところに向かってしまう」という、まるで、頭とおしりがつながっていないような、不自然な感覚を抱きます。

何事も、自然の流れに沿っていないのは苦しみを生みやすいように思うので、ここのアンバランスさを修正することが、「社会問題の種」に対してできることだと思っています。

具体的には、次のようなことが必要と感じます。

合理性に偏りすぎているという現実があるならば、もう一方の「人間の気持ち」に重みを持たせてパワーバランスを取ること。

便利なものに囲まれ、恵まれている今だからこそ、「人間らしい情緒的な関わり」が、もっともっと尊重されるような働きかけを行うこと。

これが、私なりに考える「社会問題の種」に対応する方法と、現実的に実践するために必要な「人間のちからを育む」ことの意義と目的です。

また、今回はお仕事のシーンを例にあげてお話しましたが、もちろん他の人間関係にも当てはまる内容だと思います。各々の状況に置き換えて、「私たちの幸せとは?今、選ぶものってなんだろう?」について、考えるきっかけにしてくださるとうれしいです。

では、どうすれば「人間だからこそできる人間のちから」を育んでいけるのか?について考えていこうと思います。よろしければ、引き続きお付き合いください。

カギを握るのは「現実を視るちから」と「コミュニケーション能力」

いよいよ、「では、結局どうすればいいの?」についてお話したいと思います。

度々登場している「4つのちから」の考え方や、今回の内容の総まとめとも言えそうですが、つまり、カギを握っているのはこれらのことであると考えています。

1:人間であることを自覚する
2:すなおな欲求を自覚して動機をつくる
3:共生するための具体的な方法を考える
4:実行するための体力と筋力をつける
5:スキルを身に着け現実に生かす

順番に見ていこうと思います。


1:人間であることを自覚する

「人間であることを自覚する」なんて、今さらあえてお話しすることではないようにも思いますが、ここが消化不良のままですと次のご飯が入っていきません。それくらい、「当たり前の概念」は強力なものだと感じます。

この「当たり前の概念」は、少し前にお話しした「AIの合理性をヒトが持ち合わせていると思い込んでしまう全能感」を指しており、まずはこれを自覚することでスタート地点に戻ってこれるように思います。本当に進みたい方向に歩み出すためには、時に「当たり前の仕切り直し」することも必要ではないでしょうか。

「ヒトは失敗しながらもゆっくりと成長変化していく生き物」

「ゆっくりじっくり成長変化しながら、あらゆる感情を味わい、少しずつの成長をよろこぶ幸せ(を感じられること)」

これらが、人間だからこそできる「人間のちから」です。ここをゼロ地点にしたいのです。

もちろん、各々の人間が持つ「性格傾向」によって、より合理的な人もいれば情緒的な人もいるため、そもそものスタートラインが違うと思われるかたがいるかもしれません。

しかしこれはあくまでも、ヒトという生物をさらにタイプ分けした状態であるため、「AI」の無機質さと、ウエットな複雑さを抱える「人間」はそもそも性質が違うと言えるでしょう。

いくら、「効率的で正確に」が得意な人でも、時には不合理な感情を抱く自分を感じたり、手間がかかることに見舞われたり、失敗することだってあります。こういった視点で捉えると、「ヒトは失敗しながらもゆっくりと成長変化していく生き物」と、言い切ってもいいのではないかと思っています。

ここでのポイントは、つまり、「自分たちは不便なものを抱えていて、じっくりと時間をかけることでしかできないことがあって、たくさん失敗する生き物だ」と、降参してしまうことが、こころの健康のために必要だと考えます。「できる前提だから、責めたくなる」のだとしたら、「そもそも難しいことがある前提」にしてしまえばいいのではないでしょうか。

これは、言い換えると次のようになります。

自分たちは不便なものを抱えていて、失敗しながらもじっくりと時間をかけることでしか得られないものがあるからこそ、情緒的な感動を味わうことができる生き物だ

このように、ステキな一面をしっかりと見てあげることも忘れてはなりません。「人間ならではの個性」は、とっても尊いものであると思います。

「できることとできないことを明確に分けて、(今)できることに注力する」

これが、現実を正しく視ることができている状態だと思っています。そして、必要なことにまっすぐ取り組むための余力を残すことにもつながります。

では、どうすれば「人間にできること」にあたる「尊い人間のちから」の価値に気づき、育て、活かしていけるのでしょうか。

ここから先のお話に、ヒントがあるはずです。

2:すなおな欲求を自覚して動機をつくる

ヒトができることに注力したほうがいいことは理解できたとしても、「なぜ、それをやるのか?」という動機が弱いと、行動に移すことがおっくうになってしまうような気がします。

例えば、いきなり「グラウンドを30周走ってきて!」と言われても、「え~?なんでそんなことしなきゃいけないの…」と、やる気にならないのも無理はありません。走ることが好きなかたは苦にならないと思いますが、そうでないかたにとっては面倒だし、しんどいこともあるはずです。
※「走る」はあくまでも例え話に過ぎませんが、その他のことでも各々の状況によって「それが難しい事情がある」ことはあると思います。まさに、そういった「事情をくむちから」について説明するために、この話をしているという視点で受け取ってくださるとうれしいです。

つまり、「目的を明確にすること」が大切だと思っています。
同じ内容の呼びかけであっても、次のように言われると印象が変わるのではないでしょうか。

「バスケットボールの大会で全国制覇を目指すために体力をつけることが必要だから、トレーニングのためにグラウンドを30周走ってきてください!」

いかがでしょうか。目的を明確に提示されることで「そうだな、やってみよう!」と思えることも増える気がします。(あくまでも説明のための例文なので、実際はバスケットボールじゃなくても大丈夫です!)

このように、あれこれと情報を取り入れる前に「うっかり行動に移したくなるような動機をつくることが必要」ということを理解しておきたいのです。

では、今回のテーマに沿った「人間のちからを育む」という行動においての動機とは、一体何なのでしょうか。

これに対する答えは、「便利なものに振り回されてしんどい状況をつくらないために」が該当すると思います。

さらに、目的を細かくしていくと「なぜ、しんどい状況をつくらないほうがいいのか?」というテーマが現れます。「しんどい状況をつくらない」という行動に対する動機は…?

見ている人によって、様々なイメージが現れてくることでしょう。

ここでは一例として、また、私が記事を執筆している意図を中心に置いた「ひとつの正解」をお話したいと思います。そもそも「なぜ、人は悩むのか?」についてとことん掘り下げていった結果、ここにたどり着いたという事実があります。
(正解の押し付けではなく、各々の考えと照らし合わせながら共に考えていけるとうれしいです)

「すなおな欲求を自覚すること」

これが動機の大枠にあたる部分ですが、端的に表現すると、「本能を自覚する」ことと言えるでしょう。つまり「ヒトが生まれながらにして持っている本能を、しっかり見てあげること」が大切だと思います。

本能と言っても、様々なものが該当すると思います。
だからあくまでも「ひとつの正解」に過ぎないと繰り返しお伝えしているのですが、「人の悩みや苦しみ」そして「人の希望や喜び」に着目した時に、切っても切れないものがあると思っているのです。

それが、「愛着」です。

自分を見てくれる人がいる。
心配してくれる人がいる。
いつも近くにいてくれる安心感がある。
どんなわたしでも、受け容れられている感覚がある。

これが満たされていると心が安定して笑っていられることが増え、逆に満たされないと心が不安定になり、自他ともに対する攻撃性に発展してしまうのではないでしょうか。

だから、「愛着」を「動機」にしたいのです。

「私は安心したい」
「私は他者と親密な関係性を築きたい」

これらに向かって、グラウンドを走り周りたいと思いました。
また、私個人の希望にとどまらず、多くの人が抱える欲求であると想像したことも、ひとまずの「正解」にした理由です。

もちろん、この欲求を強く感じる人もいれば、そんなに必要ないと感じる人もいると思います。だから、無理やりこの動機を押し付けたいわけではないのですが、ヒトという生物である以上は少なからず抱えているものであると仮定しました。

また、たとえ「別にいらないよ」と思われるかたがいたとしても、これを必要としている人がいる以上は、ここを避けて「社会課題」を語ることはできないと思いました。どうしても「地球上で他者と共存すること」が前提となっているため、どうか、ご理解くださるとうれしいです。
(※詳細は「愛着」のカテゴリで今後執筆予定です)

では、この「愛着」という名の「切っても切れない本能」があることを自覚し、安心感を得るためには、一体なにが必要なのでしょうか。

具体的なお話をしたいと思います。

3:共生するための具体的な方法を考える

具体的なお話をするにあたって、「愛着」という大きなテーマを、なるべくわかりやすいかたちで表現したいと思います。

様々な角度から「愛着」について語ることができるかと思いますが、結局のところ、私が必要だと感じるのは、次のようなことだと思っています。

「やさしさを贈り合うこと」

どれだけ「正しいもの」で溢れていたとしても、安心感が得られるとは限りません。「やさしさ」がなければ、人の心は枯渇してしまいます。

「正しさ」は、時に誰かを助けることもありますが、扱い方によっては誰かを傷つけてしまうことがあります。「正義の剣を振りかざす」という表現があるように、各々の正義によって衝突した結果、傷つく人が生まれてしまうこともあるからです。

これでは、両手広げて安心感を迎え入れることが難しくなってしまいます。
では、「やさしさ」はどうでしょうか?

「やさしさ」は、誰かを助けることはあっても、誰かを思いきり傷つけることは少ないように思います。もちろん、やさしさにも様々な種類があって、それが受け手の状態によっては「意図せず傷つけることになってしまった」という結果になることはあります。しかしその性質は、正しさとは違うもののような気がするのです。

つまり、やさしさという「正しさ」の扱い方が重要なのであって、やさしさそのものに攻撃性はないと信じています。だから、人と人が安心してつながるために、「やさしさを『やさしく』贈り合うこと」が必要だと思っています。

これが、異なる存在が共生するために必要な手段であると考えます。
さらにこの「やさしさ」を、どのようにして表現し、与えあっていくか?が次のお話につながっていきます。

4:実行するための体力と筋力をつける

5:スキルを身に着け現実に生かす

これらは、やさしさを育むために必要な「4つのちから」に該当する部分です。詳細はこちらにも記載があります。

本質の部分は繰り返しの内容になりますが、別の例え話を使い、より飲み込みやすくなるように理解を深めていこうと思います。

「4つのちから」とは、やさしさを贈り合い、お互いに安心できる関係性を築くために必要なちからのことで、これは「建設的なコミュニケーション」を行うために必要なものと捉えています。

ここでは、「基礎体力と筋力にあたる部分」と、自分や他者へのケアやフォローが行える「スキルの部分」とに分けて説明していますが、ひとまずの段階で一人ひとりが身につけたいのが、今回、体力や筋力と表現される「忍耐力」と「想像力」であると思っています。

先ほど、バスケットボールの大会で全国制覇をしたいのならば、まずは体力が必要だということで、「とにかくグラウンドを走りましょう!」というお話をしました。

つまり、やさしさを育み、他者と共生するには「忍耐力」が最低限、必要ということです。これがないと各々が本能のまま、思い思いに言いたいことを言い、やりたいことをやってしまいます。周囲と上手く嚙み合っている時は表立った問題が起こっていないように見えるかもしれませんが、場合によっては、他者を傷つけたり、安全を損なわせてしまうことがあります。
(※「表立った問題…」について、別の機会に執筆予定です)

だから、あらゆる言動を決めるための「間(ま)」を作るために、まずは「ぐっとこらえること」が大切ではないでしょうか?と思っています。これが体力にあたる部分です。

そして、同じ時期に育みたいちからが、筋力である「想像力」です。
想像力が育まれると、あらゆる可能性を探索することで、他者との共生をはかっていくことが可能になります

これがないと、違和感を感じた時、「どうしてなの!」と感じたままを他者にぶつけて関係がこじれてしまったり、がんばってぐっとこらえることができたとしても、お腹の底では納得いかないまま、苦しい忍耐をし続けることになってしまいます。

自分にもなるべく無理をさせずに他者を慮るためには、たくさん考え、想像するという過程を経た「腑に落ちる感覚」が必要なのです。この納得感が、自分に対するやさしさであると考えています。

バスケットボールが上手くなるには…という例でお話をすると、グラウンドを走り回ることで、体力がついたり、走るための筋力は備わるかもしれませんが、ドリブルやシュートを行うための筋力が身につきません。だから、目的にそった営みが必要なのです。

やさしさを発揮するためには「ぐっとこらえるための基礎体力」をつけることに加えて、その時々で必要なことを考え、想像する「頭と心の筋力トレーニング」を繰り返し、地道に行うことが大切なのです。

これが、ひとまずの段階で「一人ひとりが身につけたいちから」の正体です。

では次に、「スキル」の部分について考えていきましょう。

体力と筋力をつけるだけでは、バスケットボールの試合に勝つことが難しい現実があります。全国制覇をするためには、「パスをまわせるちから」「シュートを決めるちから」が必要になってきますし、なにより忘れてはならないのが、この段階に来ると「チームワーク」が欠かせません。つまり、コツコツと取り組んできたことを、現実的に活かす段階と言えます。やさしさを贈り合うための「コミュニケーションの実践編」とも、表現できるでしょう。

ボールの勢いが強すぎるパスをしていては、あぶない!と思って避けられたり、たとえ受け取ろうとしてくれても、突き指させてしまうかもしれません。逆に、相手に届かないような力加減でパスをしていては、まんまと相手チームにボールを奪われて勝利をつかめません。

つまり、目的を達成するためには、仲間に対して適切にボールが届かねば意味がないのです。また、シュートを確実に決めるためには、繰り返し、あらゆる距離からシュート練習をして、ゴールする確率をあげていくことが必要です。

こういった「テクニカルな部分」である「洞察力」や「包容力」を育むことで、やさしさをまっすぐに相手に届け、相手から届けられるやさしさをしっかりと受け取ることができるようになるのです。この営みによって、おのずと「信頼関係」が築かれていくことでしょう。
(※「洞察力」「包容力」など、他のカテゴリでも詳細を執筆予定)

もちろん、基礎のちからだけでも、やさしさの交流をすることは可能であると思っていますし、そもそも「やさしさを贈り合うこと」のハードルを高く設定するのは避けたいことです。

なぜなら、やさしさとは「与えたい」「受け取りたい」と思った段階から発生しているものだと捉えているからです。もしくは、自覚していないまま、やさしさを動機とした言動をとっていることも考えられます。

あくまでも「まっすぐに」「しっかりと」といった付加価値をつけるためとして、テクニカルな部分を育む意義があると考えていますし、同時に、テクニカルなちからを身に着ける人が増えるほど、ケアやフォローという「より上質なやさしさ」を贈り合えることにもつながるのではないでしょうか。

だから、「スキル」についても意欲的に、積極的に身につけたいと思っています。

【まとめ】

以上が、便利なものに振り回されずに、あらゆる対象と共生を目指すことができる「現実を視るちから」や「コミュニケーション能力」の正体と、一人ひとりが具体的に実践できることの詳細です。

ところで、今さらですが、気になっていることがあります。

ここまでお読みくださったかたには伝わると信じたいのですが、「便利なものに振り回されずに…」というのは、無理がある気がしてきませんか。

なぜなら「私たちは人間だから」です。

話の終盤ですが、また、話の終盤だからこそ、ここで少し表現を変えたいと思います。

「便利なものに振り回されつつも」人間のもつちからを信じて育むことを諦めず、人間だからこそできるコミュニケーション能力を発揮して、あらゆるものとの共生を目指していくこと

このように、変更しておきますね。

信頼関係を築くことで得られる「安心感」と、安心感を与えあうことで築かれる「信頼関係」

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

あらゆる角度から、「便利なもの」と「人間のちから」について捉え、様々な対象との共生のためにできることを考えてきましたが、結局のところ、今回のお話の大切なポイントはこちらです。

「情緒ゆたかな人間」が、「便利なシステム」を「建設的な目的」で「主体的に」使うためには、人間のちからを地道に育み、やさしいコミュニケーションを贈り合うことが大切であること

素晴らしいシステムを、しあわせな目的で使わせてもらうためには、ヒトが抱える情緒を大切に守り育てるという「人間力」がカギを握っているということ

これらを行うために、「ヒトとしてできることを、一つひとつ積み上げていきましょう」ということでしたね。

「性質が違うもの、性質が似ているように見えるもの」
「他者との関係、自分自身との関係」

一緒だからとか、違うからとかは関係なく。また、自分のためにも、他者のためにも。たくさん「建設的なコミュニケーション」という名の「やさしさ」を贈り合っていきましょう。

やさしさを贈り合うキッカケは、きっと、山のようにあるはずです。
そのなかでも、今回のテーマである「便利なものと人間のちから」にスポットを当てた「現実的にできそうなこと」を、最後に共有したいと思います。


「あらゆる情報を『適切に発信』すること、『柔軟に受信』すること」

今、まさに私が行っているように「いつでもどこでも、自分の意見を発信できる環境」が用意されていたり、「他者の思想や考えを気軽に取り入れる環境」が整っているという現実があります。

この環境を使うことは、「情報を現実に活かすための建設的な営み」であると同時に、場合によっては「しんどい情報から身を守ることを余儀なくされている」と、捉えることができるでしょう。
(※ゆくゆくは「4つのちから」に絡めて詳細をお話できればと思います)

だから、建設的に「すばらしいシステム」を使わせていただくためには、人間のちからを、次のことに役立てたいと思っています。

発信者:表現する内容を適切に整理し、なるべく受け取りやすく、飲み込みやすい状態にすること。つまり、「他者にやさしく届けるためのフォローを行うこと」が大切です。(私も気をつけますね)

受信者:飛び交う情報を適切に取捨選択するためのフィルターをかけ、消化吸収するちからを備えること。つまり、「自分に必要なものを見極め、やさしく読解すること」が大切です。

いかがでしょうか。

繰り返しになりますが、このように、様々なものと共生するためには、「建設的なコミュニケーションを行うためのちから」が求められる時代であると感じます。

このちからを育むことによって、ある程度は「うまくいかない感覚」に振り回されて苦しむ機会が減ってくるかもしれません。ただし、綺麗ごとを抜きにすると、しんどいことが「完全になくなることはない」と思っています。

なぜなら、一生懸命に向き合っても、すれ違ってしまうことはあるからです。誤解を生むこともあるでしょう。まさに、これも「うまくいかない感覚との共生」と言えそうですね。
(※とても大切な部分なので、別の機会に改めて執筆予定です)

だから、うまくいかなくて苦しい時こそ、「ヒトが本当の意味で生きやすくなるための基準」を考えることが大切ですし、同時に、「すれ違いや誤解をカバーしたりフォローするちから」が求められているのだと思います。


「やさしさを贈り合うこと」

やさしくあろうとする想いを胸に、信頼関係を築いていこうとする営みそのものが、自分や他者の安心感につながるのではないでしょうか。

「わかってもらうために一生懸命になる姿」
「わかろうとして一生懸命になる姿」

こういった「想い」から生まれる「姿勢」によって、おのずと信頼関係が築かれるのだと思います。また、信頼関係によって「安心感」が生まれた環境下では、信頼関係が育まれやすいと言えるでしょう。

「愛し愛されているという感覚を育み、大切に守り抜くこと」

時代の変化に見舞われても、あらゆる社会課題に晒されても、ヒトが人である限り、いつも変わらないものがそこにはあると思っています。

サポートしたいと思ってくださり、ありがとうございます。創作活動の励みになります!