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なぜ学ぶのか
私は学ぶことが好きです。
若かりし頃から、自分自身で学びを深めるために本を読むことも、誰かに教えてもらうために講座などに出向くことも、ずっと好きでした。
今でもやっぱり、学ぶことが好きは変わっていません。
でも、学ぶという行為を続けてきた結果、「学び方」は以前と随分と変わってきたような気がしています。
よく、どんな風に学んだの?とか、どんな本を読んでいるの?とか、どこから情報を得ているの?ということを聞かれます。
その方法や手段に関して、もちろんお話することもできますが、それ以上に私が感じている「学ぶために大事なこと」があります。
それは、「正解を得るために学ぶことをやめる」です。
学ぶために大事なことなのに、やめるってどういうこと?と思う方もいるかもしれません。
でも、この正解を得るために学ぶことをやめない限り、どんなに学んでも学んでも、その欲しい答えが見つかることはありません。
正解を得るために学んでいると、その答えが見つからなければまた別の学びへ、また別の学びへと、答え探しにいくことになります。
そのループは留まることなく、学んでも欲しいものが得られないので満足感も得られません。
得られたとしても一時的なもので、また違うところに正解を探しにいくことになります。
でもまぁ・・・人それぞれ学びの課程にあることを思うと、その学び方を続けていくことも必要かもしれません。
大切なのは、その正解を得るための学びの途中でふと立ち止まり、「答えはどこにもなかった」ということに、気づくことにあるのかもしれません。
それこそが、最大の学びになるとも思います。
私は学ぶ場をつくる機会が多いのですが、どんな学び方であってもその人の自由だと思っています。
でも、せっかくお金と時間を使っていただいている以上、正解をもとめて迷いの中に居続けるよりも、学ぶほどに自由に豊かになっていく学びの場になったらいいなと思いながら続けています。
純粋な好奇心に突き動かされるような学びは、学ぶほど自由に、豊かになっていきます。
例えば、私が純粋な好奇心からスタートし今尚続けている学びに「易学」があります。
易学は、人間の運命を自然の摂理に従って読み解いていくという要素があるのですが、それは既に固定されている運命を知るということではありません。
運命という言葉の意味を誤解している人は少なくありませんが、運命は変えられない決まったものではなく、自ら動かし立てていくものです。
知ることで、新たな人生をクリエイトしていくことが、易の大切な意義ではないかと感じています。
私は、易に自分の人生の正解を求めて取り組んだのではなく、ただこの学問に心から魅力を感じて取り組んできたわけですが、実際学ぶほど自由に豊かになっていきました。
選択の幅は狭まるどころか、知った上でどんな人生も自分で選べるということがわかりました。
学ぶことで正解にたどり着けると思っていたら、その正解に当てはまる自分を目指したり、正解に当てはまらないことを悲観したり、どこまでも正解にたどり着けない自分にうんざりしてしまったかもしれません。
もう一つ、ご紹介したいお話があります。
この易学の書『易経』の中に、学ぶことに関連した教育の卦とも言われる「山水蒙(さんすいもう)」という卦があります。
山水蒙の「蒙」は、蔓草が茂り覆われ内側が暗く見えない状態を示し、知恵や理が明らかではないという意味を内包しています。
しかし山水蒙は、そのものの本質が暗く明智がないのではなく、ただそれが隠されているに過ぎないことを教えてくれます。暗くしている覆いをとれば、その内には本来の明らかな知恵が現われるのです。
本当の学びは本質を変えていくことではなく、隠されいる本質を明るみに出す。そういうことではないでしょうか。
学ぶことを、どこかにあると思っている正解を探す手段にしないでください。
もしどんなに学んでも満たされない想いがあるとしたら、一度立ち止まり、学ぶ手を止めて、よくよく自分を見つめてみてください。
そして、「なぜ学ぶのか?」
と、自らに問うてみてください。
はたと「正解はどこにもなかったんだ」ということに気づいたとき、
あなたが探し続けていたその答えは、既にあなたの中に、あるのかもしれません。