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未来の記憶を思い出す

記憶というと、私たちは「過去の経験を覚えていること」と認識していると思います。でももし、この瞬間にはまだ経験していない『未来の記憶』というものがあるとしたら。


月曜日の朝のclubhouseを終えて、一息。しばしボーッとしていると、鮮やかなインスピレーションが浮かびました。

『易のメッセージって、もしかしたら未来の私が今の私に送っているんじゃないかしら』


易学を学び4年を過ぎ、易の時間の捉え方が少しずつ浸透してきました。通常、時間は過去から現在、そして未来へと流れていくもの。でも、易学的解釈でいうと、時間は、未来から今に向かってきていると捉えられるのです。

易を知らない方からすると、不思議でしかないような話。でも、易が逆数だからこそ、目の前に立ち現れるサインで未来を知ることができます。そのサインが、未来の自分から送られているのではないかなんて、突拍子もないことを思いついてしまいました。


子どもの頃から不思議な経験をいくつもしました。きっと誰もが一度は感じたことがあるような、虫の知らせというものに似た出来事です。苦しくて明日が来なければいいと願ったときも、この世界に絶望したときも、自分ではそれが希望だと認識できないほどの、かすかな光を見ていたような気がするのです。選択を迷った時、こっちだよって導かれるように進んだこともあるし、何かの力にそっと背中を押してもらったような気がしたこともあります。


なんの関連性もないような出来事に、はっと心が捉えられてしまった時。ただの偶然は意味のある偶然に変わるのです。易は、そんなシンクロニシティを読み解く学問でもあります。

空を飛ぶ鳥や、突然の雷雨、通り過ぎる人や車、急に耳に入る店内のBGM。出会ってしまったそれらは、私たちに何らかのメッセージを送っていて、実は偶然ではなく必然的な出会いであったのだと、易は教えてくれます。

私はそのメッセージが、未来の自分から送られているのではないかと発動したのです。だって決断の先の未来を知っているのは、他でもない未来の私なのだから、辻褄が合うのではないでしょうか。

未来の私が私に送るメッセージは、未来から今に向かうベクトルで時空を超え、形而上から形而下へ、現象として現れます。それは、空を飛ぶ鳥や、突然の雷雨、通り過ぎる人や車、急に耳に入る店内のBGMに形を変えて。

あの時、微かに感じた希望の光も、こっちだよって教えてくれたのも、そっと背中を押してくれたのも、その選択の先につながる未来に生きる私だったとしたら。

今が最悪だと感じているなら、未来の自分は今の自分にメッセージを送っているわけないし、助けてもくれないと思うかもしれないけど、最悪だと感じているのは『今』の自分なのです。もし、その最悪だと感じている出来事が起こった意義を、未来の自分は知っているとしたら。その経験が敢えてできるように選択させているとしたら。

そう思うと、起こることには全て意味があるという誰かが言ったようなセリフも、自分に超えられないことは起こらないという最もらしいセリフも、ずっと確信をもって私の中に入ってきます。

ということは、易で卦を立てて未来をみることは、未来の私と、未来のあなたと、そして今の私が対話をしているのではないかしら。


もし、本当に未来の私が今の私にメッセージを送っているとしたら?

そんなことを考えていたら、なんだかとても優しい気持ちになって、私は私にありがとうって言いたくなりました。


こんな話は、ただの妄想かもしれないけれど、今、過去の私にメッセージを送り続けたいと思います。それはきっと、でも確実に、あの頃の私に届いている。

だってほら、私はちゃんと、今の私にたどり着いたのだから。

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