「新世界」東方アレンジCD、『蟲と東方と青酸ソーダ』を自分なりに批評するなどする
こんにちは、Lumpyです。
いきなりですが、東方Projectには様々な楽曲アレンジの形態が存在しますよね。ボーカルありやインスト、ロック、メタル、ポップ、エレクトロニカ、ラップ、ブレイクコア等…色々な音楽の枠組みの中で成熟してきた東方アレンジ文化ですが、それまでの東方アレンジの常識を核からぶち壊す衝撃のCDが2007年に頒布されます。
その名も…
「蟲と東方と青酸ソーダ」。圧倒的名盤。
t+pazolite氏の主催のコンピレーション・サークル「蟲とLumpyとミュージックコンクリート」の第二作。
第一作「蟲と東方と毒殺ミルク」もそれなりにインパクトの強いアルバムではありますが、収録曲数がちょっと多いのでまたいつか・・・という感じに。
ちなみに、もうお気づきの方もいるかと思われますが、サークル名、並びにアルバム名の由来は名作ライトノベル「蟲と眼球とテディベア」をオマージュしているものと思われます。
第一作「蟲と東方と毒殺ミルク」と第二作「蟲と東方と青酸ソーダ」は公式サイトから無料でDLできるので、この機会に是非聴いてみることをお勧めします。
1.Nyctalopia Reverse
背後に何か、闇の中でくぐもった、水滴のようなメロディが確実に存在していて、それを押し込めるかのようにカサカサと蠢く、鈍い音が僅かな間断とともにひっきりなしに流れてゆく。水滴が蓄積して、満ちてゆく。神経が逆立ち、不穏が迸る。原型を留められない、広がっていきたい、雑音から解放されたいという、主旋律の願いが世界をジクジクと化膿させて目まぐるしく回る。
音の含む重さや形、色や温度を、まだ誰もが知らない領域へと連れ去る挑戦的な姿勢に引き込まれる。いいなあ。
2.生前の記憶の回収
アルペジオで始まる。回想的な情景を呼び醒ます効果が、仕組まれたノイズと併せて強く作用するのが大きな特徴で、音響感覚に心地よい刺激を与えさせるギリギリを狙い撃ちした精巧な陰鬱音楽が確立されていて非常に芸術的。
主旋律と雑音、というのはトラック1にも共通する要素ではあるが、そのアプローチの掛け方はまったく異なるものである。Nyctalopia Reverseは主旋律よりも雑音を前面に押し出している。だからこそ生まれる閉塞感、祈りが深く心情に滲むのだが、生前の記憶の回収は主旋律、雑音の完全な共生を目指しているのだと私は思う。Nyctalopia Reverseは主旋律を曖昧に否定する、生前の記憶の回収はきれぎれの中でも主旋律を否定しない。違いはそこにあると考える。
Nyctalopia Reverseが剥き出しの暗さを表現しているのだとしたら、生前の記憶の回収が表現していることとは何だろうか。光を追い求める蟲か。闇と溶け合う光そのものか。どちらにせよ、時間は緩やかに加速する。
風音、犬の鳴き声、電車のブレーキ音、時計の針、砂嵐、エコーの他にも終盤、赤子の泣き声が福音のように訪れる。何かが誕生したと同時に、脈動していた時間の減速が始まり、光は閉じていく。旅の終わりを明確に感じられる。美しくて、なんだか寂しい。
意識の混濁、認知の揺れを体現した世界、ミクロコスモスを観測する10分間。音楽の神話的可能性を追求しているとも思われた。
目の前は塞がった。さあ、どうする?
3.暦
レコードの針が飛んだ時のような、ブチッ、ブチッ、という音が一定のリズムを作り出しながら、浮遊している空間を浮かび上がらせる。
この特殊な浮遊感は、墨絵の遠景に似ていると感じた。霞んだ霧の中にも、うねりのある、そんな心象。その時々に、様々な効果音を入れ込むことによって何が表現されていようか。
ベル、人の話し声、鐘、ドアの閉まる音、赤子の泣き声、雨、過ぎていく足音、祈り…。そのどれもが、どうも寂しいのだ。音圧が心許ない。それでなけなしの矜持を表現しているのかな、と思ったりもする。
そして、湧き上がる暴力のような四つ打ちビート。胸にはっきりと傷跡が残るような音。乾いた血は雨で洗い流す。それでもどこかで、暴力は湧き立つ。そうしてカタストロフィが炸裂する瞬間にも、実はベルは鳴り続けている。その凄惨な爆心地に花を添えるように、雨は降り続く。暴力が芽吹くかもしれないし、そうでないかもしれない。
このアルバムの中において、一番神経に触る曲だと思う。常に油断ならない状況。それを慎重に見極める必要がある。この世界において安息を得られる方法はたった一つしかない。それは、痛みと麻痺を願うということだ!
4.スキスキdieスキIシtell
鈍器を引き摺るような旋律に時折混ざる、この機械のような声はフランドールの声を表現しているのか? それとも単なる「少女」か? いずれにせよ、根底に感じられるのは「和」だ。少女性に対する強い憧憬は、意外にも和の典型であるという風に、私は考えている。この声が果たして、男性であったり、若しくはある種の「成熟」の要素を持たされていたとしたらどうだろうか。大きく捻じ曲がったベクトルに、私はまた「和」を感じられるのだろうか。
鈍器を引き摺るような主旋律と言ったが、一気に飛翔する瞬間もないことはない。ただ、やはりそれは結果として閉塞感を助長するための飛び道具として使われているに過ぎないので、逆に、この閉塞感を破ってやろうとすれば、また新たな芸術的世界の暴力表現となろう。
5.夢見幻視
金属質な音のオンパレード。最も西洋的なアプローチを掛けていると私は思う。ディレイ的感覚にも事欠かないが、何よりも機械? が未知の言語でなにかを喋っていることが興味深い。
おそらく、聞き取ろうとするのは無駄な努力だろう。私が思うに、この声の正体とは、有機的なものと無機的なものの間隙に存在している「なにか」であり、結局なんなのか完全には観測できない。
この曲の中の世界は大きいようで、小さいようでもある。なにがなんだかわからないまま、ノイズが残した爪痕だけが壁に遺る。素手で触れば怪我をしてしまうかもしれないと考え、もう一度用心深く聞いてみても、やはりよくわからない。このわからなさの先、または上に何があるのか、という奥底を探求してみたくなる。
しかし、確実に言えることが一つある。神性への道のり。詩人ロートレアモンによる「解剖台の上の、ミシンと雨傘の出会い」を、無意識的にこの曲は志しているのではないか、と思う。意図的にでも偶発的にでも、予想外のAとBの出会いによって生じる摩擦、変化が異化効果を生み、人智を超えた響きを作り出す。その覚醒ともいうべき現象を、新しい生命の誕生、ひいては神の顕在化とも考えていたのが、90年代ドイツの人々であったように感じ、この「夢見幻視」にも、それに通づるものを見つけたような気がした。
6.1045
巨大な駅や空港などで聞かれる、アナウンス? の中をとにかく雑多な音、機械音、逆回転、反響するサウンドに深いエコーなどなど、それらがマルチトラック的に重なり合いながら、心象のひとつとして分断され、元に戻ってループしていくというような構成。最も病的だと感じる。
この曲は現代の環境を表現し、何らかの心情を表現しているものと思われるが、この曲はアンビエントミュージックの定義からは外れているような気がする。環境音、環境風景を作って表現するのではなく、音そのものが「環境」である、そのくらいの定義ができそうか。ヒットソングに限らず、あらゆる楽曲や商業性に対して、それとは真逆の方向性を示すことによって、音楽という壮大なテーマを人類に対し再定義する試み、それこそが環境音楽なのではないか。
それに対し、環境を一から作り直すということはつまり、新世界を創造することに限りなく等しく、音の世界においてその試みを成し得るということは非常に難しいことであるが、この曲はどうだろうか。新世界にしかない風景を切り取れているだろうか。私にはわからない。