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《長編小説》小幡さんの初恋 第二十五回:涙の一夜

 鈴木は激しい言葉で母親を罵る小幡さんを驚きの目で見た。いつもの小幡さんからは絶対に聞く事はない言葉であった。鈴木は小幡さんの突然の怒りに彼女が母親の裏切りにどれほど傷ついたかを思い胸が痛んだ。先ほど小幡さんが激しくちゃぶ台を叩いたせいでコップが倒れてしまい中の水は全て溢れてしまっていた。鈴木は持っていたハンカチで水を拭き取ろうとしたが、小幡さんはそれを止めて手に持っていたらしいタオルで床を拭き出した。

「ごめんなさい。私あの人の事思いと未だに怒りで感情が昂ってしまうんいつもはこんな風に暴れたりはしないんですよ。だけど今日は酔ってるから、すご酔ってるからなんか吐き出したくなってしまうんです」

 小幡さんは畳を拭き終わると顔を上げて、ちゃぶ台に水の入ったコップが置かれているのを見て鈴木を見た。鈴木は彼女に微笑みかけてこう言った。

「まだまだ話したい事があるんだろう?水でも飲んで落ち着きなさい」

 小幡さんは目頭を押さえながら鈴木に礼を言った。そして再び話し始めた。

「私、お父さんが亡くなってから小学校を卒業するまでここにいたんですよ。私お父さんには悪いけどお墓参りする気になんてなれなかった。だってお墓に行ったらお父さんが死んだって認めることになるじゃないですか。たしかに葬式も埋葬にも行きましたけど、時間が過ぎていうちにだんだんお父さんが死んだっていう事実に納得がいかなくなってきたんです。だけどそんな私を無視して現実はどんどん進んでいった。あの人はさっき話したホスト風の男をたびたび連れて来るようになった。私は怖くて男が来る度に外に逃げてた。そんな私にあの人は挨拶ぐらいしなさいって叱ったけどそんなの無視してた。大体あの人とはお父さんが死んでからずっと会話してなかったし、あの人の存在自体どうでもよかったから。そうして三月になったある日、あの人が男を連れてやってきていつものように外に行こうとする私を呼び止めて話があるって言って来た。物凄い顔でキツく叱る調子だったから私震えて二人の前に座って話を待ったんです。あの人は今月中に男と結婚するって言って、改めてこの人が新しいお父さんなのよって男を紹介しはじめた。この人が見かけによらずいい人だとか、お金はあるから心配するなとか。なんとかかんとかそんなどうでもいい事を。私はあまりの自体に言葉が出なかった。こんな人がお父さんの代わりになるわけがない。こんな人をお父さんって呼べるはずがない。私はふざけないでって叫んで自分の部屋に逃げたんです。その私に向かってあの人は部屋の外から言ったんです。三月中に東京に引っ越すから準備しときなさいって」

 ここで小幡さんは話を一旦止めて鈴木を壁の柱の下に案内して刃物でつけたらしい大きな傷を見せた。

「ここに大きな傷あるでしょ?これ私がつけた傷なんです。引越しの時大暴れして……」

 小幡さんはそう言って笑ったが、それはあまりにも悲しい笑いだった。

「本当にあの時はすっごい暴れたな。もう一生分ぐらい暴れた。私嫌だ嫌だアンタたちの所なんて行かない!ここで一生お父さんと暮らすってカッター振り回して暴れたんです。近所の人たちも何事かって駆けつけてきて大騒動になった。騒ぎになっちゃったからあの人たちもしょうがなく一旦引き下がったんです。私お父さんの遺影を抱きしめてずっと泣いてた。だけど疲れたせいで寝ちゃったんです。そして気づいた時には車の中だった。私は手足を完全に縛られてたんです。酷い話ですよ。まるで拉致じゃないですか。でも私はあの人たちと一緒に住む以外道はなかったんです。おばあちゃんはお父さんが死んだショックで病気になってすぐに亡くなってしまったし、おばさんたちにも私を迎えいれる余裕なんてあるわけがない。だから生きるためにはあの人たちと暮らすしかなかった」

「東京に来てから私は港区のマンションに連れてこられてそこであの人たちと暮らし始めました。男はその頃バーを始めてて凄い景気がよかったらしいです。だけどその店の資金って全部あの女がお父さんから騙しとったお金なんですよ。私その店には一回しか行ってないけど店の派手な外観見ているだけで耐えられなかった。東京に来ると早速私立の中学に入れられました。だけど東京にいるのは本当に嫌だった。何もかもがあの人たちと結びついて東京に住んでいる全ての人が嫌いになった。中高とずっと東京だったけど、友達なんて一人も作らなかった。だけどいじめられた事は一度もないんです。私人当たりはいいみたいだし、それに体が急に大きくなったから。だけどいじめじゃないけど一度こんな聞かれたな。「ねえ、小幡さん。あなたのお父さんってホストなの?」って。鈴木さん、そういえば私この間言おうとして言えなかった事なんですけど、私が水泳やり始めたのってただの現実逃避なんです。目の前の現実が嫌になって耐えられなくなって来た時時私思い出したんです。お父さんとプールで泳いだ時水がすっごく気持ちよく感じたのを。このままいつまでも泳いでいたいって思ったのを。それで私水泳部に入ったんです。プールでずっと泳いでいると本当に心が落ち着いた。ただ水に漂っているだけで嫌な事が全て忘れられるような気がした。だから私長距離志望だったんです。別に大会とかそんなのどうでもよかった。ただずっと長く水に浸かっていたかったんです。だけど顧問がお前は短距離の方がいいって言って無理矢理私を短距離選手にしちゃったんです。たしかに私短距離のタイムの方がずっとよかった。しかも泳ぐたんびにタイムを上げていくから誰が見ても短距離向きだったんです。それで仕方なく短距離選手になったんです。だけどそうやって短距離をやり続けてたら、大会に入賞する様になって高校三年の時は都大会で二位まで取っちゃった」

 ここまで話すと小幡さんは大きく息を吐いた。そして鈴木に向かってもう少しで終わりますからぬとすまなそうな顔をして謝ってから続けた。

「あの人たちといるのは本当に耐えられなかった。お父さんを裏切り騙した人間たちと口なんて聞きたくなかった。だから私あの人たちに何を言われようがずっとガン無視してたんです。鈴木さん、あの、お父さんの小さな仏壇あるじゃないですか。あれ、私が学生時代にバイトで貯めて買ったんです。本当はもっといいものにするべきなんだけど、当時は家出する時に一緒にお父さんを連れて行けるようにって考えてたから。それに今となってはこの仏壇自体がお父さんに見えてきてなんか今更買い替えるなんてできなくなっちゃって。実際には家出なんて一度もしなかったんですよ。それっぽい事は一度だけしましたけどね。ただ、ここには一度だけ来たんです。だけど誰かが住んでいるのを見て、悔しくてその場から駆け出したんですよ。ここはあなたたちの住む家じゃないのにって思いながら。それで高校はあの人たちと教師のいうがままに全国でもトップクラスらしい進学校に受験したんですけど何故か受かったんでそこに入学しました。自分はバカだから入れるとは思わなかったけど、多分運がよかったんでしょうね。だけど入っても中学と一緒だった。友達はやっぱりいなくて、でも中学時代からやってきた水泳があるから救いだった。あの人たちは店が忙しくてマンションにいない時がたびたびありました。だけどたまに二人がいる時があって私が帰って来ると、あの人たちはまるで見知らぬ他人を見るような感じのもの珍しそうな視線で人を見るんです。私ももうこの人たちは赤の他人だと思うようになりました。私にはお父さんしかいない。あの人はただ私の母だと詐称してお父さんをずっと騙していたんだとさえ思うようになりました。それとあの男なんですけど、アイツは私と会うたびに変な目で私を見ていたんです。俯向きながら上目遣いで這うような感じで人を見て。私耐えられなかった。こんな男のためにお父さんが全てを失ったことに耐えられなかった。こんな家にはもう居たくない。高校卒業したらすぐに出て行こうって決めました。だからインターハイまで決まっていたのに水泳部も怪我したとか大嘘ついてやめたし、大学に受験するのもやめてバイトを始めたんです。あの人たちは当然反対したけど私そんなの関係なかった。とにかくもう家から出たかったんです。それで結局ここに戻ってきたんですよ。昔の縁を頼りに社長の所に行ったらみんな喜んでくれた。万寿子おばあちゃんなんかあんなにちぃちゃかった子がゴジラみたいに大きくなってとか言って泣き出してくれて。私が求人雑誌片手にここで働かせてくださいってお願いしたらみんないいよいいよって言ってくれたんです。そして社長がこの家が今空き家だから住まないかって。保証人は俺がなってやるからって言ってくれたんです」

 そこまで言うと小幡さんは話を止めて再び頭を抱えた。鈴木はその小幡さんを見て心が痛んだ。彼女を気の毒に思うと同時に離婚した妻に引き取られた息子を思い浮かべたからだ。勿論自分の場合は離婚であり、小幡さんの両親のように死に別れたわけではない。だが母親がすぐに別の男と再婚した事は同じだ。小幡さんと同じように見知らぬ男を新しい父だと言われた息子はなんと思っただろう。幸いにして自分と息子は会って話をする事ができる。だが、彼の悩みに触れた事が今まであっただろうか。息子との別れ際に自分は君を見捨てたりはしないと言った。だが自分は会うたびにその場凌ぎの言葉で誤魔化して真から彼に向き合って来なかった。無論小幡さんの話も彼女の主観で語られたものだから実際にはどうなのかわからない。だが、その話を語る小幡さんの口ぶりから彼女がどれほど傷ついてきたかあからさまにわかる。鈴木は遺影の小幡さんの父を見た。ああ!あんたはさぞかし無念だったろうね。自分が生きていれば娘がこんなになる事はなかったのにと思っているだろうね。だがそれに比べて私は生きているにも関わらず息子を暗に避けていたのだ。愚父とは全く自分のことだ。

「鈴木さん」と小幡さんが呼んだので鈴木は我に帰った。小幡さんは潤んだ目で自分を見つめていた。

「こうして家に帰っては来たけど、でもそこにはやっぱりお父さんはいなかった。幽霊さえ出てこなかった。最近よく思うんです。私、お父さんがいなくなったあの日から何かが欠けてしまった。それで精神的な成長がそこで止まってしまったんじゃないかって。多分私の精神年齢ってずっと小学生のままなんです。体は不必要に大きくなっているのに精神的なものはすこしも成長しないんですよ。それは失ったものが見つからないからなんですよ。私は今までずっとこの部屋でそのかけらを探していたのかもしれない。だけどそうやってかけらを探しているうちに小学校時代の友達はみんな恋したり、結婚したりして大人になっていく。私はただ大人になってゆく友達たちを部屋から眺めながら相変わらず必死になって失くしたかけらを探しているんです。バカですよ。こんなバカ女いないですよ。ただでさえ不細工なのにいつまでも少女じみた妄想なんかして!お父さんだって多分呆れてるよ。いい加減大人になれって言うよ!みんなが私の事処女だって噂してるの知ってます。アラサーが処女なんてお笑いだって笑われてるの知ってます。だけどどうしたらいいんですか!私はかけらが見つからなきゃ大人になれないんですよ!ねえ、答えてよ!お父さん!」

 小幡さんはそう叫ぶと突然鈴木に抱きついて思いっきり号泣した。身を震わせて体中の涙を搾り出しているようだった。鈴木は思わず彼女を抱き止めて背中を摩った。こうしていると小幡さんが本当の娘であるかのように思えてくる。彼女の父親のような立派な人間ではなくないが、父親のぶりぐらいはする事はできる。今鈴木は小幡さんの全てを聞いた。だが自分のような人間に回答できるような話では到底なかった。今の彼に出来るのは父親代わりにこうして抱き止めるぐらいだった。そうしているとだんだん小幡の泣き声は啜り泣きへと変わりそして微かな寝息へと変わった。彼女は寝言で「お父さん」と呟いた。鈴木は彼女の安らかな寝顔を眺めて一安心しとりあえずこのまま寝かせてもうしばらくしたら起こそうと考えたが、その時小幡さんが再び寝言でこう言ったのでギョッとしてすぐに帰ることにした。彼女は甘い声でこう言ったのだ。

「鈴木さん……大好き」

 鈴木はすぐにでも帰らねばならぬと思った。このままここにいたらとんでもない事になってしまう。彼は寝ている小幡さんを畳にそっと寝かせるとポケットからメモ用紙を出して『鍵は郵便受けに入れてます』と書いてちゃぶ台に置くと、小幡さんの父親の遺影に向かって一礼し、それから玄関に放り投げられていた鍵を持って家を出て、郵便受けに鍵を入れると真っ直ぐ自分の家へと向かった。外は春の夜にしては暑くもわっとする空気が漂ってくる。彼は鼻をつく酒の匂いと吐瀉物の匂いで先程の小幡さんとあった事を思い出して体が熱くなってきてしまったのを感じて慌てていかんいかんと頭を振って邪心を追い出した。

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