やどかり書房
東京のとある駅の東口の古本屋街の裏側にやどかり書房なる古本屋がある。この店の建物は失敗した現代建築みたいな法螺貝のような形をしたものであり、入り口はやたら広く奥に進むに従って狭くなっていく作りであった。この建物の持ち主がやどかり書房の主人であるかは定かではないが、しかしやどかり書房とは言い得て妙な建物であった。このやどかり書房の本の並びは建物の形状に沿って並べられている。入り口付近には漫画雑誌や絵本や写真集などの大型本。店の真ん中あたりは単行本などの通常の本。そして奥の店主が座っているレジ付近には文庫本などが置かれていた。実際に店に入って本の背中を見ながら奥へ進んでいくとこの古本屋の特異さがすぐにわかる。入り口はいわば一般向けのものが中心に置かれ、真ん中には人文学関連の本がずらりと並び、そして主人が鎮座する奥のレジのあたりをフランス文庫、富士見文庫などのポルノ小説の文庫が囲っていた。漫画で書物に親しみ、そして知識を高めても、結局は性に行き着いてしまう。そんなある意味で人間というものの有り様を見せられる並びであった。
その店の奥のレジで一日中座っている主人もまた変わった人間であった。会計は非常に無愛想で、代金と本を受け取ると本に自分で作ったらしいカバーをかけて客に渡すのだ。これだけだったらいかにも老舗の偏屈な古本屋の主人にありがちなことだといえるかもしれない。しかしこの主人が真に変わっているのは何があってもレジから動かないことだった。客が高いところに納められている本を取りたいと主人に伝えるのだが、主人は微動だにせずレジの横に立てかけてある梯子を指差して自分で取れと言うのだ。言われた客はその無表情の主人の威圧感に押されて仕方なく自分で本を取らざるを得なくなる。
さて、そのやどかり書房に一人の若者が入って来た。彼はネットでの評判を聞きつけてこの書店に来たのだが、彼の目的はこの書店ではなく、アイドルの写真集目当てだった。彼はネットでこの書店がアイドルのプレミアの写真集を二束三文で売っているとの書き込みを見てすぐにやどかり書房に駆けつけた。若者は店に入ると入り口のあたりを見渡してそれから真っ直ぐ奥のレジに座っている主人の元に向かった。
「ねえ、おぢいちゃん。入り口の上の方にある写真集見たいんだけどキャスターみたいなのある?」
主人はこのいかにもろくに普段本を読んでなさそうな馬鹿面の若者をチラリと見るとうざそうな顔で近くに置いてある梯子を指差した。
若者はこの主人の態度に腹が立った。いつも行っているブックオフの店員にはこんな無礼な態度を取られた事はなかったのだ。気の短い若者はブチ切れて店主を怒鳴りつけた。
「おいジジイ!お前さ。その態度はなんだよ!それがお客さんに対する態度かよ!お前何様のつもりだよ!」
「何様も何もワシはこの店の店主だが……」
「んなことはわかってんだよジジイ!俺はテメエがお客さんにそんな態度とっていいのかって聞いてんだよ!」
そこまで言うと若者は店にいる他の客に同意を求めた。
「なぁ、アンタたちだってそう思うだろ?高級レストランでもあるまいしこんなボロい古本屋が調子こくんじゃねえよ。そうだ。ジジイ許してやるからお前がハシゴで俺の欲しい写真集探せ。ホラ、金ならいくらでも出すからよ。まっ、俺の言い値だけどな」
この若者の図に乗りまくった言葉を聞いて他の客は青ざめた。皆微妙に若者から距離を取り始めた。
「んだよお前らこんなジジイにビビってんのか?俺はな高級レストランでもねえくせに調子こいてるラーメン屋とかこういう古本屋みてえなのが大嫌えなんだよ!ジジイ、わかったら俺の言うこと聞いて本探せ!」
しかし主人は若者の恫喝を聞いても全く表情を返すただこう答えるだけだった。
「ワシにそんな事は出来ない。やるんなら自分でやるんだな。梯子は貸してやるから」
「貸してやるだあ!テメエさっきから俺の話をどう聞いてんだよ!俺はそういうお前の偉そうな態度がでえきれえだって言ってんだよ!俺はお客様だぞ!お前んとこの腐れ本を買ってやろうとしてるんだぞ!お前はそのお客様にありがとうございますとか礼の一つも言えねえのかよ!一体その年まで何を学んで生きてきたんだぁ!」
「出来んと言ったら出来ん!ワシは体が動かんのだからの!」
主人の言葉に若者は思いっきり笑うと、主人に向かって言い放った。
「動かないからできない?じゃあ盗みたい放題じゃん。よ〜しわかった。俺そこの梯子使って本マン引きしまくってやるわ。まぁその動かない体でテメエの商品が盗まれてゆくのを見てるんだな!」
この若者の言葉を聞くと主人は顔に真っ赤にして「ワシの大事な本に何をするか!」と叫んだ。その叫びに反応して店が大揺れに揺れた。他の客たちは危険を察しすぐに店から脱出した。いきなりの大地震に訳がわからなくなっている若者は自分も逃げようとしたが、しかしいきなりの地震に腰が抜けて立てなかった。彼は自分のところに近づいてきた主人を見だが、その姿のあまりの異様さに驚愕した。
なんとレジを持った主人が何かの乗り物……いや、それは乗り物ではなかった。馬鹿でかい尾っぽを支えに立っているではないか。尾っぽは赤黒い幹のようなもので太い血管がその周りをびっしりと這い回っている。主人は尾っぽを若者に擦り付けて言った。
「ワシは二度と奥から出たくなかったのに、貴様のような礼儀知らずのせいでまた出てしまった!なんじゃさっきまでの勢いはどうしたんじゃ?ワシに本を取らせるんじゃなかったのか?」
「ああ……あ、あなたは人間なんですか?」
「見ればわかるじゃろ!ワシはやどかりじゃ!だからワシは動きたくなかったんじゃ!こんな醜くそそり立った尾っぽなんて見られたくないからのう!」
「ぼ、僕を食べないで!お願いします!」
「アホか、ワシはお前を食べたりはせぬ。ただちょっとお仕置きをしてやるだけじゃ」
「お仕置き?」
主人は怯えた若者がこう発した瞬間尾っぽを血管ごと膨らませて微笑んだ。
「そうじゃ、お仕置きじゃ。外のみんな悪いが今日は店じまいじゃ。今日は一晩中この若者をお仕置きせにゃならんからな」
そう言うと主人はいきなり入り口の貝の蓋を下ろした。
早めの店じまいとなったやどかり書房の前で避難していた客たちは蓋の閉じた店の中から漏れる何かが水っぽくぶつかる音と若者の絶叫を聞きながら会話をしていた。
「あの人があんなに怒るのは久しぶりだね」
「よっぽど腹に据えかね他のだろうか。いや久しぶりにお仕置きのしがいのある若者に出会えたからなのか」
「だが、あの人はやどかりのくせにどうして人間社会に適応できたんだろう」
と客の一人がつぶやいた。すると別の客が彼の呟きに対して答えた。
「それは彼がやどかりだからじゃないかな。やどかりは他の生物からものを借りて生きているだろ?彼にとっては我々人間の体を借りるなんて造作もない事じゃないか。いや……」
ここまで言うと男はいつの間にか甘みを帯びてきた若者の絶叫にしばし耳を傾けてからこう締めた。
「我々だってもしかしたら人間の体を借りたやどかりかもしれないんだから」